連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」③
続きです
(1995文字)
私はテーブルの上に買ってきたチョコレートを置き、しばらく眺めてみる。アルバイトの女性がくれた小さな透明の袋の中の欠片を手の上にのせ、まじまじと見つめ、香りを嗅ぎ、そっと指先でつまみ口の中に入れてみる。苦い。苦いけれど、心がほんの少し軽く弾む。
ここは拓也と住む家なのに、板チョコレートの青と黒のツートンの包装を見ながら、彼のしなやかな指先を思い出し、彼もこうやってめくるのだろうかと思いながら、銀紙をピリ、とめくる。
私はひとかけらを口に運ぶ。
キリッとしたような苦味に一瞬びっくりした。
口の中にカカオの香りが広がってくる。目を閉じて、それが静かに長く残っていることに頬がゆるむ。溶けていくそれに、見たこともないベルギーの土や木と、くすんだような赤茶けた髪の彼が重なっていく。
私は拓也の目に触れない棚にしまい、毎日ひとかけらずつ、口にしていく。
その週、彼は私の店には現れなかった。
金曜日、少し気の抜けたまま商店街を歩いていると、小さな器屋に彼が入って行くのが見えた。
思わず足が速くなる。店の近くまで行ってみて、小さな袋を持つ彼の背中を見送ってから、中に入ってみた。
土の匂いのする狭い店内には、所狭しと陶器が並び、どれもが出番をひっそりと待ちわびているようだ。
「いらっしゃい」店の奥から店主が穏やかに声をかけてくる。
「こんにちは。少し、見せてくださいね」
彼は何を選んだのだろう。
私は一枚の小さなお皿に吸い寄せられ、手に取ってみる。
それは濡れたような深い緑に少し青を含んだ色だった。
「それは、美濃焼きだね。いい色でしょ。つるりとして手に馴染む。さっきも同じものを選んだ人がいてね。今日は妙な日だ」
胸の奥で、コト、と小さく何かが触れた。
「……これにします」
夕方の商店街の喧騒から離れたマンションの部屋の中は、少し冷んやりとして気持ちがいい。
私は手を洗い、大切に包みをほどく。
テーブルの上にエメラルドグリーンの美濃焼きの小さなお皿を置いて、その日食べるつもりのチョコレートのひとかけらを、ことりと真ん中に乗せてみる。
お皿の上のそれはどこまでも乾いているのに、カーテンの隙間から入る淡い光のせいなのか、緑の色がわずかに揺れて、目が離せない。
次に彼を見かけたのは古書店だった。
私は気がつけば、彼の足跡を辿るように歩いていた。
あの騒がれていた事件は、数日遅れて動きがあり、
遺体が見つかったと伝えられている。警察は事件と断定したらしい。それは、隣町の女子高校生だった。誰の胸にも薄く影を落としたまま、犯人はまだ見つかっていない。
カレンダーは六月に入ろうとしている。
雲が低く垂れ込めて、湿度を含んだ生ぬるい空気が肌に纏わりつく。商店街の中ではいつも通り朝が始まっているけれど、曇天にぼんやりした不安がちょうど重なっているようだ。
拓也を見送り職場に向かう。
いつも通り商品を並べ店内を整える。
若い母親が三歳ぐらいの娘と手を繋ぎ店に入ってきた。母親が手を離したあと、退屈したのか小さな子どもが走り出し、床に足を取られ、商品を整理していた私の後ろで尻餅をつく。仕事をしながら気にかけていた私はあっと思い、慌てて後ろを振り返る。子どもはびっくりしすぎたのか手を上げたまま、泣きもせず私を見上げている。
その手を引っ張ろうとした瞬間、ふいに既視感が走り、手が止まる。
どうしよう。
ほんの一瞬のことだった。
隣からさっと抱き起こしてあげる人がいた。
母親が戻ってきて「ありがとうございます」とお礼を言い、子どもを抱いてその場を離れていく。
私もほっとして、遅れて「ありがとうございます」と頭を下げた。
赤茶けた髪が揺れた彼だった。
「いえ」そう短く言ってその場を離れる彼の後ろ姿に、顔がかっと熱くなる。一瞬躊躇したところを見られてしまった。
勤務を終え、外に出ると、朝からの曇り空が煙るような雨に変わり、外の街並みや街路樹がうっすら白く滲んでいる。商店街のアーケードに入るまでは、もうしばらく歩かないといけない。小さな折り畳み傘をさして、私は霧のような雨で滲んだ赤信号の前で立ち止まる。
私は心の錘が重くても、触れないように生きてきた。なのに、さっきの躊躇は何だったのだろう。過去は少しずつ、遠い記憶に置き換わっていく。それなのに、不意に記憶に触れてしまった。
犯人はまだ見つからない。女の子は最期に何を見たのだろう。
拓也はこんな雨の日もきっと帰ってこない。
私の目に涙が滲む。……変なの。
今日は金曜日だからって、今に始まったことじゃない。私は目頭を人差し指でくいと拭い、青信号を渡っていった。
商店街のアーケードの下に入り、傘の先で雫を払う。
濡れた地面から、雨のむっとするような匂いが立ち上る。そこへ、どこからか漂ってくる揚げ物の匂いと混じり合い、逃げ場のない不快感が、ゆっくりと絡みつく。
続く
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