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【日本とプロイセンの関係】


東京にあるドイツ大使館が国交160年記念に、”プロイセンと日本の関係”をまとめてくれていました。"プロイセンゲート"を踏まえて見てみるとなかなか興味深い内容でしたので、抜粋してご紹介いたします🍿🐸


1861年日普(プロイセン)修好通商条約締結

【1853年にアメリカのペリー提督が来航し、後に日米修好通商条約が締結されると、通商への門戸が開放されましたが、同時に、当時の日本を治めていた徳川幕府の統治は揺らぐことになります。

プロイセンも、1861年の条約締結後は公式に日本への入国を認められました。プロイセンは軍事力や科学技術、そして芸術や文学の分野にも長けた国として高く評価されていました。外圧に抵抗しながら富国強兵の目標を掲げることになる明治政府にとってプロイセンは、近代国家への発展のために有用や知識や技術を持つ国だったのです。このような背景のもとで、日本とドイツの外交は始まりました。】

【日本側の代表は、江戸幕府老中の安藤信正。プロイセン王国の全権代表は、フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵でした。】

【そしてついに1861年1月24日、日普修好通商条約という二国間条約が締結されるに至ります。】


プロイセン人シーボルト

シーボルトは、日本とプロイセンが外交関係を結ぶずっと以前の1823年8月に来日しました。シーボルトは鎖国下でも日本に行き、日本について研究するために、オランダ語が流暢ではなかったにも関わらず、自らをオランダ人と偽ってまで日本の出島に来る許可を得ました。

来日して間もなく、シーボルトは出島の外の長崎郊外に自然科学や医学を教える鳴滝塾を開きました。そこで彼は西洋医学を教授し、実践もしました。後に幕府批判をした高野長英など、塾生たちはその後日本を代表する医者や学者となりました。】

日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。(wikipedia)

【楠本イネ(1827–1903)ドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧の間に生まれる。 シーボルト門下の町医者である二宮敬作から日本人女性として初めて医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学んだ。東京築地に産科医院を開業し、天皇家の出産などにも立ち会っている。


【日独関係が始まった当初それ以外にも初期の日独関係に大きな影響を与えた3人のドイツ人がいました。】

大日本国帝国憲法の起草

カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル (1834-1894)は、1878年来日し、東京の外務省で法律顧問を務め、日本の近代法治国家への発展に大きく貢献しました。明治政府はプロイセンを手本とする立憲主義の導入を決め、ロエスレルは、のちに首相となった伊藤博文の信頼を得、大日本帝国憲法や商法の起草にも関わりました。

参謀教育課程の設立

クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(1842-1906)は、1885年3月に来日したプロイセンの将校でした。ドイツで彼は陸軍士官学校で教鞭をとり、戦術や部隊の統率力、訓練方法などに関するさまざまな論文や著作を出版していました。日本政府は、彼に日本における参謀教育課程の設立を託します。そこで彼は創設間もない「陸軍大学校」で教育訓練を始めました。ドイツに戻ってからも日本陸軍の発展を注視し、1904年から1905年にかけて日露戦争が始まると、教え子の一人である満州軍総参謀長の児玉源太郎に作戦計画書を送っています。1904年の死後、日本でも追悼が行われました。

【児玉源太郎(1852-1906)
長州藩の中級武士の長男として生まれ、日清戦争での活躍を経て1898年から台湾総督に就任した。その後は陸軍参謀本部次長と満州軍総参謀長も兼任し、日露戦争での勝利に貢献。恩師ヤコブ・メッケルは児玉を高く評価し、日露開戦前から「児玉将軍がいるかぎりロシアに敗れることはない」と語っていた。】

日本初の完全な地質図を作成

・ハインリッヒ・エドモンド・ナウマン(1854-1927)は、日本で発見した先史時代のゾウ「ナウマンゾウ」の発見で有名になった地質学者で、明治政府が西洋の科学、技術、制度を導入するために特別に日本に招いた外国人、いわゆる「お雇い外国人」として明治時代に来日しました。日本の近代地質学の基礎を築くこととなるナウマンは、21歳の若さで来日し、1875年に東京開成学校(後の東京大学)の教授となりました。彼は日本全国を回り、日本初の完全な地質図を作成し、日本列島を分断する大地溝帯「フォッサマグナ」を発見したことでも知られています。

日本初の完全な地質図を作成・・・🤔


日普修好通商条約が締結された翌年の1862年には、日本から文久遣欧使節団が出発。そのなかには若き福沢諭吉もいました。


徴兵制を導入したプロイセン人

【1869年、シャウムブルク・リッペ公国猟兵大隊の兵士の一人、カール・ケッペン軍曹は日本に招聘されました。彼は、紀州藩(和歌山藩)にドライゼ式撃針銃を販売する貿易会社レーマン・ハルトマン社の仲介で日本にやってきました。表向きにケッペンが依頼されていたのは、紀州藩の軍隊にドライゼ銃の弾丸と弾薬の製造を伝授することでした。

表向きの依頼ではなかったものの、彼はプロイセン方式の兵士の訓練も行いました。彼が信頼を置いていた日本人らの協力を得て、紀州藩の軍全体の再編成に着手したのでした。

ケッペンが藩の兵士らに行った最も重要な訓練の一つが教練でした。さらに兵学寮(士官学校)を設立し、戦術などを教えました。訓練では、時間を守ること、清潔にすること、装備の整理整頓などの人格教育を特に重視し、すべての兵士に総合的な基礎訓練(応急手当、武器の手入れなど)を導入しました。同時に、彼は残酷な罰を廃止し、代わりに良い成果を褒めることに重きを置きました。紀州藩で初めて導入された徴兵制度(武士だけでなく紀州藩の他の身分の人々にも課された兵役)は、日本で初めて導入されたもので、これも、ケッペンが残した業績の一つでした。】


「君が代」を編曲したプロイセン人

「君が代」は今日、日本の国歌として知られていますが、あまり知られていないのは、この歌には明治初頭幾つかのバージョンが公式な国歌の候補として挙げられ、その中からドイツ人フランツ・エッケルトの編曲したものが選ばれたということでしょう。エッケルトは1879年に日本の海軍省から日本に招かれた軍楽隊長で、わずか来日1年後に国歌編曲の依頼を受けたのでした。】


⇓日本語でも見れますので気になった方はご覧ください⇓⇓

日独外交一六〇年




『全人類が悪魔支配から脱するためには、結局のところ、先に目覚めた人が 家族/親戚/知人/今日初めて会った人などに “話して伝える” という、地道な作業が必要になります。

何度も何度も大声で、あなたの声を、この世界に響かせてください(エコーチェンバー)。

あなたの声を通して、神からのメッセージが直接伝わります。

"神はあなたが人類を救うと知っていて、あえてこの時代にあなたを選んで地上に使わした" ということを、思い出してください。』

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