⸻「家族間の問題」と言うなら、その先は誰が支えるのだろうか。⸻460日
「家族間の問題」の、その先を誰が担うのか
私は、この事件を通して、一つの疑問を持つようになった。
裁判所は、この問題を、
「家族間の問題」
として整理した。
もちろん、一般論として考えれば、家族の財産や相続について、まず当事者や家族の間で話し合い、整理することのできる問題はあるだろう。
しかし、本件について考えたとき、私はその前提そのものに疑問を持つようになった。
そもそも、この事件では、裁判が始まる以前から、本人と直接話し合うこと自体が難しくなっていた。
家族が本人の意思を直接確認することができない。
財産について本人と話し合うこともできない。
そのような状態の中で、財産の取得や管理について疑義が生じ、親族間で話し合いが行われ、それでも問題が解決せず、最終的に訴訟へと発展した。
そうであるならば、
「家族間の問題」
と整理する以前に、一つ確認しなければならないことがあったのではないだろうか。
そもそも、この問題を家族間で解決するための前提は成立していたのだろうか。
家族間で話し合うためには、少なくとも、本人の意思を確認できることが必要になる。
本人が何を望んでいるのか。
本人が自分の財産をどのように考えているのか。
誰に何を任せているのか。
財産について行われていることを本人自身が理解しているのか。
そして、家族がその本人と意思疎通できること。
こうした前提が存在して初めて、
「家族間で話し合う」
という解決方法が現実的な意味を持つのではないだろうか。
ところが、本件では、その前提自体が既に揺らいでいた。
それでも、
「家族間の問題」
と整理された。
私は、ここに、この事件を考える上で重要な問題があるように思う。
問題は、
家族間の問題と分類したことだけではない。
家族間で解決できない状態にある問題を家族間の問題と整理した後、その問題を誰が受け止めることになっていたのか。
ということである。
もし、その家族間の話し合いが成立しなくなったとき、
制度は誰を受け皿として想定しているのだろうか。
本人と話すことができない。
家族間の協議も成立しない。
財産管理について疑義がある。
本人との連絡窓口も限定される。
第三者が本人との主要な窓口となる一方で、家族は本人の意思や財産管理の経緯を十分に確認できない。
さらに、その第三者自身が財産管理や財産上の利益に関係する立場にあるとすれば、
問題はさらに複雑になる。
本人の意思は誰が確認するのか。
財産を誰が管理しているのか。
その管理権限は何に基づいているのか。
本人との接触や連絡を誰が調整しているのか。
本人の判断能力に疑問が生じた場合、誰が本人自身の利益を守るのか。
ここまで問題が広がったとしても、
なお、
「家族間の問題」
という一言だけで整理することができるのだろうか。
私は行政にも相談した。
しかし、行政にも対応できる範囲には限界がある。
では、次は家庭裁判所なのだろうか。
成年後見制度なのだろうか。
医療機関なのだろうか。
あるいは、財産について刑事上の問題が疑われる事情が生じれば、警察なのだろうか。
それぞれの制度には、
それぞれの役割がある。
同時に、
それぞれの制度には限界もある。
裁判所には裁判所の役割がある。
行政には行政の役割がある。
家庭裁判所には家庭裁判所の役割がある。
医療機関には医療機関の役割がある。
警察には警察の役割がある。
それ自体は当然のことである。
しかし、
本人は一人である。
本人の意思、
本人の判断能力、
本人の財産、
その財産を管理する者、
本人を支える者、
本人との連絡を担う者、
そして家族との関係。
現実の人間について考えれば、
これらはすべて一つにつながっている。
ところが制度の側から見ると、
それぞれが別々の問題として分類される。
相続は相続。
財産管理は財産管理。
本人の判断能力は本人の判断能力。
医療は医療。
第三者との財産問題は別の問題。
刑事上の問題があれば、それもまた別の問題。
もちろん、
制度がそれぞれ専門分野に分かれていること自体が問題なのではない。
私が疑問に思うのは、
それぞれの制度の境界に落ちた問題を、最後に誰が拾うのか
ということである。
一つの制度が、
「これは私たちが扱う問題ではない」
と次の制度へ問題を渡す。
次の制度にも権限の限界がある。
そして、
その次の制度にも限界がある。
その結果、
最後に再び、
「家族間で話し合ってください」
という場所へ戻るのであれば、
私は問わざるを得ない。
その家族間の話し合いが成立しないからこそ、制度に助けを求めたのではなかったのか。
ここに、
循環が生じる。
家族間の問題だから、
家族で話し合う。
しかし、
家族では話し合えない。
だから、
制度に相談する。
ところが、
それぞれの制度には対応できる範囲がある。
そして最終的に、
再び家族へ戻される。
しかし、
本人とは話せない。
すると、
最初と同じ場所へ戻ってしまう。
もし本当にこのような循環が生じるのであれば、
問題は、
誰か一人が対応しなかったことだけではない。
制度と制度の間に、本人を受け止める主体が存在しない状態そのもの
なのではないだろうか。
私は、
裁判所を批判したいのではない。
行政を批判したいのでもない。
家庭裁判所や医療機関に、
すべてを解決してほしいと言っているわけでもない。
私が知りたいのは、
もっと単純なことである。
家族間という前提が現実に機能しなくなったとき、制度は誰が、どのように本人を支えることを想定しているのか。
本人が自分の意思を十分に伝えることができない。
家族が本人の意思を確認することもできない。
財産管理について疑問がある。
第三者が財産管理や本人との連絡に関与している。
さらに、
本人自身の判断能力について確認する必要まで生じている。
そうした状態になったとき、
「これは家族間の問題です」
という分類だけでは、
本人を守ることはできない。
むしろ、
家族だけでは本人を支えることができなくなったからこそ、制度が必要になるのではないだろうか。
私は、
「家族間の問題」という言葉そのものを否定したいわけではない。
しかし、
その言葉が、
制度が問題から離れるための言葉になってしまってはいけないと思う。
家族間で解決できるのであれば、
家族間で解決すればよい。
しかし、
家族間では本人の意思を確認することすらできないのであれば、
その瞬間、
問題の意味は変わる。
誰が正しいのかという問題から、
誰が本人を守るのか
という問題へ変わるのである。
そして、
財産管理について疑義があり、
本人自身がその財産を適切に管理できているのかについてまで疑問が生じるのであれば、
必要なのは、
単に家族同士を再び話し合わせることではない。
本人の意思を確認すること。
本人の判断能力を確認すること。
財産管理の権限を確認すること。
必要であれば、
本人から独立した立場で本人の利益を守る仕組みにつなぐこと。
そこまで含めて、
初めて「本人保護」という問題になるのではないだろうか。
制度は、
問題を分類するためだけに存在するものではない。
分類したのであれば、
その分類の先に、
人が進むことのできる道が必要である。
「家族間の問題」
「行政では対応できない」
「民事の問題」
「医療の問題」
それぞれの説明が、
個別には正しかったとしても、
その結果として、
誰も本人を守る主体にならないのであれば、制度全体として本当に機能していると言えるのだろうか。
私は、
この事件を追う中で、
最初は財産の問題を考えていた。
次に、
本人の意思を確認できないことを問題だと考えた。
さらに、
第三者による財産管理や連絡窓口の問題が見えてきた。
そして現在、
本人の判断能力や本人保護についてまで考えるようになった。
しかし、
振り返ってみれば、
これらは別々の問題ではなかったのかもしれない。
中心に存在していたのは、
最初から一つだった。
本人の意思を、誰がどのように確認し、その本人の利益を誰が守るのか。
という問題である。
家族間でそれができるのであれば、
家族が担えばよい。
しかし、
家族間ではそれができない。
本人とも直接意思疎通できない。
第三者の関与についても確認が必要になる。
本人自身の判断能力についても疑問が生じる。
そうなったとき、
私は制度に問いかけたい。
その本人を、最後に誰が受け止めるのだろうか。
「家族間の問題」という言葉は、
制度が介入しなくてもよいことを意味する終点なのだろうか。
それとも、
家族だけでは本人を守ることができなくなったとき、
制度が本人保護について考え始めるための出発点なのだろうか。
私は、
後者でなければならないと思っている。
なぜなら、
家族間で解決できる問題に制度が介入する必要がないということと、
家族間で解決できなくなった問題についても制度が何もしなくてよいということは、まったく別だからである。
そして、
もし制度のどこにもその問題を受け止める場所が存在しないのであれば、
それこそが、
この事件を通して私が見つけた、
最も大きな制度上の問いなのかもしれない。
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