薬指の輪郭
研究棟の談話スペース。
夜のキャンパスはもう静まり返っている。
スタンドライトの下で、彼女は論文のコピーを軽く揃えていた。
男は、その手元を見ていた。
細い指。
薬指には、細い金の指輪。
華美なデザインではない。
石もついていない。
磨かれた線だけが、静かに光っている。
——堅実な男なんだろう。
ふと、そう思う。
装飾の多いものを選ぶ人ではない。
たぶん、仕事は理系か、あるいは公務員か。
実用的で、生活の形を整えることを大切にするタイプ。
彼女の夫は、きっとそういう人だ。
男は視線を少しずらす。
彼女の指先には、ネイルがない。
磨いた形跡もない。
短く整えられているだけ。
——家事をしている手だ。
食器を洗い、
米を研ぎ、
洗濯物を干す手。
学会発表のときの、
理論を組み立てる指とは違う時間を
この手は知っている。
女は、ふと気づいたように顔を上げる。
「どうかしました?」
男は少し笑って、首を振る。
「いや」
そして言う。
「相互行為って、怖いなと思って」
女は小さく笑う。
「急に社会学?」
男は視線を彼女の手から外す。
「いや……」
少し間をおく。
「人は、見えているものから
いくらでも“状況の定義”を作ってしまう」
女は、少しだけ首をかしげる。
「例えば?」
男は一瞬だけ迷う。
彼女の薬指に、もう一度目がいく。
その細い指輪は、
彼女の生活の輪郭を静かに語っている。
家庭。
夫。
子ども。
夕飯の時間。
朝の慌ただしさ。
自分が入る余地のない、
完成した世界。
男は小さく息を吐く。
「例えば」
言葉を選ぶように言う。
「研究者の手なのに
生活の手でもある、とか」
女は自分の手を見て、少し笑う。
「ただの手ですよ」
男はゆっくり首を振る。
「いや」
そして、静かに言った。
「君の“自己”は、
いろんな相互行為の中で成立してるんだなって
……改めて思っただけですよ。」
女は少し黙る。
その言葉の奥にあるものを、
二人とも理解してしまっていた。
窓の外では、夜風が芝生を渡る。
男は視線を落とし、
やがて言う。
「……会えてよかったです。」
それだけだった。
女は一瞬、息を止める。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「私も」
スタンドライトの光の中で、
彼女の指輪が、
かすかに揺れた。
