スチームおじさんの大学院編:第8話 魔物に喰われた夜──資本主義の牙の下で~Dead or Survive~
前書き
秋学期が始まって間もない頃──。
仲間たちとの議論と笑い声に包まれていた教室の空気は、ある瞬間を境に、冷たく凍りついた。
努力を続けても、報われない現実。
資本主義という見えない魔物が、ひとりの男を静かに呑み込んでいく。
それは、忘れられない「夜」の記憶だった。
季節は夏から秋へと移り、キャンパスの木々が鮮やかな赤や黄色に色づき始めていた。
秋学期が始まり、1か月たったところで、新メンバーたちは最初こそ、課題の多さに戸惑っていたが、徐々に慣れてきたように見えた。
ただ、その頃から、マイケルの姿を見かける頻度が少しずつ減っていった。
最初は「バイトが忙しいのかな」と思っていた。
次は「家族の事情でもあるのかも」と、誰かが言った。
だが、それは静かに、確実に“予兆”だった。
決定的な事件は、グローバルビジネスのクラスで起こった。
このクラスの課題は、「実在する企業の海外展開戦略を立案し、最も適した進出先を選定する」というもので、学生たちはグループに分かれてプロジェクトに取り組んでいた。
検討すべき指標は膨大だった。
GDP、経済成長率、政治体制、地政学的リスク、宗教・文化的背景、教育水準、女性の社会進出度、治安、さらにはその国の中等教育から高等教育への進学率──
それぞれのグループメンバーには、担当分野が割り振られた。
責任を持ってリサーチし、正確な情報を共有することが、プロジェクトの成功には不可欠だった。
メンバーはそれぞれの得意分野をもとに、担当を割り振っていった。
スチームおじさんは、学士課程で世界史を選択していたという理由から、政治体制と地政学リスクを任されることになった。
「Steam、歴史の流れとか構造とか得意そうだしね」
そう言いながら、ソフィアは軽く片目をつむって、さりげなくウインクを送ってきた。
その瞬間、スチームおじさんの胸の奥で何かがふわっと浮き上がった。
(……ウインク、だよな?今の)
内心は小さくパニックだったが、顔には出さず静かにうなずいた。
だがその実、完全に骨抜き状態だった。
「任されたからには、やるしかない。いや、ソフィアの期待に応えたい……!
いや、もしかして……ちょっと“ある”んじゃないか……?」
そんな淡い期待を胸に、スチームおじさんは静かにリサーチに身を投じる覚悟を決めた。
コニーは、数字に強くロジカルな性格から、GDP・経済成長率・一人あたりGDP(GDP per capita)といった経済の中核データを担当することになった。
自分でビジネスを立ち上げているだけあって、話の構造化・リスク評価・視点の広さは群を抜いていた。
マイケルには、「教育制度系」、つまり識字率と進学率が割り振られた。
地味だが国の発展レベルを示す指標として重要であり、各国の教育省や国際統計からの情報収集が必要な、なかなか手間のかかる分野だった。
ソフィアは、宗教・文化的背景・ジェンダー意識といった、“見えづらいが差別化に重要な要素”を担当。
彼女はプレゼン慣れしており、表情も華やかで説得力もあったが、実際の資料収集は他人任せになることが多かった。
タオは、政治リスク・汚職指数・報道自由度を担当。
ドライで現実主義的な性格であり、感情に流されず着実にデータを積み上げていくタイプ。
毒舌ではあるが、グループ内では内心、頼りにされていた。
ノアは、犯罪率・治安・インフラ整備を担当。
アフリカ出身で、感情を一切隠さない“爆発系わがまま娘”。
機嫌が悪ければその場でため息、気に入らない意見には「それ、ナンセンス」と即切り捨てる。
Slackでは、
「Why am I the only one working here?」
「Can someone actually take this seriously?」
といった超直球メッセージを爆投し、通知音が鳴るたびにメンバーがビクついた。
とはいえ、提出物は抜かりなく、言った分はきっちりやる。
その“口も手も出す”スタイルに、一目置かれる存在でもあった。
スチームおじさんはその夜、ノートPCを開いて大学図書館のリサーチポータルにログインした。
EBSCO、ProQuest、JSTOR──
何十年分もの論文データベースを前に、スチームおじさんは静かに戦闘モードに入った。
「ウインクひとつで、男はここまで頑張れる──」
スチームおじさんは苦笑しながらも、画面から目を離さなかった。
数日後、メンバーはそれぞれの成果を持ち寄り、いよいよ本格的に「どの国に進出すべきか」を検討するグループミーティングが開かれた。
最初に発表したのは、コニーだった。
彼女のプレゼンは、文句のつけようがないほど精緻なデータと、的確な解釈に支えられていた。
GDPの推移、経済成長率の安定性、さらには一人あたりGDPの推移と格差指標まで織り込まれ、その場にいた全員が「腑に落ちる」感覚に陥った。
スチームおじさんはその瞬間、「ああ、この人と同じグループで本当に良かった」と心の底から思った。
コニーが提案したのは、いわゆるBRICS(新興国)の中でも、インドやブラジルといった人口と成長性を兼ね備えた国々だった。
「市場規模だけじゃなくて、中間層の拡大スピードも重要。リスクはあるけど、将来性は他の国より抜きん出ているわ」
彼女の発言に、タオが「たしかに。政治的リスクとセットで見ないとね」とうなずく。
スチームおじさんは、そんな会話を聞きながら、自分の調べたインドの州ごとの政体の違いや宗教対立の事例を脳内で再確認していた。
コニーは、自分でビジネスを立ち上げているだけあり、気の回し方も一流だった。
今回のグループワークでも、最初の段階で
「私のほうでざっと見た限り、インド、ブラジル、中国、ロシアあたりが候補に挙がりそう」
と、複数の新興国を事前にピックアップして共有してくれていた。
それは、メンバーそれぞれが情報を収集しやすいようにという、配慮と段取りの賜物だった。
実際、スチームおじさんもそのリストをもとに、インドの政治体制や宗教構成のリスク評価から着手できたことで、スタートダッシュがしやすかった。
「コニーがいてくれて本当によかった」
スチームおじさんは、プレゼン中に何度もそう思わずにはいられなかった。
スチームおじさんもまた、コニーが事前に挙げてくれた候補国リストをもとに、自分なりに可能性を検討していた。
「中国とロシアは、確かに市場規模や資源の面では魅力的かもしれない。でも、共産党体制で報道の自由も低く、外資への情報公開も限定的。企業の透明性が求められる今の時代では、やはりリスクが大きいと思う」
プレゼンの場で、スチームおじさんはそう切り出した。
「その点、インドとブラジルは、民主主義体制の中で中間層が拡大していて、人口も多い。文化的多様性はあるけれど、市場としての開放性は高く、進出先として現実的です」
そしてもうひとつ、スチームおじさんは手元の資料をめくりながら静かに補足した。
「あと、南アフリカについてだけど──。
数ヶ月前に財務大臣が突然更迭されて、その直後に通貨が暴落した件がある。国内の政治基盤が不安定で、短期的な政策変動のリスクが高いから、避けたほうがいいと思う」
タオが「そこまで見てるのか……」と小さくつぶやき、ノアがめずらしく「なるほど」とうなずいた。
ここまでの段階で、インドとブラジルが有力な進出候補として浮かび上がっていた。
コニーの経済分析、スチームおじさんの政治体制評価、タオの政治リスクの整理──各パートが有機的に絡み始め、議論は次の決定的な局面を迎えようとしていた。
ノアは静かにスライドを進めていった。
ブラジルの主要都市における犯罪率の高さ、治安の地域格差、そしてインドにおける交通インフラの未整備区域や上下水道の未普及率について、手堅い統計と実地レポートで構成された資料だった。
言葉数は少なかったが、伝えたいことは明確だった。
「……結論は、まだ出せないけど。
治安で見ればブラジルは厳しい。
インフラに課題はあるけど、ODAも入ってるし──インドのほうが“伸びしろ”はあるかも。」
そのひとことが、テーブルの空気をわずかに傾けた。
そして、ソフィアが続く。先日、スチームおじさんが共有したデータをもとに、ソフィアは堂々と語った。
「たとえば、2015年のGlobal Gender Gap Index(世界男女格差指数)を見ると、インドは108位、ブラジルは85位。
女性の経済参画や教育機会に差があるの。
特に現地の女性管理職比率や消費決定権も、マーケティング戦略を考えるうえで重要ね」
その語り口は華やかだったが、スチームおじさんは「あれ…それ、この間送ったリンクそのままだよね」と内心でツッコミを入れていた。
過去のグループワークでも、
「スチーム、この資料、どこで見つけたの?リンク送って」などと、
要点だけ拾って“仕上げる”のがソフィアの十八番だった。
“じゃあ、あとは教育次第で決まる”──
そんな無言の了解が、そこにいた全員のあいだに生まれた。
そして次の瞬間、マイケルの番がやってくる。
「識字率、進学率、教育への国家投資──
これは、将来的な人材の質と安定した市場形成に直結する。
経済成長が“持続するかどうか”を見極める、いわば核心だ。」
スチームおじさんはそう考えていた。
特に、インドに関してはカースト制度による教育格差、地方と都市の識字率の違い、女性の就学率の低さなど、気になる要素が山ほどある。
このパートをしっかり詰めることで、国の本質が見えてくるはずだった。
一同の視線が、静かにマイケルに集まった。
「さあ、どう来る──?」
スチームおじさんは、固唾をのんで彼を見つめた。
だが──
彼のノートPCの画面には、スライドがひとつも開かれていなかった。
その瞬間、グループの全員が**「?」という表情**を浮かべた。
まるで、目の前の空気が一気に冷え込んだかのようだった。
スチームおじさんは、その場で一瞬、時間が止まったような感覚に襲われた。
(何が起きている……?)
さっきまで確実に流れていた“議論のリズム”が、急にぷつりと途切れた。
マイケルの番になった瞬間、彼のPC画面には何も表示されていなかった。
静かな空白が、グループの中に落ちた。
数秒の沈黙のあと、開口一番にノアが声を上げた。
「Are you kidding me?」
その声は鋭く、図書館のミーティングルームの空気を一瞬で変えた。
マイケルが何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
ノアは立ち上がるような勢いで、畳みかけた。
「私もやったんだけど? あんた、なにしてんの?
みんなそれぞれ仕事とか授業とか抱えてる中で、ちゃんと出してきたんだよ?
なんで、あんただけ“まだ”なの? どういうつもり?」
マイケルは伏し目がちに、ようやく口を開いた。
「……すまん、ちょっと……このところ夜勤が続いてて……
でも、資料は……集めてるつもりだったんだけど……」
その言葉は、もはや誰の耳にも届かなかった。
ノアは大きくため息をつき、腕を組んだ。
「“つもり”じゃ意味ないんだけど。ビジネスじゃ、アウトよ? 知らないの?」
その一言で、スチームおじさんの背筋に冷たいものが走った。
つい数十分前まで和やかだったチームは、
いまや“グラつく船の上”のように、不安定な揺れに包まれていた。
マイケルが、歯切れ悪く「夜勤が続いていて……」と口ごもった瞬間、
スチームおじさんの脳裏に、以前耳にした“ある噂”がふっとよみがえった。
「あの人さ……前もグループワークで何もしなくて、教授に直談判されたことあるらしいよ」
「誰かが代わりに全部やって、ギリギリで提出したって」
そんな会話を、学生ラウンジで何気なく聞いたことがあった。
そのときは「まさか」と思って聞き流していたが──
今、目の前の光景は、まさに“そのまさか”そのものだった。
(前期は……たぶん、周りがなんとか支えてたんだろう)
(でも、今は──)
スチームおじさんは、胸の奥で冷たい何かが静かに沈んでいくのを感じた。
誰もが忙しい中、精一杯自分の担当をこなしている。
言い訳はもう、通用しない空気だった。
ノアは、容赦なかった。
「提出は明後日よ。あんたのせいで、ここにいる全員の将来を反故にする気?」
そう金切り声を上げながら、マイケルに詰め寄る。
ミーティングルームの空気が、ガラスのように張り詰めた。
マイケルは震えながら叫んだ。
「I have two kids! I have to feed them!!」
「I'm working nights, I'm doing my best! Just… not fast enough…」
だが、ノアは一歩も引かなかった。
その目には、怒りと軽蔑がはっきりと浮かんでいた。
「I don't care anymore.」
一瞬の沈黙──
そして、放たれたとどめの一撃。
「Get the fuck out!!」
その瞬間、ミーティングルームの空気は完全に凍りついた。
マイケルは何か言いたそうに口を開いたが、声にはならなかった。
ただ、無言のまま、持ち物を鞄にガサガサと乱暴に詰め込むと、
小さく、でも明確な足音を響かせて、ミーティングルームを飛び出していった。
誰も、何も言えなかった。
スチームおじさんは固まったまま、ただ一点を見つめていた。
マイケルがミーティングルームを飛び出していった直後、
誰もがその背中に視線を投げたまま、言葉を失っていた。
ソフィアが、涙声で彼を呼び止めようとした。
「Wait… Michael, wait──!」
けれどマイケルは、その声を振り切るように、図書館の出口へと姿を消した。
それを見届けた瞬間、ソフィアはその場に崩れ落ちるように座り込み、
肩で息をするほどに、声を殺して泣きじゃくっていた。
その場に響くのは、嗚咽と、誰も動かない椅子の軋む音だけだった。
コニーは、目を伏せたまま、何も言わなかった。
だがその目の奥には、かすかに光るものがあった。
言葉にしないだけで、胸の奥に何かを抱えているのが、スチームおじさんにはわかった。
タオは、涙をこらえるように小さく下を向き、唇を噛んでいた。
それでも、どうにか冷静さを保とうとしているのが、彼女らしかった。
そしてノアだけは、悪びれた様子も見せず、むしろまだ興奮の余韻をまとったまま、
組んだ腕を胸の前で強く締めたまま、静かに一点を見つめていた。
スチームおじさんは何も言えなかった。
そして気づいた。
「これが、リアルな資本主義社会の一面なのかもしれない──」
彼の胸に、静かな絶望と、ほんのわずかな怒りが同時に立ち上がっていた。
マイケルは確かに、課題をやっていなかった。
グループの足並みを乱し、最終的にチームを崩壊させた張本人でもある。
だが──
彼が怠惰だったのか?
いいや、そうではない。
スチームおじさんは、知っていた。
マイケルは、毎晩スーパーマーケットで夜通し働き、
朝に家へ戻ってから子どもたちの食事を用意し、
そのあとに、ようやく眠気と戦いながら、教科書を開いていた。
それは、誰よりも“努力”と呼ぶにふさわしい生き方だった。
たとえプレゼンのスライドが出てこなくても、
彼が何もしていなかったわけじゃない。
彼は、別の戦場でずっと戦っていたのだ。
「でも、そういう努力は、ここでは評価されないんだな……」
スチームおじさんは、小さくつぶやいた。
資本主義の社会では、“出せなかったもの”が全てであり、
“どれだけ苦しかったか”は、履歴書にもスライドにも載らない。
マイケルは、間違ってなどいなかった。
ただ、間に合わなかった。それだけだった。
マイケルは、すべてを一人で背負っていた。
家族の生活、夜勤、育児、学業──
そのすべてを、限られた時間と体力でやりくりしていた。
だからこそ、プレゼンに間に合わなかった。
いや──間に合わせられなかった。
それに対して、ノアは、明らかに恵まれていた。
育ちの良さは、服装や持ち物、ふとした言葉の端々からにじみ出ていた。
きっと今回のプレゼンも、雇ったチューターのサポートを受けて仕上げたのだろう。
それが悪いわけじゃない。
むしろ、それも“手に入る人には当然の戦略”なのだ。
けれど──
この世界では、その2人の「努力」は、まったく同じ言葉では語れない。
(結局、“結果”だけが、ここでは真実なんだな……)
スチームおじさんは、ノアの堂々とした横顔と、
泣きながら去っていったマイケルの背中を、同時に思い浮かべていた。
彼は今、ただ静かに、この世界の不平等を見つめていた。
それから、どれくらいの時間が経ったのかは、よくわからなかった。
誰かが時計を見たわけでも、明確な区切りの言葉を放ったわけでもなかった。
ただ、誰かがぽつりとつぶやいた。
「……今日は、もう遅いね。帰ろうか。」
その言葉に、誰も反論しなかった。
誰が言ったのかも、もう定かではない。
けれど、その場にいた誰もが──
今は、それが最善だと思っていた。
そして、自然と決まっていた。
「明日、もう一度集まって……
マイケルのパートは、みんなで埋めよう。」
責任とか、許しとか、償いとか──
そういう言葉を使った人は、誰もいなかった。
ただ、ひとつのチームが、小さな痛みを超えて、もう一度“歩き出そう”としていた。
帰り道、スチームおじさんはタオとアパートに戻る方向が同じだったが、
二人の間に、会話はなかった。
それぞれが、言葉にならない何かを抱えて歩いていた。
この夜は、異常なほど冷えていた。
季節外れの風が頬を打ち、上着の隙間から容赦なく入り込んでくる。
角を曲がり、タオと別れて一人になったとき、
スチームおじさんはふと、頬に何かが滴る感覚を覚えた。
それが涙だと気づいたとき、胸が軋むように痛んだ。
悔しかった。
情けなかった。
悲しかった。
冷たい夜に、涙がいっそう痛かった。
それからしばらくして、スチームおじさんは何度か、図書館でマイケルの姿を見かけた。
大きな身体を小さく丸め、机に伏せて眠っていた。
資料もノートも開いたままで、彼はまるで燃え尽きた人のようだった。
言葉をかけることはできなかった。
何を言えばいいのかも、わからなかった。
そしてある日、教授がふと口にした。
「マイケルは……大学院を休学することになったらしい。」
その一言が、胸に深く沈んでいった。
どうしようもなかった。
でも、忘れることも、できなかった。
あとがき
この夜、ひとりの仲間が静かに去っていった。
それは他人事ではない。
学業も、仕事も、家庭も、健康も──すべてが資本主義という大きな歯車の中に絡め取られている。
彼の背中を見送ったあの冷たい夜風は、いまも私の頬を打ち続けている。
あのとき胸に刻んだ言葉は、ただ一つ。
「明日は我が身。」
次回、第9話。「天使の翼が剥がれる時」
~真実を写す、虚飾の鏡~をお楽しみに!
