連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑤
続きです
(3024文字)
雨は上がったけれど、路面だけが取り残されたように黒く濡れている。まるで私の中が映し出されているようで、目を逸らしたくなる。
ーー今日はやけに長い。
私はマンションの扉を閉めるなり、ばさっと荷物を落とすと、灯りもつけないままソファにうずくまる。気づけば頭の芯まで暗くなり、そのまま眠ってしまっていた。
「大丈夫?」
今日、この言葉を聞くのは何度目だろう。
遠くにあったはずの声が、私の頭上に落ちてくる。一瞬眩しくて目を細め、視線が合った途端、はっとして飛び起きた。
「拓也!」
「ただいま。電気もつけずにどうしたの?大丈夫?」
「あっ、ごめん。頭が痛くて横になったら寝てしまっていたみたい」
いつもの拓也のように言い訳をしている、と思いながら、私はどこか焦っている。
「そうなんだ。LINEも既読がつかないから心配したよ」
拓也のこと、頭から離れてた……
「ごめんね……今日もお付き合いがあるのかと思ってた……」
「そんなそんな、いつも付き合ってたら体が持たないよ。せいぜい、月に一、二度ぐらいじゃない?」
拓也はそう言って笑っている。
ーーまた今夜もいない。
外泊なんてしなかった人がするようになったから……私がそう思うだけなのだろうか。
拓也は何も変わっていないのだろうか……
「今日はもう、外に食べに行こう」
「うん」
ベッドから抜け出た朝の光は柔らかいのに、空気はほのかに潤いを含んでいる。
拓也も私も、そんなにこだわりはない。
私は二人分のコーヒーを用意する。
カップの縁に紙の耳を広げ、ゆっくりとお湯を注ぐ。背中の方で、拓也が小さく寝返りを打つ。
昨日までの憑き物が落ちたような、静かな朝だ。
昨夜の会話を思い出す。
「兄貴のとこ、無事三人目、産まれたらしいよ。女の子だって」
「そうなんだ。良かったね。お祝いどうしようか」
「遠いし顔も見に行けないから、また、送ればいいんじゃないかな」
「そうね。そうしようか」
拓也は、私と外の世界とのあいだに、そっといてくれる。
余計なことは聞いてこない。それが居心地がよくて、私は拓也のいる場所でだけ、何も考えずに息をすることができた。
その静かな日々を壊したくない。
だから、問いただせない。
「由香里、今日はその少し先の公園でマルシェをやっているみたいだよ。いいお天気だし、行ってみない?」
「うん。いいね」
久しぶりに、二人で過ごす休日になる。
「うわぁ〜」
柔らかな日差しの中で、水色、ピンク、赤、黄色……カラフルなテントが並んでいる。
家族連れで賑わい、あちらこちらで花がこぼれるように笑い声が揺れていた。
ハンドメイドの店があちこちに並んでいる。
木で出来た小物に、フラワーアレンジメント、衣料、クッキー、小さなアクセサリー……
私は小さなアクセサリー屋さんの前で足が止まる。ガラスのような一粒の青に、吸い寄せられた。
「……きれい」
それはネオンブルーアパタイトのピアスだった。
「天然石なんですよ。ひとつひとつ色が違っていて」
店に立つ、ミディアムヘアの女の子が穏やかに声をかけてくる。拓也は「気に入ったの?買ってあげるよ」と言って、さっと手にとった。
「……ありがとう」
私は拓也の顔を見て、微笑んだ。
拓也が嬉しそうに私の耳元で囁く。
「お昼、何を食べようか」
奥にはキッチンカーが並んでいる。
どこからか、香ばしい匂いと甘い香りが漂ってきて、そのたびに足を止めてしまう。
ビール、焼き鳥、コロッケ、クレープ、アイスクリーム……どこも魅力的でわくわくする。
お店を一軒一軒覗く拓也の後ろ姿は軽やかで、楽しそうで、どこか可愛らしい。
カップのビールと、紙コップに入った唐揚げを拓也が持ち、私は二人分の焼きそばを抱えて公園の隅の芝生に向かう。
拓也はビールをぐびっと飲み、「美味しい〜」と声をあげる。唇に、少し泡がついている。
その顔を見て私は吹き出した。
今日の空はやけに高く、たまに通り抜ける風が心地いい。
拓也は穏やかで、日向がとてもよく似合う。
そんなところに私は惹かれていた。
帰り道、ふと聞いてみた。
「商店街の中にさ、チョコレート専門店あるでしょ?」
「あぁ、ちょっと狭くて、暗そうなところね……」
「一度、覗いてみる?普段食べないようなチョコレートがあるみたい。」
「カカオ80パーセントとか、そんなのじゃないの?僕はいいかなぁ〜。普通の甘いチョコが好きだから」
「そうだよね。拓也は」
「ん?由香里が行きたかったら、行ってもいいよ」
「ううん。私もやめておく」
その夜、拓也は私を求めてきた。
私は拓也を繋ぎとめるため、たまに受け入れる。
最初の頃から私の体は応えない。
いつも無になって、彼が達してくれるのをそれらしい顔をして、ただ待っている。
でも今夜は……
コーヒーの粉をひとつまみした、あの白い指がふと浮かびあがり……
……ほんの少しだけ、違った。
あの日から、アトリエの彼は、なかなか私の店に現れない。
私はタクシー代を返そうと、毎日カバンに忍ばせている。
本当は……それだけじゃないと、わかっていた。
二週間目の金曜日、確かめるように、私はタクシーに手を上げる。
彼がいるのかどうかもわからないのに、どうして、こんなにも気が逸るのだろう。
梅雨の合間に訪れた、束の間の晴れに、ほんの少し心が緩む。
タクシーを降りて私は深く息をする。
雨を含んで艶のある緑の葉が、あちらこちらからこちらを窺っている。
濃く深い緑の匂いにさらわれそうになり、一瞬私はドキッとする。そのまま、辺りをぐるりと見渡した。
坂の下の洋館は、窓を閉ざし、白い壁だけがぼんやりと浮かび上がっている。深い緑に囲まれ、ひっそりと息を潜めているようだった。
アトリエの前に、自転車が一台停まっている。
中に誰かいるのだろうか。
扉の前には「CLOSED」の札が、今日はわずかに傾いている。
窓から見える店内に、人影はない。けれど、明かりはついているようだ。
この前の私のときと同じように、誰かの貸し切りにしているのだろうか。
私は、タクシー代を渡して帰るだけーーそう思いながら、扉に手をかけ押してみた。
カランカランカラン。
音を聞きつけた彼が、少し乾いた甘い匂いをまとって奥からやってきた。この前腰に巻きつけたエプロンを、今日はつけていない。
「いらっしゃい」
チャコール色のパンツに、生成りのシャツを着た彼が、目尻を下げ微笑みながら立っている。
背の高い彼に小動物でも見るような目で見られている気がして、私は恥ずかしくなり、落ち着かない。
「すみません、お休みのところ。あの……先日はタクシー代、お世話になって。ありがとうございました。今日はそのお返しに来ました」
彼はそれには応えず、「どうぞ」と手で促した。
「あの……これ……」と言いかけたところで、奥の扉が開き、制服姿の女の子がひとり現れた。
女子高生?
どうしてここに……
「修さん、まだー?」
「ごめん、ごめん。お客さん」
さらりと長い髪を揺らすその女の子は、大きい瞳で私を認めると、「ふーん」とだけ言って、奥へ引っ込んだ。「そうだ、あみちゃん。描いてるとこ、ちょっと見せてあげてもいいー?」
彼は扉の向こうに声をかける。
「別にいいけどー」奥から気のない返事が返ってきた。
「あなたに見てもらいたいんだ……こっちに来て」
彼はいきなり私の手を掴んだ。
「えっ、私、これを渡しに来ただけなんだけど……」
「いいから入って」
彼の体温が手から伝わり、私の思考は、
そこで止まった。
続く
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