チョ・ヒョンチョル監督「君と私」を見つめ直す 夢の美学と語られないセウォル号
奇妙な作品である。
チョ・ヒョンチョル監督の「君と私/너와 나」は、監督自身がさまざまな場で「セウォル号事故をモチーフに、一日のあいだに起きる物語を描いた」と語ってきた。にもかかわらず、作品の中には「セウォル号」という固有名詞は一度も現れない。韓国社会の深いトラウマであるあの事故との距離の取り方が、作品内と公的な言葉のあいだで意図的にずらされているように見える。
ところが、先日公開された日本版では冒頭に、セウォル号事故の日付がクレジットとして提示されていた。日本の観客は、物語と事故との関係性を前提として与えられた状態で作品に向き合うことになる。つまり、この作品を事故とは独立した物語として受け取るという読みの余地は、はじめから封じられているのだ。
こうした入り口での前提づけと、作品じたいがまとっている夢のような曖昧さ。その二つのあいだにある微妙なズレこそが、私が観賞中ずっと感じていた違和感の出発点だった。
夢のようなフィルターの下で、私が感じた違和感

「君と私」の英語タイトルは 「The Dream Songs」である。
ジョン・ベリーマンの詩集から取られたものだと監督がどこかで語っていたように、この作品は白く霞んだ、露出オーバーぎみの「夢の世界」によって全編が包まれている。その即席のドリームフィルターは、作品全体をどこかノスタルジックで情緒的な私的空間へと閉じ込めてしまう。
しかし、その夢の質感とは対照的に、女子高生たちの日常は驚くほどリアルだ。実際の学生たちを丹念に観察して拾い上げたと言われる、生々しいセリフや言葉遣い、そして表情、そうした「他愛もない日常のリアリティ」は、作品の中で確かに息づいている。
けれども、このリアルには明らかな非対称がある。掬い取られているのは、可愛らしさや未熟さ、屈託のなさといった観察しやすい側面ばかりで、クィア的感情にともなう葛藤や戸惑い、自己認識の揺らぎといったもうひとつのリアルは、すっぽりと抜け落ちている。描写がリアルであればあるほど、実際には、何が描かれていないかが浮かび上がってくる。
セミとハウンの非現実的なほど純粋で美しい関係は、説明されることも揺らぐこともなく、彼女たちだけの世界に小さな「聖域」をつくり上げる。
結果として、少女たちは「美しく、イノセントで、儚げなもの」の象徴として機能し、観客から触れられたくない領域へは踏み込ませない。夢のフィルターの中でリアルに見えるものほど、実は作り手の主観と願望の形に整えられているのだ。
こうして、作品が提示する夢のリアリティは、描かれるリアル(可憐さ・純粋さ) と描かれないリアル(葛藤・迷い・主体の揺れ)の非対称性によって、監督の主観が濃縮された閉じた世界へと収束していく。
夢の中の物語は、前提として提示された公的な悲劇(セウォル号沈没事故)という外部世界に開かれることなく、むしろ固定されてしまうのだ。
夢の膜の内側に散らばる意味ありげな象徴たち
こうした閉じた世界観は、画面に散りばめられた数々の象徴的なモチーフによって、さらに増幅されていく。

鏡に映るセミの影、変色しない食べかけのりんご、落ちそうで落ちないガラスコップ、2時37分で止まった時計、どこからともなく現れる犬、足裏の角質…。生の新陳代謝のようでもあり、死の残滓のようでもあるモチーフが、脈絡を提示されることなく、夢の膜の内側に意味ありげに配置されていく。
しかし、それらの象徴は、普遍的な意味へと昇華されるプロセスを辿らないまま、「何か深い意味が潜んでいそうだ」という暗示だけを強調してしまう。結果として観客は、象徴を「感じる」のではなく「推測する」ことへと追い込まれる。映画は自由な読解を開くどころか、むしろ一方向へと誘導する圧力として働いてしまうのだ。
セウォル号を語らないという倫理の罠

冒頭にも書いたように、チョ・ヒョンチョル監督は、授賞式で自作とセウォル号との関係に触れ、公の場で黄色いリストバンド(事故の連帯の印)を着用するなど、作品外では表現者としての責任を果たそうとしている。
一方で作品内では、意図的に語らないという方法をとる。この沈黙には、安易な社会批判や悲劇の消費を避けようとする、彼なりの誠実な配慮があるのだろう。
しかし同時に、もし芸術表現が人間の内面を普遍的な場所へと昇華させ、他者との対話を生む装置であるならば、この映画は倫理的慎重さに意識を割くあまり、その対話の力をどこかで停止させてしまっているのではないかという疑念が残る。
セウォル号沈没事故という巨大な出来事を背景にしながら、その出来事を見つめる視点はほとんど手放され、観客には安易な情緒的同調だけが求められる。そこから先の問いや対話は閉じられてしまう。
むしろ、「そもそも本作は本当にセウォル号事故をモチーフにする必要があったのか」という問いすら浮かび上がる。セウォル号事故の影を暗に漂わせ、情緒的な絵を積み重ね、巨大な悲劇に対する無力の象徴を配置する。そうした意味の気配が積み上がることで、多くの観客は「深い作品を観た」と感じるかもしれない。
だが、そこには普遍的な何かへと至る構造化のプロセスが欠けている。「深い意味が潜んでいるはずだ」という暗示だけが前景化し、観客は象徴の読み解きを強いられる。映画は「感じる」よりも「推測する」という窮屈なモードへ誘導されてしまう。
その結果あらわになるのは、深淵に見える表層、そして私的な感情の羅列で公的テーマを扱うことで生じる、「表層の美」と「主題の重さ」が乖離する断層である。これは、倫理的誠実さだけでは普遍性に届かないという、静かだが切実な示唆なのだ。
【追記】
触れずにいたけれど、どうしても引っかかったので書く。
チョン・ヒョンチョル監督はインタビューで、「クィア映画でもある」と前置きされた質問に対し、「クィアの題材を持ってきたのは、何の理由もありませんでした。通常のメロやロマンティックコメディ映画を見るときに、なぜ性別を男と女に設定したのかと尋ねないのと同じように、私にとってはごく当たり前で自然なことでした」と答えている。
一見するとジェンダーに縛られない姿勢のように聞こえる。しかし、クィアであることには、固有の政治性・歴史性があり、社会的偏見や差別の中で生きてきた当事者の現実がある。それを「理由はない」と言ってしまうことは、当事者性をなかったことにしてしまう危険を孕む。
男女の恋愛と、クィアの恋愛は、歴史的にも社会的にも同じ地平ではない。「理由はいらない」という言葉は、しばしばマジョリティ側が言う言葉にもなってしまう。
さらに監督は、フェミニストだった母と叔母から受けた影響が大きく「育児と作品活動を両立させていた母が小説を書く際、私を連れて米軍基地へ取材に行ったこともあります。沖縄出身の女性運動家とイギリス出身のあるおばあさんが、幼い頃によく家に遊びに来ていたのですが、後で知ったら、そのお二人がレズビアンでした」と続く。もちろんその環境は重要だ。
でもそれは、クィア当事者の痛みや揺れを理解している、という保証には決してならない。むしろ知った気になってしまう危うさを感じてしまった。
そして作品は「夢だから曖昧でいい」という免罪符のもと、クィア描写の必然性が曖昧にされている部分がある。葛藤・戸惑い・自己認識といった
クィアネスの核心が描かれないまま、弱いものの象徴としてのクィアだけが残ってしまう。その軽さにどうしてもモヤモヤが残るのだ。
インタビュー出典:‘너와 나’ 조현철감독, “외면할 수 없는 죽음들이 있었다”
