【ピリカ文庫】ルーキー水入らず|4分
――お前は期待の大型ルーキーだ。その泳ぎでみんなを驚かしてやれ。ファイト!
その小さく波打つ水面を見たとき、俺は高校一年の春のことを思い出した。
すでに身長が百八十センチあり、体格もがっしりしていた俺は、体育会系の部活に引く手あまたであった。色々な部活から勧誘を受けたが、結局、水泳部に入ることに決めた。それまでに大した水泳経験があったわけではない。単に部長の勧誘がしつこく、断るのも面倒だったからだ。その当時、俺の身体は他の新入部員と比べて一回りも二回りも大きかった。まだ泳いだところを見たこともないのに、部長は体格だけを見て、俺のことを「期待の大型ルーキー」と呼んだ。
これが天性の才能というやつだろうか。意外なことに、初めてタイムを計ったとき、俺は新入部員の中で一番速かった。タイムだけではなく、泳ぐ姿が美しく、まるで魚のようにすいすい泳ぐと、部長は俺のことを褒めちぎった。
そのことに気を良くした俺は、少しずつ部活をサボり始めるようになった。そんなに必死に練習しなくたって、同級生に勝つためには余力で十分。水泳選手になるわけでもないのだ。朝夕と懸命に練習する同級生を横目に、俺は初めてできた彼女に現を抜かし、遊び惚けるようになった。
久しぶりに部活に顔を出したとき、俺は度肝を抜かれた。同級生に負けたのだ。そいつは俺の体格よりも、ずっと小さめだった。部長に聞かされた話によれば、俺に負けたことを悔しく思い、そいつは毎日のように人一倍の練習をこなし、タイムを一歩一歩縮めていたのだという。
そして、入部当初からほとんどなかったやる気を、すっかりなくされた俺は水泳部を辞め、大型ルーキーとしての生涯を終えた。
その後は、他の部活に入り直すこともしなかった。遊んでばかりいたため、勉強には付いていけず、教科書を見るのも嫌。そんな様子を見て、俺の周りから人はどんどん離れていき、ついには彼女にもポイ捨てされた。学校を行き帰りして、その閉鎖的な空間の中で、息を吸って吐いている、ただそれだけの高校生活だった。
高校卒業後は実家近くの工場に就職した。特に趣味もなく、職場以外の人と接する機会もほとんどない。ごくたまに知り合いの仕事を手伝っているときくらいである。そのとき、俺の目の前で金魚が跳ね、水面を波立たせた。あぁ、今日もそうだった。その水の音によって、俺は現実に引き戻され、夏の暑い日差しを遮る屋台の脇に「金魚すくい」ののぼりを急いで立てた。
最初の客を待ちながら、今日のために仕入れられ、窮屈そうに泳いでいる金魚を眺める。どれも同じように見えたが、他の金魚に比べ、ひときわ大きな金魚がいることに気付いた。その金魚は泳ぎが速いだけでなく、とても優雅に泳いでおり、目を奪われた。その姿が、あのときの俺と重なる。ちょうどそのとき、高校生くらいの団体客が現れた。
――お前は期待の大型ルーキーだ。その泳ぎでみんなを驚かしてやれ。ファイト!
俺は客にポイを渡しながら、「ファイト!」だけを声に出した。これは客に対してじゃなく、水面下にいる期待の大型ルーキーに向けたものだった。まるで俺の言葉に応えたかのように、そのルーキーはとても素早く、そして優雅に、次々とポイをすり抜ける。最初は躍起になって捕まえようとしていた客も、いつしかルーキーの泳ぎに目を奪われていた。
「わぁ、すごく元気な金魚がいますね。私もお願いします」
浴衣姿の女性が三枚の百円玉を差し出している。逆光の夕陽に照らされたその女性はどことなく、懐かしい面影があった。期待の大型ルーキーが思いを寄せていた高校時代の彼女に似ていたのだ。そして、その女性がビニールプールの傍にしゃがみ込んだ、そのときだった。それまで縦横無尽に泳ぎ回っていたルーキーが突然、女性の方に一直線に近付いていき、動かなくなったのだ。ルーキーは、いとも簡単に仕留められた。
何だ。お前は、あのときの俺と一緒なのか。
いつしか虚空を見つめて物思いに耽っていた俺の前に、その女性はルーキーが入った器を差し出していた。俺はその中身を透明な金魚袋に移す。いつのまにかルーキー以外にも小さな金魚を数匹取っていたようだ。
「そいつらに足下を掬われて、ポイ捨てされるなよ」
女性に聞こえないように声は出さず、口の動きだけで伝える。
その直後、金魚袋の中のルーキーも、口をパクパクさせた。
こいつは俺に返事しているわけではない。ただ酸素が欲しくて、口を開け閉めしているだけだ。閉鎖的な空間の中で、ただ息を吸って吐いているだけだった高校時代の俺と同じなのだ。
そう自嘲気味にルーキーを見ていると、その口の動きが一定であることに気付いた。「ファイト、ファイト、ファイト……」と言っているように、そう思えてくる。「まさかな」と俺がそう呟いた瞬間、ルーキーが金魚袋の中でくるくる回りだした。
そうか、お前は泳ぐのを辞めるわけじゃないんだな。
お前が応援してくれるなら、俺も、もう一度泳いでみようか。誰からも期待されていないし、もはやそんなに大型でもない俺も、ルーキーとしてもう一度。
「ルーキー水入らず」終わり
まさかの「ピリカ文庫」にお誘いいただきました。ピリカさん、本当にありがとうございます。今回のテーマは「ルーキー」ということでした。このテーマの話を考えたことがなかったので、難しくもあったのですが、とても楽しく書くことができました。新年度となり、大変な方もいらっしゃるかと存じますが、少しでも楽しんでいただけましたら幸甚です。
