連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」④
続きです
(3901文字)
雨の日のアーケードの中は、これで雨に濡れなくていいとほっとしながら、皆の傘から落ちる雫のせいか、足元が滑りそうで心許ない。
左側にあるパン屋を通り過ぎようとしたその時、扉が開き、小さな男の子が駆け出してきた。
思わず身を引いた瞬間、踵が赤いコーンの台に引っかかり、よろけてコーンにぶつかった。
「痛っ……」声にならない声が漏れる。
左足をさすりながら、何かが煮詰まったように胸の奥が重くなり、私はそのまま俯き、やがてうずくまっていく。先ほど拭った涙が、また戻ってきそうで嫌になる。
「大丈夫ですか?」
「えっ?」
驚いて顔を上げると、手を膝につき、私の顔を覗き込むようにした人と目が合った。
赤茶けた髪がまた、揺れている。
差し出されたその白い手に、一瞬懐かしさを覚えながら、それを無視して私は慌てて立ち上がる。
「あ……すみません、こんなところ……」
私は顔が熱くなる。
「大丈夫なら良かったです」と言いながら、倒れたコーンをさりげなく起こしてくれた。
「家、この近くですか?」
「えっ、あ、はい」私は反射的に答えていた。
「……チョコレート、コーヒーに合いますよ。コーヒーはお嫌いですか?」
「えっ?」
唐突な話に私はついていけない。
「僕、お店やってるんです。少し、寄っていかれませんか?」
「ええっ?」
乾いたチョコレートが陶器の中で、こちらを見ている。
今夜はどうせ一人だろう。
家に帰っても、私の胸の中はずっと落ち着かない。
コーヒー、いいかもしれない……
私は彼に導かれるようについていった。
商店街のアーケードを抜けると、雨は相変わらず漂い、濡れたアスファルトの匂いが静かに広がっている。建物が輪郭を失い曖昧に滲み、私もその中に溶けて消えていく気がした。
自宅とは反対の左側に出ると、停まっていたタクシーに、彼が「どうぞ」と手を向ける。
黒いボディの輪郭が、雨の中で浮かび上がり、私は一瞬躊躇する。
タクシーに乗る?
自宅から離れてまで、私はどこへ行こうとしているのだろう。
帰りのタクシー代はあるのだろうか。
頭の中で財布の中を探ってみる。
いっそ気にせず、遠くまで行ってしまおうか。
どうせ私はもう、どこか消えかけている。
「この先の坂を上がったところに僕の店があるんです。……知らないですよね」
その声に、背中を押されるように私は車内に滑り込む。
ドアが閉まると、空調の乾いた空気が肌に触れ、先ほどまでまとわりついていた湿り気が、じんわりと冷えてくる。
整った小さな箱の中で、隣にいる彼の気配を感じながら、私は一体知らない人と何をしているのだろうとまた、頭をもたげるが、ただ、コーヒーを飲みに行くだけだと自分に言い聞かせる。
私は考えるのをやめて、雨に煙る白い景色を静かに眺めることにした。
窓から見える外の景色を知らずに、私はここに住んでいる。自宅と反対側にある世界。
タクシーは緩やかな坂道を上り、住宅街から少しずつ離れていく。周りに木々が増えてきて、空気の気配が変わっていくようだ。
しばらくいくとまた、分かれ道が出てくるが、そのまま真っ直ぐに走っていく。
その一瞬、後方の左手に小さな看板が見えた。
そうか、あっちに行くと隣町になるのか。
ふいにニュースを思い出す。
女の子は遺体で見つかった。
胸がどくんと跳ね上がる。
足を踏み入れてはいけない場所に来てしまったのではないかと嫌な汗が背中に滲む。
どうしてタクシーに乗っているのだろう。
私らしくもない。
知っている相手でも、気軽にどこかに出かけることはしないのに。
後悔が波のように押し寄せ、息が詰まりそうになった頃、タクシーが静かに停まった。
小高い丘の上、淡くかすむ雨の中、ぽつんと店が建っている。素朴な木の建物だった。
「アトリエ」と白いペンキで書かれた木の看板が、寂しそうに雨に濡れている。
扉の前には「CLOSED」の札が小さく揺れていた。
私はえっと思うが、彼は札を気にもせず、中に「どうぞ」と促した。
私は一瞬だけ振り返る。
坂を挟んで少し下に洋館が見え、その先には車がすれ違えそうな小さな広がりがあることを確認する。
「あのう、もう、お店、クローズしていたんじゃないんですか?」
「さっきまで僕が留守をしていたからね。どうぞ、カウンターでいいかな?」
「あっ、はい」
「オリジナルのコーヒーしかないんだ。」
「ありがとうございます」
私はそう言って店内を見渡した。
木でできた、小さな店内。
入り口の脇には、丸く大きな葉を広げたウンベラータがひと鉢置かれている。カウンターとテーブル二つ。奥には金色のドアノブの扉があり、その向こうにはもう一部屋あるようだ。
私はさっきまでの緊張と後悔が嘘のように静まるのを感じ、ほのかに豆の香りが漂う店内に身を委ねることにした。
彼は腰にエプロンをさっと巻き、水で丁寧に手を洗っている。静まり返るお店の中に、その後ろ姿だけが浮かび上がり、私は理由もなく見入ってしまう。
やがて小さなミルが低く唸り、挽かれていく豆のかすかな香りが私の心をほどいてくれる。
彼は挽き終えた粉をひとつまみ手に取り、香りを確かめているようだ。静かな手つきでコーヒーが淹れられていく。あのきれいな指でカップに注がれるのだと、ぼんやり思う。
雨の店内はとても静かで、二人っきりでいることを、ふと意識する。
唾を飲み込む音さえ聞こえそうで、急に鼓動が早くなる。
「あの、クローズの札、あれでいいんですか?他のお客様が困るんじゃ……」
「いいんですよ。きっと、もう誰も来ない。雨の日に、こんな丘の上まで来る人はいないからね。それに、今日はもう開ける気もないんです」
「あっ、じゃあ私、急いで帰らないと」
「……あなたにはゆっくりしていって欲しいな。篠原さん」
「えっ?」
「あなたのお店の人がそう、あなたを呼んでいた」
私は言葉に詰まり、耳の奥が熱くなる。
「さあ、どうぞ」
私の前にそっと、土の温もりを感じる焦茶のカップを差し出した。
コーヒーのゆらめきを見つめていると、彼の手で割られたようなひとかけらのチョコレートをのせた小皿が、そっとカップの隣に置かれた。
あのとき、私が買ったものと同じエメラルドグリーンの美濃焼。
かすかに残る彼の体温に、私は声になりかけた何かを飲み込んだ。
彼はやんわりとした目元で、私がコーヒーに口をつけるのを待っている。
私は少し手が震えそうになりながら、砂糖もミルクも入れず、そのままカップを傾けた。
口の中に苦味が広がり、後から香ばしさが追いついてくる。わずかな甘さが舌の奥に残り、私はそっと目を閉じる。
「美味しい……」
「良かった」
チョコレートもひとかけら、私は指でつまんで口に含む。発酵したカカオの酸味に、フルーティーなワインを思わせる香りが重なり、やがて静かにほどけていく。
何のチョコレートなのだろう。
気づくと彼に話しかけていた。
「私のお店に来られるときと、少し雰囲気が違いますね」
「ごめんね。僕、感じ悪いよね」
「あっ、いえ、そういうことじゃ……」
「もう一人のパートさん?が言ってるんじゃないかな」
彼は穏やかに笑っている。
「僕はね、そんなに人が得意じゃないんだ。こんな仕事をしているけどね」
彼は笑いながらカウンターから出てきて、私の隣を一つ空けて腰を下ろし、そのまま前を向いている。
「あなたは、どうかな」
「私は……私も、同じかもしれません」
私は最後の一口をすっと飲み、ゆっくりと立ち上がった。
「ご馳走様でした。おいくらですか」
「……今日はおごりです。僕が無理やり誘ったようなものだから」
「困ります。払います」
私は貸し借りを作りたくない。譲らなかった。
「困った人だな。じゃあ八百円いただきます。
その代わり、また、来てくださいね」
「いつ開いているのかわからないんじゃ……それに少し遠いようですし……私、車を持っていないんです」
「はい。これ」
そう言いながら、彼はポケットからタクシー券のチケットを取り出した。慣れた手つきで数枚を切り離し、私に渡そうとする。
「困ります。もう、来ないかもしれません」
そう言って受け取らない。
「あなたはきっと、また、来てくれます」
「なんでそう思うんですか」私は段々腹が立ってくる。
「僕、わかるんです。いつでも話しに来てください」
「何がですか」
「あなたがここに来た時点で、わかります」
「やめて下さい……私、主人がいるんです」
私は何を言っているのだろう。
「ごめんなさい。ついてきた私が悪かったです。今日は本当にご馳走さまでした」
そう言って私は店を飛び出した。
夜ではないのに辺りはすでに暗かった。
湿った空気に押されるまま、転げるように坂を駆け下りる。
怖い。
犯人に出会ったらどうしよう。
少し下るとタクシーがまるで待っていたかのように、一台停まっていた。
助かった。
と思い、駆け寄った。
ドアが開いたので、私はそのまま乗り込んだ。
「アトリエのお客様でしょ。さっき、連絡がありました」
「えっ……そうなんですか。ありがとうございます。坂の下の商店街の入り口までお願いします」言い終えると、私はふうっと息を吐き出した。
「あの、アトリエって、どんな方がやっているんですか?」
「うちのお得意さんですよ。コーヒー、美味しいでしょ。こんなこと言うのは何だけど、体が弱かったか何かでね、開けたり閉めたり、好きにやってるんじゃないかな。お金には困ってないと思うよ。羨ましいね」
「お客さん、この辺りの人?ニュース知ってるよね。犯人はまだ捕まってないから、夜に出歩くのは気をつけたほうがいいよ」
「そうですね。ありがとうございます」
私は張りついた嫌な汗が、少しだけ、引いた気がした。
続く
いいなと思ったら応援しよう!
応援していただけると、とっても嬉しいです。いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。