たった一度だけ、作文を褒められたときのこと
今では小説家を名乗っているけれど、学生のときに「国語の成績が抜群に良かった」わけではないし「読書感想文で表彰された」なんて経験もない。
そんな自分でもたった一度だけ、作文を褒められたことがある。
それは、亡くなった父のことを書いた作文だった。
小学五年生のときに書いたその作文は、父親が亡くなって一ヶ月後ぐらいに書いたものだ。父が癌に侵され腹水が溜まっていく様子だとか、死に目に会えなかったことを綴っていた。なにかのコンクールに出すとかそういう類のものでもなく、国語の授業中に提出するだけのものだった。
国語の授業から数日経ったある日、担任の先生から「すばらしい作文でした。蜂賀さんの作文を今日の道徳の授業で使ってもいいですか?」と聞かれた。私はよく考えもせず了承したと思う。
授業が始まると、先生は「先月、蜂賀さんがしばらく学校を休まれていたのは、お父さんが亡くなられたからです。そのときの蜂賀さんの経験を作文に書いてくれたので、皆さんにも聞いてほしいんです」と丁寧な説明があった。途端に、騒がしかった教室がシン……と静まり返る。
子どもは大人が思う以上に空気に敏感だ。
クラス内のカーストやグループ内のパワーバランス、怒られてしまう雰囲気など、大人が思う以上にそれを感じ、考えて動いている。実際に近くにいる人間が命についての実体験を書くとなると、騒ぐような子はひとりもいなかった。
(今はふざけちゃいけない)
という誰かの心の声が聞こえてきそうだった。
先生は作文を読み上げる。
「僕のお父さんが亡くなりました」と先生が口に出すと、ぴりっとした感覚があった。自分の文章を他人の口から聞くのは変な感覚で「ああ、僕のお父さんってほんまに亡くなったんやな」と最初は他人事のように感じてしまっていた。
一時間以上かけて病院に通っていたこと。ご飯を食べられなくなった父の姿が怖かったこと。お父さんの骨がボロボロだったこと。大きかったお父さんが、膝の上に乗るくらいの大きさになったこと。もう二度と会えないこと。
先生は読みながら大号泣していた。クラスメイトも感受性が強い子はちらほらと泣いていて、正直自分は戸惑っていた。
先生は作文を読み終えると、内容の解説と一緒に命の大切さを説き始める。
本当に申し訳ないのだが、自分の作文の解説を聞いていて不思議な気持ちになっていた。自分の文章は拙くて、ただ事実を羅列してるに近いものだったし、わざわざ解説されるような深い文章は書いてない。
だけど先生は当時の自分の気持ちを代弁するように、わかりやすく語ってくれた。その解説というか、解釈は私の胸にストンと落ちていくもので、おかげで「ああ、自分は後悔しているんだな」と気づくことができた。
父の死に関して、自分でも理解できてない部分があった。
それを先生が解釈してくれて、行間にある私の心を読んでくれたのだ。
自分の気持ちを文章にして、それが他人というフィルターを通って語られるのを聞くことは、貴重な経験だった。
ときにはその解釈が的外れだったり、読み間違いだったり、聞いたことによって自分が変に思いこんでしまうこともあるけれど、当時先生がしてくれた解釈は自分の心のもやもやを少しだけ晴らしてくれるものだった。
「人は誰でも亡くなります。だけど、すぐにそれを忘れてしまいます。だから今日は蜂賀さんの力を借りて、皆さんにそれを思い出してもらいました」
そんな言葉で授業は締められた。
感想のプリントを書いて提出し、休み時間に入るとまた教室はいつもの雰囲気に戻っていった。
短い休み時間に運動場まで走るクラスメイト。
おしゃべりに勤しむ女子グループ。
先生から返却してもらった作文についていた「ありがとう」の赤い文字。
きっと自分もすぐに忘れる。
人は亡くなるという当たり前で隣り合わせの真実に。
だから私は、先生が話してくれた授業の言葉の力を借りている。
何度も忘れて、何度も思い出して。
そうやって今は、小説を書いていたりする。
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