『教皇選挙』観たよ|面白すぎるという欠点
平日の昼に劇場に行ったがめちゃくちゃ満席だった教皇選挙(コンクラーベ)を題材にしたポリティカルサスペンスで実際めちゃくちゃ面白かった。何が面白いかというとバチカンを映した画面はめちゃくちゃ格調高くてゴージャスな上にめちゃくちゃ刺激的な展開をぶっこみまくってサービス精神がドバドバ溢れている。しかしそのサービス精神のおかげで批評性は薄い映画に仕上がっていた。でっけえ信仰共同体として2000年間続いている世界最大の家父長制組織を題材にした映画で批評性が薄いっていうのはそれはそれで問題が出てくる。一言でいうとこの映画、近年私が気になっているリベラル映画作家の「洗練された社会階層以外への舐め」アティチュードを強く感じさせる。私はこの映画めちゃくちゃ楽しんだがそれはそれとして「そんなんだからダメなんだ」ともなった。ちなみにこの感覚は最近のリベラルっぽい映画でずーっと感じていることであり、たとえば『シビル・ウォー アメリカ最後の日』ならトランプ的なるものだし『アノーラ』ならビデオゲーム、『エミリア・ぺレス』ならメキシコあるいはトランスジェンダー、この映画ならカソリック……というか宗教全般やね。
映画のゴージャスぶりとか撮影の素晴らしさとかはあらためて私が言及するまでもないだろう。物語の経過とともに映像に映るものひとつひとつに解釈の余地が出てくる。枢機卿の権力争いで煮詰まっていた選挙が前に進んだことを、閉鎖空間に風穴があいて新しい風が吹く……光が差す……ことで表現みたいな、一目見てわかるような状況説明がこの映画を推進していく力になる。それは2000年のあいだキリスト教がやってきたことと重なる。美しい景色や珍しい自然現象に神の恩寵を覚えて、その恩寵を今度は絵画や彫刻で残す。絵画や彫刻の表現が今度はまた現実世界の自然現象やら出来事やらを解釈して神の恩寵を感じるための手掛かりになる。つまり解釈する行為は解釈の瞬間では終わらずに世界の認識すら変容させていき社会の構造を定義していく。その最たるものがカソリック教会でありバチカンの組織だろう。キリスト教会や聖職者っていうのは聖書の解釈を2000年続けてきて今の組織を作り上げて維持してきた人たちだから。
この映画は家父長的組織における女性(シスター)の姿を描いているのでフェミニズム映画としてもとらえられるだろう。カソリック教会の組織は男性中心主義過ぎるんで変わるべき。それはそう。キリストの教会組織が男性中心主義的であっていいとする大きな根拠はパウロ(新約聖書で『ローマの信徒への手紙』とかいっぱい書いたひと。教会組織の基礎を作った)なのでそのあたりの言及があるのかなと思ったらそんなことなかったので教義論とかには踏み込まないんだなと思って見ていた。ここ数十年、パウロの教会論をいかに解釈して女性信徒やあるいは聖職者の地位を作っていくかみたいな議論はいっぱいあったので。と思っていたら、突然最後のシーンで「神に与えられた肉体をいじるもんじゃないよね」みたいなあまりにも素朴な論理を持ち出されたのでヒエッとなった。別にベニテスが手術をする必要は全然ないと私も思う。昔のカトリック教会では宦官みたいに生殖器を取り除く聖職者もいたけど異端とされた結果、主流じゃなくなったみたいなエピソードもあります。でもベニテスがその根拠として「神が与え給うたものはあらかじめ完全である」みたいな理屈を是としてしまうと今度はトランスジェンダーの性別移行否定だったりあるいは輸血拒否みたいな論理に簡単に発展してしまうので現代に適応していこうとするベニテスみたいな人ほど慎重になると思うんだよね(肌感でしかないけどこの論理はあんまり現代の聖書解釈でも主流じゃない気がする)。この映画は男性主義的な教会の在り方を否定するために教会が重ねてきた歴史的な議論は無視して感覚に基づいた素朴な原理主義的解釈を最後の結論にする。このくらいの素朴な信仰告白が多くの人の心に響いてしまうというのもわかる。しかしカソリックの伝統的な教義を軽視することによってむしろ前近代的な素朴な信仰の形が現前するという奇妙なねじれ現象がここには起こっている。
あと思うのは、ベニテスのあのキャリアならカソリック教会はベニテスを男性として扱い続けるだろうしベニテスも性自認は(おそらく)男性なので、ベニテスの設定はあくまで映画的な驚き、オチのためでしかないんじゃないかなあということ。修道士として生まれ育ったベニテスが盲腸の手術で自身の臓器の存在にはじめて気づいたという設定からわかるように、この映画が性分化疾患の人が実際に遭遇する困りごとにもあまり興味がなさそうなのが気になる。良くも悪くもこの映画はカソリック教会の盤石さ、あるいはヤバさを舐めているし、性分化疾患も映画の仕掛けのための設定と思ってるふうに私には見えてしまった。
よく「キリスト教徒って進化論信じてないんでしょウケる~」みたいなことを言ってあいつらは科学的思考のできないバカみたいないじりをする人がいるが実際のところ進化論の妥当性を認めていないキリスト教徒はそんなに多いわけじゃないだろう(たぶん)。先方にしてみれば「お前ら何かというと進化論の話ばっかするよな。世の中には現在の科学で説明できていないことはいっぱいあるのになんで世の中のこと全部知ってるみたいな顔すんだろう」くらいに思っているんじゃなかろうか。問題は「それはそれとして私はこっちを信じますよ」とまっすぐな眼差しで言われた時に説得する手段なんてないということ。「進化論知らないの?」って問われたクリスチャンに「いや知ってます。それはそれとして私は聖書に書かれてあることを信じています」と返された時には近代的啓蒙科学人(現代の大マジョリティ)はもう何も言えなくなってしまう。で、もちろんこう返された時に「話が通じない前近代人めが」と遮断することもできるし今まではそれでよかったんだけど、そうやって馬鹿にしてた人たちに「私たちの話を真面目に聞かないのならじゃあもうお前らの言うこともまじめに聞きません」と言われて慌てふためいているのが今の世界というふうに私には見える。彼らにとっては、現代科学は常に彼らに踏み絵を迫っているように感じているだろう。誰だって自分のことをガリレオの方だと思いたい。
映画を作る人たちにとって一番大事なものが映画であることはまあ当たり前かなと思うんだけど、映画を作る人たち以外のものがすべて映画にとっての材料に見えるんなら映画が娯楽の王様じゃなくなっていくのも仕方ないかなーって気はする。映画って私にとっては娯楽の王様だし今までいろんな問題意識やら何やらを大作映画から教えてもらったからやっぱり寂しいけどね。
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