連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑥
続きです
(2773文字)
扉の奥に入った瞬間、彼と私の手ははらりと離れ、私は「あっ」と小さく声を漏らし、その音を飲み込んだ。
小窓から、ほんのわずかな光が差し込む小さな茶色い箱のような部屋。
壁には額に収められた小さな鉛筆画がいくつも並び、そこに描かれた人の顔が一斉にこちらを見ている。
アトリエって……このアトリエだったの?
部屋の中はコーヒーの香ばしさと木の匂いに、どこか乾いた気配が重なり、ほんの少しだけ埃っぽさが漂っている。
少し落とした灯りの部屋の真ん中で、先程の女の子がぽつんと椅子に座って待っている。
「あみちゃん、お待たせ」
彼は私を置いてけぼりにしたまま、彼女の前に座り、スケッチブックに鉛筆を走らせた。彼女の目にあった強い光が、しだいにやわらいでいくように見えるのは気のせいだろうか。
私の存在は、最初からなかったみたいだ。
彼女はただ真っ直ぐに彼を見つめている。その視線を受けとめるように、彼もまた目を離さない。まるで、この部屋にはもう二人しかいないみたいに音のない空気に包まれている。
シャッ、シャッーー。
影でもつけているのだろうか。静かな部屋に彼の持つ鉛筆の音だけが響いている。
彼の白い手が動くたび、紙の上に彼女が生まれ、その光景に少し嫉妬を覚えそうになり、息が苦しくなってくる。見つめ続けることに耐えられなくなって、私は視線を外し、壁面をなぞりながら静かに歩いていった。
たまに男性もいるが、ほとんどが女性だった。
若い女性から老婆まで……彼が出会ってきた人たちなのだろうか。
さっきまで感じていた乾いた匂いが、急に濃くなる。女たちの目の奥に、かすかな息づかいのようなものを感じて、私はそっと目を離す。
ところどころに、小さな静物画も飾ってあり、私はそこで足が止まる。
鉛筆、タオル、靴下、チョコレート……
それらは見覚えのあるものだった。
鉛筆、タオル、靴下は、私の店で買われたもの。チョコレートは私が口にしたものと同じ、ひとかけら。
私は自然に笑みが浮かび、部屋をぐるりと見渡した。部屋に入って左側にはもう一枚、扉があった。小窓からはカーテン越しの淡い光が落ちていて、焦茶色の床が小さく軋む。カーテンは色褪せ、床はところどころ剥げている。
部屋の片隅には、後ろを向いた額縁がいくつも立てかけられている。
これから絵が入るのだろうか。
それとも、もう、描かれている途中なのだろうか。
「終わったよ。お疲れ様」背後で声がする。
女の子は満更でもない顔をして、彼が破いて渡したスケッチブックの一枚を覗き込んでいる。
「やったー。嬉しい。これ、お守りにする」
「あみちゃんは大げさなんだから。気をつけて帰るんだよ。今ならまだ外は明るいから」
「うん。ありがとう。修さん、またね」そう言って、彼女は私をちらりと横目に見て、髪をなびかせながら帰っていった。
私はその姿が額縁に収まらなかったことに、少しだけほっとした。
「ねぇ、あの子大丈夫かな……」
私はふと、その言葉を口にしてしまった。
「犯人、まだ、捕まってないんでしょ。一人でこんな丘の上まで……」
「……今の時間、少し坂を下れば学校帰りの生徒も多いはずなんだ」
彼はそう言って、視線を遠くにやった。
「この坂の途中、右に折れた奥に高校があったでしょ。そこの子だよ。母親とも知り合いでね」
私に優しい眼差しを向けて「今日、初めてひとりで来たんだ。母親には僕から連絡しておくよ」と続けた。
「でも、でも……」
私は次の言葉を口にできない。
「……本当は僕のこと、そんなふうに見えてる?」
私は少し後退りをする。
「僕はあなたにとって、怪しすぎるよね」
彼はかすかに笑う。
「少し話そう。コーヒー、淹れるね」
と言いながら、カウンターの奥へ入っていった。
私は慌てて声をかける。
「私、タクシー代を持ってきただけなんです」
彼はちらりとこちらを振り向き、カウンター越しに顔を近づけた。
「……だけじゃないでしょ」
そう言って、彼は目元を緩める。
その視線は、ほんの一瞬だけ外れなかった。
乾いた赤茶けた髪がさらりと揺れ、彼はまた豆の方へと戻っていった。
豆を挽いた瞬間、甘く乾いた香りがふわりと立ちのぼる。
「あの……仕事はいいんですか?」
「気になることばかりだね」
彼は少し笑って、粉に湯を注ぎながら言う。
「僕は昔から体が弱くてね。好きなことを、好きにやっているだけだよ」
それからこちらをちらりと見て、少しだけ肩をすくめる。
「それに僕は、あなたの店では一つずつしか買わない。ちょっと面倒な客かな」
「面倒だなんて、そんなこと……」
「そんなことあるでしょ?もう一人のパートさんにいつも睨まれる」
彼は小さく笑って、コーヒーを置いた。
「……あなたが話さず目で訴えるから……」
私は小さく反論する。
「変な人だと思われる……でも、あなたは気づいてくれた。僕はそうやって、人を見てるんだ。どんな人なのか」
私の目を見つめる。
「余計に怪しいか」
彼は喉の奥で小さく笑った。
つられて私も吹き出した。
気づけば、彼と顔を見合わせ笑っていた。
知らない人と、こんなふうに笑ったのは久しぶりだった。
「良かった。笑ってくれて」
彼はやわらかく微笑んでいる。
「どうして私を気にかけるんですか?」
「何だか……懐かしい」
懐かしい?
そういえば、彼の涼やかな目元、遠い昔、どこかで見たような気がした。
でも、昔のことは全て閉じ込めている。
開けたくない記憶。
「懐かしいわけないでしょ」
「そうだね……あなたが笑顔でいつもそつなく仕事をしているのに、なぜか誰にも心を開いていないように見えて苦しくなる……」
「どうしてあなたが苦しくなるの?」
「……絵を描く人間だからかな」
彼は、何を言っているのだろう。
「今度、絵を描かせてよ……」
「絶対嫌」
「見られるのが、そんなに嫌?」
「だから、何もないって」
……前と一緒だ。来るんじゃなかった。
お金を置いて出て行こうとする私の手首を、彼が掴んだ。
その瞬間、手首に彼の体温が伝わって、どきっとする。
「ごめん。謝るよ。仲良くなりたい。きっと、いい友達になれる」
そうかもしれない。
こんなに声を出すのは、いつぶりだろう。
主人の前でも感情を出さない私が、ましてや知らない人の前で言葉に振り回されている。
そんなこと、今までなかった。
私はふと肩の力が抜けて、椅子に腰掛けた。
彼は冷めたコーヒーカップを静かに奥へ下げた。二杯目のコーヒーの香りが漂ってくる。
たくさん、話したいことがある気がする。
でも、何を話したいのか分からない。
目の前で、新しいコーヒーの湯気が揺れている。
何かが静かに満ちていくようだった。
気づくと、涙が頬を伝っていた。
彼は何も言わず、私の頬をそっとおしぼりで拭う。
その仕草がとても優しくて、私は彼の白い手に、自分の手を重ねた。
ずっと触れてみたかった、気がした。
続く
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