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【私が「普通」を諦めた理由】① 本人の記録

私には、二つの脳の特性がある。 **ASD(自閉スペクトラム症、かつてのアスペルガー)**と、ADHD(注意欠如・多動症、衝動性・多動性)、どちらもいわゆる発達障害だ。

今年、この特性と向き合う治療の過程で得た気づきは、単なる「今年の学び」という枠を超えて、私の人生のOSそのものを再選択するような、あまりに大きな出来事となった。

これは、私がADHD治療薬アトモキセチンという薬を飲み、私の脳内OSがアップデートされ、そして自らの意志でダウングレードさせるまでの、短い記録だ。

「私は、治るよりも、戻ることを選んだ」




1.  4K解像度の孤独

まだ本格的な治療を始める前、私の世界は異常なほどの高解像度で回っていた。

職業は金属加工業。 夜の工場は、私の巣だった。
誰もいない静寂の中で、私は3台の工作機械を同時に回し、複雑な5軸加工のプログラムを走らせる。機械が唸りを上げて金属を削るその横で、私はPCに向かい、3Dモデリングを行いながら顧客へのメールを打っていた。
マルチタスクという言葉では生ぬるい。それは、ADHD特有の過集中が生み出す**「憑依」**に近い状態だった。

本来はただのCADオペレーターだったはずが、素人から始めてわずか2週間で5軸加工のモデルを描けるようになった。 図面を見た瞬間、構造のすべてが頭の中に4K解像度で立ち上がる。理解するより先に手が動く。
どんな仕事も、私はいつも**「初日からレベルMAX」**で始まってしまうのだ。

顧客対応も同じだった。 定型発達の人々が言葉で埋めようとする隙間を、私はASD的な直感で埋めた。 「これですよね」 曖昧な要望を形にして差し出すと、顧客は驚いた顔をする。
意味のない雑談はできなくても、意味のある「正解」を差し出すことで、私は世界と繋がっていた。

もちろん、代償はある。 PC作業は夜中に行い、会社には私専用の寝床があった。 分業を試みたこともあったが、私がAと言えばA’まで理解して動ける人間はいなかった。手伝ってくれる人が離れていくたび、皮肉なことに完成度だけが上がっていった。

孤独だったか? と問われれば、そうだったかもしれない。
しかし、その孤独は高性能エンジンの排熱のようなもので、私にとっては必要な仕様だった。


2.  「普通」という名のバグ

転機は、ADHDの治療薬である**「アトモキセチン」**を開始したことだった。 目的は、私の内側で暴れ回る多動や衝動性を抑え、社会生活を送りやすくすること。 しかし、その治療は私を「普通」という名の異世界へと連れて行った。

最初に訪れたのは、言葉の聞こえ方の変化だった。

ある日、同僚に「大丈夫ですか?」と声をかけられた。 以前の私なら、言葉通りに受け取っていただろう。だが、薬が効いてADHDの勢いが削がれた脳は・・・

(ああ、これは『いい加減にしなよ』『そこまでしなくていいから』という意味だ)

私は学習したての社会性を発揮しようと、気を利かせてこう返した。

「あ、今日はこのぐらいにしておきましょうか?」

正解のはずだった。しかし、相手は慌てて逃げ腰になった。
「そんなつもりはなかったんです!
ソウさんのやり方があると思うんで、いえ、私は! そんな!!」

何が起きたのか分からず、私は立ち尽くした。
ようやく手に入れた「空気を読む力」で放った言葉は、相手にとって「私を止めた責任を負わされる」という恐怖を与えてしまったらしい。
ニュアンスを読み取ることと、それをどう返すかは、全く別の技術だったのだ。

エレベーターの中で天気の話をする同僚たちを見て、「ああ、ここで関係性をメンテナンスしているのか」と分析できてしまう自分。 そのマメさに感心し、哀れみ、そして恐怖した。
これからはこの途方もなく面倒な儀式を、私もやらなければならないのか。

この時の私はアトモキセチン薬により ADHD(衝動性・多動性)の暴走するエンジンは鎮火し、ASD(アスペルガー)の過敏なセンサーだけが残っていた。 発達障害にありがちな内部炎症による身体の痛みは消え、中高生の頃のようにプールで泳げるほど体は軽くなった。
それなのに、心は鉛のように重かった。 痛くない体で、私はただ、世界のズレに怯えていた。


3.  モヤのかかった設計図

恐怖のピークは、静かに訪れた。

ある日、図面を見た。 いつもならスキャンするように一瞬で脳に焼き付くはずの形状が、入ってこない。 見ても、見ても、頭の中のスクリーンにはモヤがかかっている。

文章を読んでも滑っていく。コードを見ても構造が浮かばない。 4Kだった私の視界は、低解像度のモノクロ映像に変わってしまったようだった。

「ただの人」になってしまった。

焦りで何度も資料を読み返す自分に、うんざりした。情けなかった。 圧倒的な処理能力を失った私に、何が残るというのだろう。

コミュニケーションで居場所を作れるほど器用でもない。 かといって、突き抜けた才能もない。 「普通の人」として生きる難しさに、私は途方に暮れた。

周囲は、私が「扱いやすくなった」ことに安堵していたかもしれない。 突拍子もない行動は減り、空気も読むようになった。社会的には、私はきっと「改善」されていた。 けれど、私は私ではなくなっていた。

「これなら、私である必要はどこにもない」

唯一無二だった私が消え、どこにでもいる代替可能なパーツに置き換わっていく。 それは、死ぬことよりも恐ろしい喪失だった。


4.  脊髄反射の自由

私は、薬をやめる決断をした。 担当医は私を「普通の人」にしてあげようと熱心だったけれど、私はその親切な治療から降りることに合意してもらった。

薬が抜けきったある日、再び誰かに「大丈夫ですか?」と聞かれた。

その瞬間、思考するよりも早く、私の口が勝手に動いていた。

「うぇ~い! ダイジョブっすよ!!」

中身のない、脊髄反射の返答。
以前なら「無神経だ」と自分を責めたかもしれない。 けれど、その時の私は、強烈な安堵感に包まれていた。

「ああ、戻ってきた」

言葉の裏を読んでクヨクヨしない自分。 脊髄で会話して、そのことに悩みもしない自分。 言葉が怖くない。世界が怖くない。 これなら、何でもできる。「ひとにわらわせておけば5じくかこうでつくるのはかんたんです」チャーリィ・ゴードン(※)の言葉を文字ったものが、ストンと心に落ちた。

(※)チャーリィ・ゴードンは、小説「アルジャーノンに花束を」の主人公。

5.  不自由でも、私の自由はここにある

今年学んだこと。
それは、ASDの私は、ADHDの暴走するエネルギーに強く支えられていたという事実だ。

他人に忖度して、やるべきことに着手できなくなるくらいなら、私は「空気の読めない鬼畜」に戻るほうを選ぶ。 痛みや感覚過敏がぶり返したとしても、私は私のOSで動きたい。

世間から見れば、それは「治療の失敗」かもしれない。 あるいは「だから発達障害は面倒」なのかもしれない。

それでも、私は知ってしまった。 自分に合わない「正常」は、ただの負荷でしかないことを。

不自由でも、私の自由はここにある。
私は、私であるために、高解像度の孤独な世界へ帰還する。

  
  

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