朝起きたら妻がいなかった(6/6章) #創作大賞2024
翌日はまだ夜が明けきらぬ前に起きて、湖のほとりに立った。
十二月の早朝、雲一つない快晴。空も、空気も澄み渡っていた。
富士の裾野が黄金色に染まり始め、やがてオレンジ色の光が現れ辺りを刺した。徐々に青くなる空と真っ白な雪を被った富士山を、金色の朝日が照らしてゆく。
白い吐息がその景色を遮らないよう、二人は息を殺して太陽が昇っていく様子を見つめていた。
暖斗が小さくくしゃみをした。
「寒いか?」
大輔は浴衣からセーターとデニムパンツに着替えていたが、暖斗は旅館の庭だから面倒だしいいよと浴衣にダウンを羽織っただけの格好だった。素足に下駄を履き、浴衣の裾から白い脚が覗いている。
「寒いよ、失敗したよ」
身を屈めて、からだの前で腕組みをしながら、暖斗は口から白い息を漏らす。じゃあ戻ろうかと後ろを振り向いた大輔に、暖斗は首を振った。
「いい、後で温泉入るから大丈夫。まだ見ていたい」
震えながら言う暖斗に、大輔は目を見開いた。
富士山が好きだとか、自然を見たいとか、そんなことを言う子だっただろうか。
「富士山がこんなに大きいって、知らなかった」
鼻の頭を真っ赤にして暖斗が、真っ白な息と一緒に呟く。
「パパもだよ」
震えながら一生懸命富士山を見つめる暖斗に、大輔は微笑んだ。
練馬にある家からも、都内にある会社の窓からも富士山は見える。だけど今目の前に悠然とたたずむ富士山は、よく知っている富士山とは全く違っていた。
「スマホ、いいのか?」
今更ながら気づいたが、身を縮めている暖斗は手ぶらだった。大輔の問いが分からないのか、暖斗は首を傾げる。
「写真、撮らなくていいのか?」
合点のいった暖斗は口を開いた。白い息が吐き出される。
「いい。きっと撮ろうとすると色々こだわっちゃって、ちゃんと富士山見られなくなる」
「そんなもんか?」
大輔もスマホは使いこなしている方だから、暖斗の言うことはよく分かった。だけど中学生の暖斗がそんなことを言うなんて、少し驚いた。
きれいな景色は写真に撮ってアップしたり、あとから見返したりするものじゃないのか。こんなに綺麗なのに、綺麗だから、撮らなくていいという暖斗の感性に大輔は目を細めた。
「だから、さ」
暖斗が目線を再び富士山に戻す。太陽は身体の半分を裾野から出し、さざ波立った湖面はキラキラと光っていた。
「また来ようよ」
そう言った暖斗の頬が赤いのは、一面を照らす朝日のせいだろうか。
日の出を見たあとで温泉に浸かり、朝御飯を食べたあとも、部屋の窓から暖斗は名残惜しそうに富士山を眺めていた。
「もう一泊していくか?」
今日は金曜日。もう一泊しても学校と仕事には影響ない。飛び込みで泊まった高級旅館は思いの外高額で、これからを思うと少々厳しいが。
大輔の提案に暖斗は目を見開き、首を横に振った。
「大丈夫、家に帰ろう」
大丈夫と言う暖斗の表情に、一昨日の泣き叫んだ暖斗の姿は微塵もなかった。
大丈夫なはずはない。そんなにすぐに、大丈夫になれるはずはない。
だけど家に帰ろうと言った暖斗は、それまでの醒めた目つきで全てを諦めた暖斗とも違っていた。何か吹っ切れたような、小さな頃によく見せていた無邪気な表情の暖斗がそこにいた。
帰り道の中央道、離れゆく富士山が名残惜しくて談合坂SAに寄ってみた。車から出た途端、暖斗は顔をしかめる。
「犬、多くない?」
言われて見回すと、確かにリードを繋いだ犬や犬を抱きながら歩く人がちらほらと見えた。まだまだ富士山に近いと思っていたが、談合坂は展望台に登らないと富士山は見えないという。そこに向かう途中、大きなドッグランがあった。どうりで犬が多いわけである。
少しだけ階段を上がって着いた展望台からは、八ヶ岳やアルプスに紛れて富士山が見えた。
「やっぱり近くで見る富士山がすごかったな」
談合坂から見る富士山も十分綺麗だったが、間近で圧倒された後なので物足りなさを感じたのも事実である。
「だからまた今度、行くんだろ」
大輔の提案に、暖斗は白い歯を見せて笑った。頬にえくぼができる。暖斗のその笑顔で、本当に富士山を見に来てよかったと大輔は思うのだった。
「あのさ、パパ。オレ考えてたんだけどさ」
笑顔を見せた暖斗が、ふいに下を向く。
「腹の痛みって、なんだったのかな」
「腹? 痛かったのか?」
大輔は目を見開き、慌てて暖斗の顔を覗き込んだ。大輔のその仕草に、暖斗は違うってばと小さく笑う。
「オレじゃないよ。マ……あの人、よく言ってただろ。お腹を痛めた子って」
「……ああ」
痛みの意味が分かり、大輔は小さく声を漏らした。
暖斗が小さい頃は、抱き締めながら。暖斗が大きくなると、しかる時や飲んでる時。ことあるごとに言っていた。
──可愛いに決まってるでしょう。お腹を痛めた子だもの。
時に強く主張するから、大輔は疎外感にも似た気持ちを味わったものだった。二人の間には自分にはない、強固な絆があるとも。
「もう痛みを忘れたのかな。忘れたから、もう──」
「そういうことじゃないだろう」
大輔は暖斗の言葉を遮って、即座に否定する。暖斗はぷいと顔を背け、大輔に背中を見せた。
「実際大変だったんだと思うけど、俺には痛みは分かんないよ。男だから」
亜沙美は東京に大輔を置いて、里帰り出産をした。陣痛が来て入院したと知らせがきて慌てて病院に向かったが、着いた時にはもう白い産着姿の赤ん坊が、小さなベビーベッドに寝かされていた。
後から出産がいかに壮絶で大変だったか、亜沙美に何度も聞かされた。よく男には耐えられないと言うし、実際命がけだったのだと思う。だからこそよけいに亜沙美と暖斗の間には、なにか割って入れないものが──あると思っていた。思わされていた。
「苦しみを知らなければ、大切に思えないなんてことないだろう」
うつむいたままの暖斗に、大輔は言葉を重ねる。
「そして自分が苦しんだから可愛かったわけでも、ここまで育てたわけでもないと思うよ」
真実はもう分からない。亜沙美はいなくなった。
だからこそ、そう思いたかった。
真実なんて、もうどっちでも良かった。
だって亜沙美は息子と夫を、捨てたんだから。
太陽が西の山々をオレンジ色に染め始めてきた。冬の日は短い。
「帰ろう」
そう言ったのは暖斗の方だった。大輔はうなずき、二人は展望台の階段を降り始める。
それは、あまりに突然だった。
二人並んで止めてある車に向かって、ドッグランの脇を歩いている時だった。
大輔は目の前の光景に、大きく目を見開き、息を呑んだ。
──こんな偶然があるだろうか。
身体中の血液が一気に無くなるかのような、冷えとめまいを大輔は覚えた。唇が、手が、足が震える。
大輔の視線の先に、亜沙美がいた。
真っ白なふわふわの毛の子犬を抱き、隣の男と楽しそうに話しながら歩いてくる亜沙美がいた。
明るい茶色の髪をして、ひげを生やした三十手前くらいの男は、亜沙美よりも頭一つ分背が高く、亜沙美の腰に手を回して歩いていた。
──あんな男が。
四十才の自分。背は低く、後退が始まった前髪で額の目立つ自分。なにもかもが、自分にはないものだった。
結婚生活を送っている間は、自分に離婚の話を微塵もせず、面倒とばかりに何も言わずに消えた亜沙美。
生まれた時から「はーちゃん大好き」と言い続けた暖斗を、本当に好きな人ができたから仕方ないと置いて出ていった亜沙美。
家を出た途端、暖斗の大の苦手な犬を飼い始めた亜沙美。
言いたいことは、たくさんあった。
身体の奥からせり上げてくるそれらの気持ちに押されるように、大輔は大きく一歩踏み出す。
暖斗は、まだ名残惜しそうに斜め後ろの山々を見ながら歩いていた。完全に視線を山に送っている隣の暖斗に、大輔は顔を覆うように勢いよく抱きついた。
「なに……っ!?」
不意を食らった暖斗は驚き、戸惑い、身体をよじらせて大輔から離れようとした。それでも大輔は、もう自分よりも数センチ背の高い息子の頭を押さえ込むように、きつくきつく抱き締める。
本当はこの場で、自分でしたことの罪の重さを亜沙美に怒鳴ってやりたかった。
責任など微塵も感じていないような隣の男を、思い切り殴り飛ばしてやりたかった。
だけどそれ以上に暖斗に、亜沙美と男の姿を見せたくなかった。
「なに、なんなのっ?!」
突然強く抱き締めてきた大輔の意図が全く分からず、暖斗は大輔を引き離そうと腕をつかんでくる。大輔はそれに抗い、必死で暖斗の頭を自分に押し付けるように強く強く抱き締めた。
絶対暖斗には、母親の、自分を置いて出ていった母親の、裏切りの姿を見せたくない!
「暖斗……パパはお前を絶対守るからな!」
「はあっ!? なんだよ突然! どうしたんだよっ?!」
急に熱い言葉をかけられても混乱するだけなのか、暖斗は大輔の手を振りほどこうと、手に力を込める。暖斗には背丈だけではなく、力だってきっともう敵わない。それでも大輔は歯を食い縛り、必死になって暖斗を押さえ込んだ。
これ以上暖斗を悲しませたくない! 絶対に!!
もしかしてこれは、やっぱり現実に蓋をして逃げているだけなのかもしれない。本当はどんなにつらくても、向き合うべきなのかもしれない。
──だけど、俺は暖斗を守る。俺のもとにいるうちは、もう傷つけはしない。悲しい思いはさせない!
今まで気がつかなくて申し訳なかった。
亜沙美を想う一方で、その想い方のあまりこんな結果になって本当に悪かった。
情けない、恥ずかしい父親で悪かった。
だけどこれからは違う!
暖斗のことを、全力で守るんだ!
やはり身体も大きい十五才の暖斗は、もう大輔よりもずっとずっと力が強いようだ。力を込めて歯を食い縛るせいか、大輔の目の端から涙がこぼれてきた。
「ちょっと、パパっ?!」
押さえつける大輔の手を振り払うように、暖斗は今度は大きく首を振った。暖斗の力強さに、弾かれるように大輔の手はずり下がった。
──抵抗していた、暖斗の動きが止まった。
その間は、三秒だったか、三十秒だったか。
ひどく短くも、ひどく長くも思えた。
「はる……」
大輔が声をかけた途端、背中に力強く暖斗の腕を感じた。今度は暖斗が大輔を、強く抱き締めてきたのだと分かった。
「……パパ、ありがとう。オレの味方でいてくれてありがとう」
十五の、自分より図体のでかい息子からの抱擁に大輔の顔は一瞬にして崩れた。大粒の涙が目から溢れてくる。途端に喉は大きく震え始め、しゃっくりをあげる。
亜沙美がいなくなり、つらかったのに泣けなかった。何故か涙は目からこぼれ落ちてこなかった。
それが今、涙は止めどなくあふれでてきた。大輔の意思では全く止められなくなっていた。
──亜沙美を許さない。
話し合うことなく自分を捨てた亜沙美を許さない。
一方的に暖斗を置いて出ていった亜沙美を許しはしない。
絶対に。
だけど。
この世に暖斗を生み出し、ここまで育ててくれたことは感謝しよう。
俺の手元に残してくれたことには感謝しよう。
これから先、この出来事が彼を苦しめ、心が折れることもあるかもしれない。
道を逸れることも、あるかもしれない。
俺に反抗的な態度を取ることもあるだろう。
それでも俺は暖斗を、守り続ける。
いつか自分の手を離れていくその日まで、全力で守り続ける。
亜沙美のことを、許しはしない。
だけど、感謝はしよう。
暖斗と二人、どれくらい顔を寄せあって抱き合っていただろうか。まだ少し震えが残ってる声で暖斗が言った。
「パパ、デカい男二人が抱き合ってるのなんて変だよ。やっぱ気持ち悪くない?」
「いいだろ、親子なんだから」
変と言いつつ、暖斗は離れようとはしなかった。
頬を寄せたままで話すから、暖斗の息が時折かかる。頬が暖斗の少し生え始めたヒゲに触れ、くすぐったかった。
「親子に見えるかなあ。似てるかなあ」
暖斗はくっきりとした大きな瞳が目立つ、亜沙美そっくりの顔立ちだった。背だってこれからもっと伸びるだろう。対して大輔は、少し垂れたつぶらな瞳で、背も低かった。それでも、暖斗と大輔は親子だ。間違いなく親子なのだ。
「一緒にいれば親子に見えるさ。当たり前だろ」
気がつくと日は大分傾いていて、辺りは夕陽が影を長く落としていた。身体を離し、暖斗を見上げる。涙でぐちゃぐちゃになった暖斗の顔は笑いであふれていた。頬にえくぼができる。これは大輔の頬にもできるものだ。
暖斗は大きな目を細め、白い歯を見せながら言った。
「パパに似てるなら、髪の毛に気を付けないとなあ」
そう言って、自分のおでこに手を当てる。大輔は上を向き、手を叩いて大きく笑い声をあげた。
了
