連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」 ⑫
続きです
(1949文字)
深い緑に囲まれて、ひっそりと息を潜めていたような洋館の、その錆びれた扉が今、大きく開いている。
私は息を詰めてテレビを見つめていた。
画面の中は騒がしい。
大勢の警察官に囲まれて、長い前髪の隙間から、痩せた男がこちらを見ていた。
光のない目が、手のように私の手首を掴む。
テレビの前に座っているのに、いつの間にか、あの洋館の前に立っていた。
白い洋館が灼けつく陽射しの中に浮かび上がる。闇のような蝉の声が、渦となって身体の内側へ入り込んでくる。
閉ざした窓の向こうが揺れている。
カーテンの奥の真っ暗な目は、私がアトリエへ向かう姿をじっと見ている。
そういえば、その下には車が二台停まっていた。
車の中の男がタバコを吸いながら、私をちらと見た。
もしかしたら、被害者は私だったかもしれない。
それとも、向こう側の人間だったのか……
頭がズキズキと脈打ち、割れそうになる。
気づくと私は両手をきつく結んでいた。
「由香里、大丈夫?顔色悪いよ」
聞き慣れた声が、水面の底から浮かび上がるように届いた。
「えっ、あぁ……」
拓也の声に引き戻される。
私は慌てて皿を手にして、テーブルへ運んだ。
ベーコンの油が指につく。
その黄色い滑りが妙に心を撫でていく。
洗濯物を干しながらも、さっきのニュースが離れなかった。ピンチを挟む指先に暗い影が落ちる。あの鋭い目つきの痩せた男は、手首に執着があったのだろうか。
自分のことさえよく分からないのに、ましてや人のことなど分かるわけがない。
私は子どもの頃、お姫様の物語に憧れた。
白い塔の中で夢見るように手を伸ばし、白いドレスを着て待ちわびる。
物語の中では、いつも素敵な王子様が現れる。
でもある日、私は手を伸ばすことをやめた。
あの日、手を離したかもしれない私は、お姫様になる資格がなくなった。
なのに私は、アトリエの彼に出会って手を伸ばしたーー
じりじりと私を焦がす、何度もテレビに映るあの風景は、彼と私を繋ぐ細く高い塔だった。
私はニュースが流れるたび、テレビの前に座り、あの風景の奥にいる彼を、肌で感じながら自分の体を抱きしめた。
彼は事件とは関係のないところで生きていた。
けれど、アトリエのすぐ下で起きたことは、彼を傷つけていないだろうか。
「由香里、そんなにそのニュースが気になるの?」と、拓也が背中から私を抱きしめた。
私の視界の端に、茶色に変色したサンセベリアの葉が映る。
拓也が私をソファへ押し倒し、うなじに唇を這わせてきた。
頭の奥でカカオニブの音が鳴らない。
私の体の芯は冷たく沈んでいた。
「やめて、拓也」
そう言いながら、私は拓也を押しやった。
茶色く乾いた剣先が、カサリと鳴った。
「ごめん、コーヒー淹れるね」
拓也は珍しくキッチンへ入っていく。
ソファに座る私の前へ、小さく揺れたマグカップがぎこちなく置かれた。
「はい」
「ありがとう」
不器用な拓也の淹れてくれたコーヒーは温かい。それなのに私は、挽かれていく豆の香りと、彼の静かな手つきを思い出していた。
休日の午前中、拓也は「一人で散歩してくる」
と出掛けていった。
「由香里、はい、これ」
拓也は私の目の前に小さな白い箱を差し出した。
「何?」
「開けてみて。さっき偶然見つけたんだ。由香里に似合いそうだなと思って」
蓋を開けると、小さなピアスが静かに光を受けていた。
淡い色が視界の奥でかすかに揺れる。
「ピンク……ピンク……」
その色が胸の奥に落ちた瞬間、唐突にあの時のシーンが浮かび、呼吸が浅くなる。
行かなきゃ、私、行かなきゃ
「拓也、ごめん。出掛けてくる。
今日はもう帰らないかもしれない」
私は拓也の顔と、ピアスの揺れを残して家を飛び出した。
久しぶりに向かった小高い丘の上は、生ぬるい風が時折強く吹きつけ、背の高い草が一斉に同じ方向に倒れていく。
太陽はまだあるのに、遠くに見える入道雲が、まるで壁のように積み上がり、丘の上の光だけが色を失っていく。
虫の声がふっと引いた。
アトリエは「CLOSED」の札が風に吹かれるたび、左右に揺れている。
窓の向こうの店内は静まりかえっている。
ドアノブはぴくりとも動かなかった。
「修一さーー」
コンコン……
髪が風に吹かれて、顔にかかるだけだった……
さっきまでの張り詰めた気持ちはみるみる萎え、泣きそうになる。
膝の力が抜ける。
私はドアにもたれかかり、頬にあたる空気の冷たさにまるで自分の目の奥のようだと笑いたくなった。
ぽつりと何かが落ちた。
雨なのか、自分の中の何かが崩れたのかわからなかった。
そのうち空が真っ暗になり、遠くで鳴っていた雷が近づいてきた。突然、空が崩れたような雨が降り出す。
私はドアの側でうずくまり、雨に打たれ続けていた。
遠のく意識の中で、泥のかかった靴だけが残った。
続く
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