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連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑬


続きです          
              (3520文字)


滲む視界の先の靴を見て、私はぼんやり顔を上げた。頭の上で雨の音が消えた。

「修一……さん……」

「由香里さん、どうして……早く中へ」
抱きかかえられた私は、濡れた衣服越しに彼の体温まで奪ってしまう。彼の息だけが温かい。

「少し待ってて」
彼は慌てて奥へ消え、戻ってくると大きなタオルで私を包んだ。
濡れた髪をほんの少し乱暴に拭ってくれる彼の胸に、私は額を預けそうになる。


「大丈夫?シャワー浴びたほうがいいよ。風邪をひくといけない」
浴室の中は白い湯気がたちのぼり、曇った鏡の向こうに私は映らない。頭から熱いシャワーを浴び、滴るお湯が、排水口に吸い込まれていくのを見ていた。
私は洗い流しにきたのだと思った。

脱衣所にそっと置かれたタオルと彼のリネンシャツ。
私はそのシャツを手に取り、そっと顔を押し付け匂いを嗅いだ。いつもと違って、ほのかな石けんの香りがする。指の先まで隠すように袖を通すと、彼に触れられているような気がした。

「髪、乾かしてあげるよ。おいで」
私はうなずき、彼に言われるまま身体を預けた。

彼と私の間には、多くの言葉は要らなかった。

彼の指が髪の間を通り抜ける。
何度も何度もその指が私を撫でていく。
溶けてしまいたくなった私を、目の前のピンクのガラス玉が見つめているようで、息が苦しくなってくる。

外の雨にドライヤーの音が混じる。
彼と二人、何もなかったように、どこかへ吸い込まれてしまいたかった。
私は彼を深く知ることもなく、知ろうともせず、ただ惹かれるままにアトリエに向かわずにはいられなかった。
彼は私を……どう思っているのだろう……


「この前の続き、描いていい?」
彼は私の返事を待たず、その白い指先で、今着たばかりのシャツのボタンを外していく。
「あれから僕は絵を描かなかった……由香里さんの全てを描きたいんだ」
彼は私の髪を優しく撫でて、自分の胸に抱き寄せた。それから大事そうに私の肩をはだけて静かにシーツへ導いた。

彼は鉛筆を持たず、私の髪、おでこ、頬、耳、うなじ……順に触れていく。彼の指がまるで絵を描いているように、私の線をなぞっていく。
彼の乾いたような赤茶けた髪から、雫が見えた気がした。
「僕の母はね、姉が亡くなってから精神を病んだんだ。病弱の僕から片時も離れなくなった。最初は僕も母とずっといれて嬉しかった。でも……大きくなるにつれて、息苦しくなった。母を追い詰めたのは、僕かもしれない……」
彼の言葉が耳に落ち、手が私の胸に届いた頃、涙が次から次へと溢れ出してきた。
「……」
何かが絡まり、声にならない。

でも、ちゃんと言わないとーー

「……全て、私のせい……私があの日、あの山にまりちゃんと行かなければーー
修一さんのお姉さんは亡くならなかった。
お母さんも精神を病んだりしなかった……
修一さんももっと楽に……ごめんなさい」
気づけば私は肩を震わせ泣いていた。
彼の手は私の手を握っていた。

私は思い出したのだ。

彼と似た、まりちゃんの優しげな目元をーー
あのキーホルダーをーー

「まりちゃん、親友の証。はい。お揃い。まりちゃんはピンク。私はブルー。遊ぶ時、必ずカバンにつけてきてね」
「えっ。嬉しい。次からつけてくるね」
そう言ったのにつけてこなかったから、あの日私は怒ったんだ。
「まりちゃんの嘘つき。つけてくるって言ったじゃん」
まりちゃんは悲しそうな顔をして「ごめん」と言った。
「ふん」と私はそっぽを向いた。
だから、運動が苦手で本当は嫌なのに、まりちゃんは、私に付いてすべり山を登ろうとしたーー

重なった彼の手から、微かな湿り気が伝わってくる。

「……あれは事故だったんだ。由香里さんは、姉の手を掴もうとした。でも、届かなかったんだ。僕、見ていたんだよ。三階の窓から」

彼は私の身体を起こし、背後からタオルでくるみ抱きしめたまま、私の耳元で続けた。

「ごめんね。今まで言えなかった……言ったら、由香里さんにもう会えない気がして……最初はわからなかった。でも、何故か気になって……少しずつ……姉が当時、あなたの名前を『ゆかりちゃんが、ゆかりちゃんが』って、家の中でよく言っていた。友達もいない僕はとても羨ましかった。姉がキーホルダーもらったって嬉しそうに言うから、ちょっと意地悪をして、僕が隠したんだ。
ゆかりちゃんがくれたのにどうしようって、泣きそうになっていた。姉は由香里さんがとても好きだった。
……ごめんね。あれが僕にとって姉の形見になっちゃった……」

彼が三階から見ていた記憶が本当のことかわからない。でも彼の気持ちが嬉しかった。

涙で顔がぐしゃぐしゃになり、私は子どもみたいに泣いた。私はまりちゃんが空に浮かんだあの日だけ怖くて泣いた。それからは泣けなかった。
一生分の涙を流している気がした。

私を抱きしめている彼の指先も少し震えている。彼と私は同じだった。
私が開いていくことに、彼も赦されていたのかもしれない。
彼は私が泣き止むまで、ただ、抱きしめていてくれた。


泣き止んだ私の頭を、彼は何度も撫でてくれた。
「辛かったよね……もう、いいんだよ」
彼の柔らかい声は、私の心の底でじわりと広がり、胸の奥に沈んでいた錘が少しずつ浮いてくる。

ガラス玉がきらりと微笑んだような気がした。


雨の音が少し小さくなって、彼が私のうなじに顔を寄せてきた。
彼は私の向きを変え、鳥が啄むように、口づけをした。おでこやまぶた、髪……鉛筆を持たない鳥が、私の全てを愛おしそうについばんでくる。

私は我慢できずに彼の服に手をかける。
ずっと触れたかった赤茶けた髪。頼りなさげな頬。細い首すじ。温かい胸……

急に雨の音が激しくなり、二人を深い海の底へ連れていく。彼の熱い息が肩に落ちる。
届かないはずの光が差し込み、思わず彼の背中にしがみつく。ぬるくて気持ちのいい水の中、とろけた身体は離れないまま、どこまでもたゆたっていく。
肌に触れるシーツはよれて汗ばんでいる。

口を塞がれているのに、何故、こんなにも息が出来るのだろう。耳の奥がほどけていく。

こんなに優しくて、開かれた海の底は初めてだった。

私は泣きたくなるような彼の匂いを忘れないように、胸に顔を押し付けた。
その夜、二人離れないように抱き合って眠った。


夜明け前、小さな灯りの中で目が覚めた。
雨の音はしなかった。
私の枕元で、服を整えた彼が鉛筆を動かしていた。

トントン……シャッシャッ。 
シャー、シャー。

私はその音に安心して、また、うつらうつら、眠ってしまった。

小窓から差し込む朝日と、彼の挽かれた豆の香りで目が覚めた。

「おはよう」
どちらからともなく言葉が重なった。

枕元には綺麗に畳まれた昨日の私の服が置いてある。
「修一さん、ありがとう。何だか恥ずかしい……」「後でカウンターまでおいで」
泣いて目が腫れた私の素顔は酷いものだろう。
鏡に向かって笑いたくなった。

私は身支度をして、隣の茶色の部屋で足が止まった。初めて部屋の真ん中にある椅子に座ったあの日が、遠い昔のように感じる。
鉛筆や木の匂いを忘れないように目を閉じて、体で感じてみる。
あの日と同じように、壁をなぞりながら静かに歩いてみた。モデルの女たちの、目の奥に感じたかすかな息づかいは、静まり返っている。

後ろを向いていた額縁が、初めて前を向いている。

懐かしい笑顔……

(まりちゃん……ここにいたのね)

「由香里さーん、コーヒー淹れたよ」

(……弟が呼んでるわ。いくね、まりちゃん)


カウンターに、焦茶のカップと美濃焼きの皿が置いてある。
皿の上にはひとかけらのチョコレート。
全てはチョコレートから始まった。
胸にツンとくるものがあり、私はなかなか手を伸ばせなかった。

「修一さん、ありがとう……これが最後のコーヒーになるね」

「……由香里さん、一緒に生きていかない?」

「……ううん、それは出来ない。私、ちゃんと前を向くね」  

「そうだね……僕は絵を描くことしかできない。今までもこれからも……お元気で」

長い間、手が離れなかった。

彼はふいに手を離し思いっきり私を抱きしめた。

「きっと、姉はこうしたかったんだと思う……僕も……」

「……私も」

抱きしめても、抱きしめても、まだ足りなくて。
また涙がぽろぽろと溢れてくる。

「ありがとう」そう言って、私はそっと身体を離した。

思いっきり目尻を下げて笑うと、彼も同じようにくしゃりと笑った。
くしゃくしゃになった泣き笑い。

私の好きな彼の顔。
……まりちゃんの顔。



バイバイ。私を見つけてくれた人。
バイバイ。私の過去をほどいてくれた人。
バイバイ。

きっと、とても好きになった人。


彼に手渡されたスケッチブックを抱え、私は外へ踏み出した。



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