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わたしの芝生は枯れていない 第13話「別れ」(全16話)

 聞き間違いだろうか、勘違いだろうか。違う誰かのことだろうか。
 何度もそう考え、願った。
 散々迷った挙げ句、天野にメッセージを送った。聞かなかったことになど、凪にはできなかった。
「みんなのインフルが治ったら、会ってください。話があるの」
 みんなのインフルってなんのこと? そんな返事を期待したが、既読になっただけで翌朝もその次の日も返事はなかった。それが答えだと、凪は悟った。

 天野から返事が来たのは、一週間が経った時だった。
「今日の夜、話せる?」
 なんの弁解も、とぼけることもなかった。

 指定したのは浅草近くの隅田川沿いの遊歩道、隅田川テラスだった。店には入りたくない、二人きりにもなりたくなかった。
 整備され、所々にベンチのある歩道には、涼しくなった夜にランニングをする人や、散歩をするカップルで人通りは絶えなかった。

 後から来た凪を見るなり、天野は頭を下げた。
「ごめんなさい」
 凪は目を閉じ、深くため息をついた。
 色々な思いが胸の中にうずまく。何を言っていいのか、あんなに準備してきたはずなのになにも言葉が出てこない。目をつぶったまま、こめかみを指で押さえた。
「どういうこと? 私とどうするつもりだったの?」
「こんなつもりじゃなかったんだ」
 頭を下げるというより、うなだれながら天野は苦しげに声を出す。
「凪さんのことは、あの日の前から何度か見かけてた」
 凪はゆっくりと目を開ける。視線を感じたのだろうか、天野も頭を上げて凪を見た。街頭に照らされたその顔は、眉間にしわを寄せ頬を歪め、苦しげだった。
「肩で風切って、仕事ができる女性なんだろうなって思ってた。自分とは別の世界の、人を寄せつけないっていうか、その、近寄りがたいなって」
「その近寄りがたい女が財布忘れて困ってたから、親近感でも覚えた?」
『近寄りがたい』なんて、言われ慣れてるはずなのに。天野に言われて、改めてまた傷ついてる自分がいた。
 
「仕事ばっかりしていて男とは縁がなさそうに見えたから、簡単に落とせるかなって思ってたんだ。結婚も興味なさそうだし、後腐れない関係になれるかなって」

「──なっ!」
 乾いた音が、辺りに響き渡った。気がついたら右手で天野の頬を打っていた。
「あんた、そんなつもりで!?」
 天野は叩かれた頬に触れず、再び頭を下げた。
「やれたらいいなって、ただそれだけで……だけど、凪さんのこと知っていくにつれて、惹かれていく自分がいて……気がついたら本気になってた」
「嘘つき!」
 この年になって、そんな目的で近づかれるなんて! しかも簡単に落とせるかなとは! もう屈辱でしかなかった。歯を食いしばって必死にこらえるが、目尻から涙が次々とこぼれてくる。
──本気だったのに! 本気で好きになったのに!

「嘘じゃない!」

 天野は勢いよく顔を上げた。叫び声を上げたその瞳は涙で光っていた。なんで天野が泣くんだと、凪は奥歯を噛み締める。
「本当のこと言わなきゃって、ずっと悩んでた! でも凪さんに会うたびに、どんどん……失いたくなくて、言えなくなって……」
 天野は再び、更に深く深く頭を下げた。遊歩道を通る人たちが、ふたりの横を好奇心でいっぱいの視線を送りながら過ぎていく。
「……やめてよ」
 凪は天野の腕を取り、引っ張り上げた。これ以上頭を下げられたって、自分までがただ好奇の目に晒されるだけだ。半袖の作業着にむき出しの天野の腕は、あの夜はあんなに力強く滑らかだったのに、今は力を失って弱々しかった。
 
「謝ったって、家庭を捨てる気なんてないくせに!」
 投げつけるように、つかんだ天野の腕を乱暴に離す。顔を歪ませ、苦悶の表情を浮かべる天野の顔から目をそらし凪は言い放った。
「さよならっ!」
 体の向きを変え、川沿いの遊歩道を大股で歩き出す。当然、天野は追ってこない。
 凪の目から、大粒の涙があふれでてきた。口から小さな嗚咽が漏れる。手で目を押さえるが、涙は次から次へと溢れて止まらなかった。
 いい大人が泣きながら早足で歩く姿を、周りの人はおかしく思うだろうか。でもそんなこと、もうどうでも良かった。
 歩行者専用の橋に登ると、早足で歩いていたヒールの足が、内側に曲がった。勢いよく前につんのめる。派手に地面に膝をついてしまった。慌てて立ち上がろうとすると、擦りむいた膝はストッキングが破れ、血がにじみ出ていた。
 それを見た途端、凪は膝を抱え込んでしゃがみこんだ。
 ──バカみたい。
 心のなかで呟くと、堰を切ったように涙が溢れてきた。
 バカと叫びたいのに、口から出たのは嗚咽だった。
 
 もう歩けない。
 膝を抱えてしゃがむ凪は、声を上げて泣き始めた。

 バカじゃないの。
 なんで正直に全部言うの、あの男は。
 ただやりたいだけなら、もう少し騙し続けてくれればいいのに。
 面倒になったのなら、適当な理由をつけてさっさといなくなればいいのに。
 妻子持ちがバレた後にわざわざ会って、バカみたいに頭を何度も頭を下げて!

 凪は両耳をつかむように、頭を抱え込む。
 家庭がうまくいってなかったのか、元々そういう男だったのか。
 そんなことは分からない。
 そんなことはどうだっていい。
 だって、凪は天野が好きだった。
 自分に見せる顔が、ごく一部のいい顔だったとしても、それでも天野が好きだった。本気で好きだった。

 いい大人のに、天野を失った自分は、こんな風に声を出して泣いてしまうのか。あんなに強いとか、怖いとか言われているのに。

 七年ぶりの凪の恋は、唐突にあっけなく終わりを告げた。


https://note.com/apfel_takaoka/n/n03fa81848152
 

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