憧れからライバルに(1500文字)
憧れからライバルに――、ということが、男の世界では、わりと起こる。
あだち充の『タッチ』でいうなら、「上杉くん、上杉くん!」と達也を慕い、そのまねばかりしていた吉田が、達也のピッチングをまねて、マウンドでそこそこの成果を出せるようになってのち、それは起こった。
憧れの対象がライバルになったと嬉しく思い、今度は敵意を剥き出しにしてくる。
天才スラッガー新田への対抗心、いや亡き弟和也への複雑な思いでいっぱいの達也は、吉田のそれを「?」と思うだけでやり過ごすが、吉田はそれが気に入らない。
卑劣なやり方で達也に、執拗に歯向かってくるようになる。
達也を見下したような発言をする吉田に、これまで達也の球を受けてきた孝太郎は、「お前、もしかして上杉を超えた気でいるのか?」みたいなことを、ポカンとした口調で尋ねる。
「山ってのは、実際に登ってみると、遠くから見た印象とはずいぶん違うもんなんだなあ」などと吉田は嘯く。
が、付け焼き刃のものまねは実戦ではまるで通用しない。
打ち崩されて、ガラスのプライドとともに自滅――。
以上、記憶に基づくあらましだから、部分的に間違っているかもしれない。でもまあだいたいそんな感じ。
――とにかく、そのような、憧れからライバルに、みたいなことはちょくちょく起こることかと思われる。
「ああなりたい」という憧れが「うらやましい」という熱にあおられて「まねしたい」という衝動に至り、コピーしたのち、「たいしたことない」と見下し、成果を姑息なやり方で踏みにじり始めたりするのだが、実力のなさはいかんともしがたく結局自滅してゆく――。
男の、この手の増長は、こっけいなまでに痛ましくも情けない。
背景にあるのは、おそらく自己無価値感、ないしは劣等感だろう。
だから僕は思うのだけれど、男子たるもの、ゆめゆめものまねなんてするなかれ。
かつてキャンディーズやピンクレディーの振り付けをまねていた女子たちのそれがまぶしかったのは、劣等感や負けん気に由来しての模倣ではなかったから。
競争とかマウントとか、よからぬものにもなり果ててしまいかねないところの♂性は、自らの力により研磨され尽くしてこそ、ホンモノとなり得るものなのだ。
いや、男も女もないな。
僕らはみんな、オリジナルな僕らなんだってこと――。
誰のものまねでもない僕らそのものを、僕らは、僕ららしく体現したらいいんだ。
「他者の目にどう映っているか」は重要ではない。「自分のまなこに映っている自分」に偽りがなければ、僕らはどこまでも僕らでいられる。
卑怯になることもない。ひとに優しくいられる。リスペクトも保てる。
僕らは、言葉ではなく、己の内に宿る真心や侠気の自然なる発露により、自身を定義するべきなのだ、たぶん。
だなんて、なんでかな、熱く、アツクルシク、語ってしまった。
『タッチ』の吉田くんは、ただ単に小さな男なのだ。不敵なる悪を気取るが、真の悪になれるわけでもない。
未熟なだけの少年。だからこそノビシロがあるともいえる。今後どのような者にもなれる。
砕けたあとに、自身の歩みで、一歩ずつ前に進み始めたらいいだけだ。
そう考えると、「憧れ→ものまね→自滅」の先には、「気付きと再生」が、ちゃんと用意されているのかもしれない。
「憧れ→リスペクト」経由の模倣なら、謙虚さを保ったままでのオリジナリティの醸成に、役立たないこともないのだろうし。
まねが悪いんじゃなくて、乗っ取りがショボいんだな、おそらく。
楽してしれっと成り代わろうって魂胆が不遜なんだ。
だなんて、つらつらと、とりとめもなく書き散らかしてしまった。
ボツにする?
でも敢えて、まんま上げてみてもいいかもしんない。
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