稲田万里と、あいみょんと。
『全部を賭けない恋がはじまれば』
恋愛には、全部を賭ける。いや、賭けてしまう。
そうやって生きてきた私の人生を否定するかのようなタイトル。
小説とは言え、若い女が、えらい利いた風な口を聞くもんだ。憤慨の私。
そもそも、自分より年下の、しかもかなりの年齢差の女が書く恋愛小説なんて、「ケッ!」と思っていた。
それは、あいみょんを聴き始める前の感情に少し似ていた。
私があいみょんを初めてちゃんと聴いたのは、『さよならくちびる』という映画の劇中歌『誰にだって訳がある』という曲だった。
この曲を聴いて、私はあいみょんをもっと聴いてみたいと思った。
「いつまでたっても吹き溢れない湯を沸かすのだ』
このフレーズに心が持っていかれた。
『全部を賭けない恋がはじまれば』
この小説を読んで、稲田万里の次の小説が読みたいと思った。
若い女がセックスを連発している。
上品とは言い難い。
でも、不思議と映像が再生されるのだ。
セックスの様子も、その場の空気も。
「あら、やだ」と思いながら、ふと、女の侘び寂びが垣間見える一文が飛び込んでくる。
あぁ、本当は、全部を賭けられる恋を探してるんだよな、と、心を持っていかれ、すぐに、次のおかしな男とのセックスが脳内再生されるのだ。
小説の男に、翻弄される。いや、この小説に翻弄されている!
稲田万里は言っている。
「なぜ私が書いてるのか、そこには私の中に怒りがあるからです。」と。
私の中にも抱えきれたり、抱えきれなかったり、大小の怒りがある。
小説の中の男に、あー、あの男ね!笑
と、自分自身の過去と重ね、辛い過去が笑いに変わっていく。
まるで、私の怒りを肩代わりしてくれるかのように。
稲田万里の怒りに乗っかって、私の終わった恋たちも成仏させられる。ありがたい小説なのだ。
稲田万里にはエネルギーがある。
生きるエネルギーがある。
噴火のような大爆発のエネルギーではない。
まさに、いつまでたっても吹き溢れない湯を沸かしているようなエネルギーなのだ。
『怒って傷ついて泣いて また怒って笑って恋して』
と、あいみょんは歌い、
『いつまでたっても吹き溢れない湯を沸かすのだ』と続けている。
怒りながら笑ったり泣いたりして、全部を賭けない恋を何度も繰り返して、全部を賭けられる恋に出会うかのように、吹き溢れないエネルギーを沸かしながら、次回作でドカンと沸騰させてほしい。
