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期待の純文学作家

町屋良平『私の小説』

破壊的じゃない「私」の人生はつまんない――? 芥川賞をとってなお自分に自信が持てない作家が、この世界を言葉で立て直す。第48回川端康成文学賞受賞作を含む〈新しい私小説〉連作集。


私の文体

「私の文体』はメタフィクションで不眠で診療内科に通う作家がその原因として自殺した小学生の頃の友達の文体(「私」)を盗んだので、取り憑かれているような小説を書き、作家生活のリアルな物語のなかで隣人トラブルが喜劇的に描かれる。作家のリアル(町屋良平)かと思わせて最後の話は虚構のような感じを受ける私小説か?そんな短編連作のような作品か?

私の労働

「私の労働」は労働=スポーツのようなもので、その渦中は何も考ええないが、生の充実感がある。小説を書いている時はそういう気持ちなのだが小説について考え始めるともう、駄目だ。ネガティブになって、労働辞めたいとか考えてしまうのだ。スポーツはある程度強制される部分があってそれは論理ではない。長崎監督がオノマトペでバッティングを説明するようなものだ。たいていの人はそこであきらめるか、エンジョイすることで折り合うか止めてしまう。


ジョバンコンクールの映画の予告編を見たが、ほぼスポーツ化していて、間違ってはいけないとか、緊張しない精神力とか、高い技術力とか言われるが、それに優勝したからと言って将来が約束されたわけではない。例えば見た目とか、特異な経歴とか、優等生タイプが必ずしも成功するとは限らない。プロはマネーなのだ。求められた者か演奏出来る、中にはそれが自分の音楽観と一致する者もあるだろうがほとんど一致しない。ある部分妥協の産物なのだろう。それは小説家として売れることと同じなのたが、どこかそういう権威には反撥をする。新人賞に応募してくる人はメタフィクション的になるというのは小川哲との対談でいっていたことだがそういうことだと思う。

私の推敲

「私の推敲」で中途半端に推敲するならしない方いいというのは、読みやすくするというのは妥協の産物で突然閃いた霊感を一般界におとすことで、自分らしさを失うという。お笑いの口語文体が一般的な文語(古文ではなく、論理的な分かりやすい文章とか)にしたとたんつまらなくなるのは彼らのリズムが失われるからだという。そういう小説についてのメタフィクションなのだが、私小説ではないと思うのは、特異な体質があるからだろか?ある部分精神病者のような作家なのだつた。そこが面白いのだ。またスマホで小説を書いているというのも共感できる。

私の批評

母との共依存関係は祖母の毒親としての病があったと自己批評するのは精神分析のようで面白い。中でも詩人沼一真は中学生詩人としてデビューしたがそれは有名詩人の息子が毒母に虐待された自殺したあとに、その詩人が散文詩で有名なのだが、それを韻文詩として発表したのだといい、その二作めは一作目の批評として書かれたという。町屋良平の旨さというか、そうしたパロディを架空作家の本として小説内小説(これは詩だが他に論文とか)が面白い。

私の大江

「私の大江」になると大江健三郎か作家会議の小説のパロディ(『「雨の樹」を聴く女たち』)であり、その中でラカンの論文を書いた炎上作家の本が取り上げられるのだが、精神分析的な自己批評とも読めるようで、私小説という枠の中で文学実験をしているような
文学。この人は小島信夫の影響も受けていた。期待の純文学作家だつた。



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