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⸻「家族間の問題」と言うなら、家族はどこにいるのか。⸻455日

裁判所は、ときに相続や財産の紛争を、

「家族間の問題である。」

と整理する。

しかし、私は今回の事件を通して、

その整理は、本当にすべての事件に当てはまるのだろうか。

という疑問を持つようになった。

家族間の問題というのであれば、

少なくとも、その整理を支えるだけの本人意思の確認や、関係者間で適切な意思確認や調整が行われたことについて説明できる状態でなければならないのではないだろうか。

しかし、現実には、

話し合いを求めても応じない。

本人とも連絡が取れない。

本人の意思も確認できない。

第三者だけが窓口となっている。

そのような状況で、

なお、

「家族間の問題だから家族で解決してください。」

と言われたとしたら、

家族は、いったい誰と話し合えばよいのだろうか。

それは本当に、

「家族間の問題」

として整理されていると言えるのだろうか。

もちろん、

本人が自由な意思で家族との接触を望まないのであれば、

その意思は適切な方法によって確認されなければならない。

しかし、その確認自体が行われないまま、

「家族間の問題」

という整理だけが先行するのであれば、

それは、もはや家族間の問題として整理したこととの整合性を失うのではないだろうか。

さらに、

本人の判断能力や財産管理そのものが問題となっているのであれば、

本人の意思は誰が、どのような根拠に基づいて確認していたのか。

財産管理は誰が、どのような法的根拠で担っていたのか。

そして、

本人保護が必要な状況であったのであれば、

その制度は適切に検討されていたのか。

これらの問いは、

制度上、避けて通ることはできない。

私は、

ここに制度の本質的な難しさがあるように思う。

家族間の問題として整理するのであれば、

本人の意思確認、

財産管理の法的根拠、

そして必要に応じた本人保護制度の検討について、

一定の説明があって初めて、

「家族間の問題」

という整理は制度として意味を持つのではないだろうか。

そうでなければ、

家族間の問題と言いながら、

家族は本人と話すこともできず、

本人の意思を確認することもできず、

家族が家族として関わることのできない状態だけが残ってしまう。

私は今回の事件を通して、

「家族間の問題」

という言葉は、

単に事件を分類するための言葉ではないと考えるようになった。

それは、

制度がどのような手続を選択し、

誰の意思を確認し、

誰がどのような法的根拠で財産を管理し、

必要であれば本人保護をどのように実現したのか。

その一連の過程について説明責任を伴って初めて成立する整理ではないだろうか。

制度とは、

事件を分類して終わらせるために存在するものではない。

「家族間の問題」

と分類するのであれば、

その分類を支える事実確認と説明責任を最後まで果たさなければならない。

そうして初めて、「家族間の問題」という整理は制度としての整合性を持つのではないだろうか。

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