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ヴァイオリンの音色が今。ラピスラズリの瞳に微笑む。

渋緑のコップに、レモングラスのアロマを三点垂らす。

心のなかで、いち、に、さん、と呪文を唱えるようにして。コップの中に入ったウルトラマリンとグレーに、少しずつ魂を注ぐようにして。
グレーが姿を消し、青の輝きが増していく。
黄金と白銀の粒が、コップ一面に広がる。曇り空を引き裂き、太陽の光が草原に降り注ぐように……。

「加工された美しい石よりも、荒い原石の方が素敵ですよ。」

昔、誰かが言った言葉。今なら少し分かる気がする。シワがれた声……どこか懐かしい。
五つの青い鉱石を見つめ、深呼吸をする。レモングラスの香りが、鼻、口、耳と駆け抜けていく。
うっすらと白い筋の入る鉱石を手に取る。溢れ落ちそうなアロマに、あの頃を重ねて。
ゆっくりと、目を閉じる……。

タッタ、タッタ、ターッ。

葉加瀬太郎の『情熱大陸』が聴こえる。弦が踊り出し、サンバのステップを踏む。炎がラピスラズリを包み、新しい色へと変化させる。ピアノの音が海となり、ヴァイオリンの音が大地となる。いくつもの感情に合わせて、植物が成長していく。

やがて、大地は夜を迎え。眠りにつく…。

「霞(かすみ)、起きて。時間よ。」
母の声が聞こえる。現実に戻ったことを後悔しつつ、私は書き途中の原稿に目を通す。そして、赤いバツと再考の文字をもう一度眺め、太陽を見つめた。
「霞、時間よ。大学に遅刻するわよ。」
扉を叩く音に嫌気がさして、はいはい、と言いながら扉を開ける。徹夜明けの部屋には光の粒が舞い、白い紙玉がシャボン玉に見える。

「ようやく起きたわね。また徹夜したの。」
「そう。なかなか良い文章書けなくて。気がついたら眠ってた。」
いつものサラサラなボブの髪が、ゴワゴワだ。手櫛で髪をとかしながら部屋を出る。
「卒業制作って、ただ小説書けばいいでしょ。簡単じゃない。ささっと終わらせればいいのに。」
朝食の後片付けをしながら、母親は中学生に接するように話す。
「私も最初はそう思ってた。本は毎日読んでるし。けど、実際書こうとすると思ってた世界と全然違うの。例えるなら、お母さんが野球する感じかな。」
「あぁ。頭で分かってるけど、手足がついていかない的なことかしら……。失礼ね。こう見えて、まだ若いですけど。」
「ごめん、失言でした。それで、登場人物の言葉が出てこないの。ん……ちょっと違うな。登場人物が動いてないというか……。きっと、この人はこんな言葉を言わないというか……。」

眉間に手を当てながら、私は言語化を試みる。味噌汁の香りに邪魔されつつも頭は冷静だ。

「はい。はい。分かったわ。とりあえず、これ飲んで早く行きなさい。今日は朝陽(あさひ)さんに会うのでしょう。遅れたら失礼よ。」
豆腐とワカメの至ってシンプルな味噌汁だ。しかし、煮干しと八丁味噌の香りが心を躍らせる。小学生のときは嫌いだったが、今は一番好きなメニューに昇格中。椅子にも座らず、私は立ってゴクゴクと飲み干す。
「行儀が悪い。彼の前でそんな端ないことしないでよね。嫌われちゃうわよ。」
「大丈夫。そんなこと気にしないから。じゃあ、行ってきます。」 
応答をする母親の顔も見ずに、私は玄関の扉を開けた。

口の中に広がる磯の香りが、オレンジの空と合わさってリゾート気分を感じさせる。セミの声は、まだまだ遠いな……。そんな独り言に満足しながら、私は待ち合わせ場所に足を進めた。


大きなブナの木に囲まれた黒い一軒家。軽井沢の別荘を思わせる優雅な佇まいに感動し、連日多くの人が訪れる。高級感を売りにした人気のカフェだ。本日のコーヒーには目もくれずに、私は「ゲイシャ」を注文する。

アールグレイのような甘い香り。ベルガモットとジャスミンに包まれて。目を閉じれば、そこにはコスタリカの大地が広がる。コーヒーなのか。紅茶なのか。飲んだ者にしか分からない。カフェテラスに身を沈めると。ブナの呼吸が見えてくる。

深く息を吐き、夏の強い日差しを大きく吸い込む。緑、黄色、緑、黄色……。クロード・モネの絵画『ポプラ並木』に「ゲイシャ」の香りと大地を添えて。

「ごめん。待った……。」
モカブラウンのボブヘアが、サラサラと揺れてコーヒーの香りを吸い込んでいく。
「いや。全然。来たばかりだよ。久しぶりだね。二年ぶりかな。」
彼女の右手に光る銀のリングに気づかないふりをして、私は彼女の香りを探るようにして応える。
「そうそう。本当に久しぶりだね。二年かぁ……あっという間だね。朝陽くん、元気してた。」
「おかげさまで。最初は言葉の壁に苦しんだけど、あっちの人たちはノリ良いから。一ヵ月でイタリア文化に染まってしまったよ。霞は元気してた。」
「勿論だよ。文学部か、表現学部か悩んだけど。表現学部選んで良かったと思う。今、卒業制作で小説を作成しているよ。」
白いテーブルに置かれた二つの紙コップが、互いを求めるように少し近づく。
「まさか、こんな偶然あるなんて。運命感じちゃうね。朝陽くんは、確かイタリアの大学で芸術を専攻してるんだよね。」
「そうさ。日本と違って、一年長いから少し余裕あるかな。予定では君のいる大学で半年間勉強させて貰って、卒業制作の下地作りを作ろうかと考えている。イタリアに戻ってから、卒業制作に取り掛かるかな。まさか、海外で日本画の魅了に気づくとは思わなかったよ。」
「いいなぁ。私はあと半年で仕上げないとで……苦しんでます。」
初めてコーヒーを飲んだ時を思い出す。そんな表情が私を見つめる。気がつけば、コーヒーはすっかり冷めていた。失った時を取り戻すように私は彼女に話し掛ける。

「そういえば、中学三年生の時のこと覚えてる。」
「勿論よ。あの時は小説を書くことに夢中だった。小説家の、あなたのお祖父様のところに通ってばかりで。楽しかったなぁ。鉱石を巡るファンタジー小説、また書きたいなぁ。」
「大丈夫だよ。また書けるさ。霞は文才あるし。それを卒業制作の題材にしたらいいじゃないか。」
「無理。そんな若くないし。最近、なんか現実に負けちゃうんだよね……。朝陽くんの方こそ、未練とかないの。」

黒曜石の瞳が私を捉えて離さない。迷いを断ち切るため、私はコーヒーを一口飲む。ベルガモットの香りが現実を呼び覚ます。右手を強く握り、私は笑顔で応える。

「ないかな。あの時は、ヴァイオリンがこの世の中の全てと思ってた。だけど、考えが甘かった。高校生でクレモナに渡って、レベルの違いを知ったよ。演奏も、ヴァイオリン作りも、全て規格外だった……。だからこそ、芸術を最初から学びたいと思うようになった。将来的には音楽の道に戻るかもしれないけど、今は絵画の道を進みたい。」
「あの頃と変わらないね。あなたは……。私の憧れ、そのまま。素敵だわ。」 
「俺なんかより、霞の方が凄いよ。あの頃のままだ。夢を諦めずに、ここまで来たじゃないか。」
「私たちって、やっぱ似た者同士だね。まるで、このコーヒーたちみたい……。」
同じ香りが重なり、私の心の隙間に染み込んでくる。そして、私は笑顔で応える。

「じゃあ…。一緒に、あの頃に戻るかい。」

強い日差しは夏虫色に変化し、彼女の心を優しく照らす。
「……。ダメ。もう終わったの……。新しい人できたし……ごめんね。」
視線を逸らし、彼女はコーヒーを一口飲む。ふぅっと息を吐き、再び話し出す。
「あの頃は、恋に焦がれてたの……きっと。今でもあなたに憧れてるのは本当。ただ、あの時は二つの感情の違いが分からなかった。今は違う。」
二つのコーヒーの距離が再び広がっていく。私の手もコーヒーに届かない。

「そうだね。君が正しいよ。君を一人日本に残して、クレモナを、ヴァイオリンを選んだわけだし……。後悔はしていない。」
ブナの葉を通り抜けた夏の日差しが、弱った身体に追い打ちを掛ける。海の香りが、顔全体に広がっていく。
「実は、明後日の夜、じいちゃんの一周忌を行う予定なんだ。本当はこれを今日伝えるはずだったのに……。変なこと言って、ごめんな。さっきのことは忘れてくれ。明後日の夜。俺たちが出会った思い出の場所で、じいちゃんの仲間たちが集まって演奏会を行うんだ。予定空いてたら、来てくれないか。きっと、じいちゃんも喜ぶよ。」
彼女の返答も聞かずに、逃げるように私はカフェテラスを離れた……。

クロード・モネの絵画「黄昏、ヴェネツィア」のような、燃え上がる空。矛盾した感情を投影した作品に、慰めの色を加えて。部屋の埃をはらい、ヴァイオリンを奏でる。「カントリーロード」の楽譜を広げ、あの夜を思い出しながら……。


お風呂に浸かりながら、私は中学生のときに作詞したカントリーロードの替え歌を歌っていた。あの頃夢中だったファンタジー小説と、朝陽くんの顔を思い浮かべて……。
「私って、最低だ。」
今度は『カントリーロード』をちゃんと歌ってみる。カラオケで最高点を取ったこともあるから、下手ではないはず。心にそう言い訳をしながら……。湯気が音符となって踊り出す。

ひとりぼっちのシャボン玉。
そんなあたなに、ヴァイオリンの音を乗せて。
色は次第に変化して、菜の花となって甘くなる。

そんなあなたに嫉妬する、タンバリンの音を乗せて。
心を踊る音と共に、黄色は浅葱へ変化して。
爽やかな香りに誘われて、リコーダーの音が迷い込む。
指先の感覚が小説を書く手と重なり合って。
あなたを紫式部に染め上げる。
シャボン玉から滴る雫は、やがて鏡に照らされて。
白い光を吸い込んでいく。

チェロの声に耳を澄ませて。
あなたの声に耳を澄ませて。

黄昏のシャボン玉に、四季彩の香りを。

そして、現実が私をここに引き寄せる。あの日、私は思い出の場所に行かなかった。前に進めなくなる気がして、怖くて行けなかった。電話をする勇気もなかった。卑怯者の私に愛想を尽かして、すべてのものが逃げていった。この泡のように時間が過ぎ去った。彼との再会から、五年。
「そろそろ仕事の時間か……。」

私はブナの木に囲まれたカフェでアルバイトをしている。流行りを過ぎたカフェテラスには、連日、木の葉だけが来店している。私の、もう一つの思い出の場所。罪を懺悔するように、このカフェと共に朽ちていくのを待つように働いている。後悔に似た曇り空を見上げながら、今日も白いテーブルを磨く。
「あ、いたいた。霞さん。」
爽やかな黄色の風に乗って、声が聞こえてくる。黒いエプロンをつけた三十歳前後の男性がこちらに走ってくる。

「あ、探しましたよ。初めましてです。私、三葉(みつは)と申します。三つの葉っぱで、みつはです。よろしくお願いします。」
逆ナイロールの黒縁メガネと、細身の引き締まった体。少し見惚れてしまうほどに、顔立ちも整っている。
「よ、よろしく、お願いします。いえ。初めまして。霞と言います。えっと。ここに勤めて五年目です。三葉さんは新しいバイトの方でしょうか。」
シトラスミントの香りに心まで奪われてしまいそうになる。目を合わせない私に、彼は優しく微笑む。
「いえいえ。今日からここの店長兼、オーナーです。先日、譲り受けまして。」
「えっと。お、おめでとうございます。いや、申し訳ございません。まさか、私クビって感じでしょうか。」 
三葉はメガネの位置を調整し、深い息を吐いてから笑顔で応えた。
「えぇ、その通りです。ただし、カフェのバイトとしては、ですが。新しい仕事をお願いしたいと考えています。来週からこの店はリニューアルします。とは言っても、いつもカフェは継続しますが。新しい取り組みとして、音楽と小説の庭を立ち上げようと考えています。あなたには、小説部門を担当していただきと考えています。」
話が急展開過ぎて、思考が全然追いつかない。夢だろうか。そんな私を見透かすようにして、三葉は話を続ける。
「夢ではありませんよ。実は昨年まで、ヴェネツィアでカフェを営んでいました。叔父が高齢ということもあり、急遽ここに招集されました。再建込みでの譲渡ですが。私にとっては思い出の場所ですから、なんとかして再建したいと考えています。」

黄色の落ち葉が、三葉の足元にゆっくり吸い寄せられていく。三葉は落ち葉に一瞬目を移し、再び話し出す。

「ヴェネツィアでは、カフェで音楽家たちの生演奏を聴くことができます。しかも、毎日。仕事の昼休みには、多くの人が時間を忘れて遊んでいきます。私はその空間をここにも芽吹かせたいと考えています。日本だと、それだけでは人が来ないかもしれないので、もう一つイベント入れようと思っています。そのお手伝いを、あなたにお願いしたいのです。」
「いえ……。その……。素敵だと思います。私なんかでお役に立てるでしょうか。卒業制作も教授からは駄作と言われたし。まだまだ、駆け出しのライターだし……ですし。」
「大丈夫です。寧ろ、荒削りな方が良いです。駆け出しのライターがお客さんと共に成長していく感じが。お店を応援したいって気分にさせると想います。卒業制作も読ませていただきました。確かに文章は荒いけど、あなたの熱量を感じました。あなたにしか書けない素晴らしい作品だったと、私は思います。ファンタジー系は賛否が別れるものです。ぜひ、引き受けていただけませんか。」

三葉の瞳が、一瞬、ブラウンダイヤモンドの輝きに見えた。いつか書いた小説に登場した主人公のような……真っ直ぐな茶色の輝きと大きなブナを重ねて、私は運命を受け入れた。


チャン、チャ、チャン、チャ……。

葉加瀬太郎の「交響詩希望」が響き渡る。
ヴァイオリンと、フルートと、ピアノの三重奏がブナの木に恵みを与える。曇りに刺す、一条の光のような調べを奏でて。鳥や人の声も合わさって、カフェ全体がオーケストラとなる。

名前を変えた「フェニックス(不死鳥)・カフェ」は、連日満員だ。
黒と白のチェスで彩られた店内は、今は姿を変え。
紅葉のような鮮やかな四季彩を放つ。
赤、緑、黄、茶……今日はどの席に座ろうか。
入って左は四季彩のテーブル席。

右はお一人様用、兼仕事場。正面に広がるのは、ブナに囲まれた白いカフェテラス。そして、後ろの壁には大きな一枚の絵画。東山魁夷の絵画「晩鐘」が飾られている。まさしく、この絵画のようなカフェ。レプリカだけど。構わない。

本日のオススメコーヒー「ペルー」のように。ほどよい苦味と、オレンジの甘い香りが調和する。飲むほどに味を変化させる不思議な豆と、絵画を見つめて。

いや。私たちの人生に重ねて……。

「できました。三葉さん。こんな記事でいかがでしょうか。」
私は現在、カフェの広報担当として働いている。本業の小説を書きながら……そっちの収入はほとんどないけど。楽しい日々を送っている。今日は読書会と小説講座はお休み。だから、カフェのホームページに、エッセイを投稿している。
「さすが、霞さん。オシャレですね。こういう、よくわからない表現好きです。余白…余韻というか、良いですよね。特に、東山魁夷の『晩鐘』と一条の光が後で繋がる感じが痺れます。塔がブナで、下の街並みが我々、いやオーケストラかな。」
「なんで分かっちゃうですかぁ。文章変えようかな。分からなくて、モヤモヤするのが面白いのに……。」
「おぉ怖いですね。霞さん、大丈夫です。これでいきましょう。分かる文章も、分からない文章も素敵ですよ。」
焦った三葉は適当な言葉で私を褒め、話題をすり替える。

「そういえば、新作の小説は順調ですか。話せる範囲で構成とか、ストーリーとか知りたいですね〜。」
「いいですよ。ファンタジー系です。高校生の男子が、骨董品で偶然見つけた砂時計で異世界に飛ばされる話です。主人公は、生まれつき左目が青いことにコンプレックスを抱えています。異世界では女王が崩御され、その生まれ変わりを探していました。約束の地に突然現れた主人公の瞳は、王族しか持つことのない青い瞳でした。しかも繊細な色彩までも亡き女王に瓜二つで、性格までも似ていました。その後、女王の婚約者と、女王の妹(現在の王)が主人公をめぐってトラブルを巻き起こしていきます。」

「いいですね。最近の流行りの転生系とは少し違いますね。さっきの話だと、主人公がコンプレックスと向き合っていく話が内包されていますね。女王の婚約者は恐らく男性でしょうから、少しボーイズラブ的な要素が入ってくるのでしょうか。」

「さすが、三葉さんですね。その通りです。砂時計のように上と下、現実と異世界の世界を行き来きしながら自分の弱さと向き合って成長していく王道作品です。ちょっとスパイスを入れて、不思議な三角関係を入れようと考えています。ただ、婚約者の男性の気持ちが良く分からなくて悩んでいます……。」

確かに複雑ですね、と言いながら三葉は席を立ちカウンターで新しいコーヒーを入れ始める。

シュー。シュー。ポポ。ポポ。
シュー。シュー。ポポ。ポポ。

音に合わせて、ブラウンダイヤモンドの瞳が螺旋の輝きを放つ。柔らかく注がれる白湯が、円の軌道を描きながら涙を溢す。黒き魂がオレンジの衣を纏い、白い大地に降臨する。失った時間に祈りを捧げるように穏やかな時が流れていく。三葉の指先に恋をしながら、私は小説の展開を考えていた。新作のコーヒー「ペルー」を私に差し出し、三葉は口を開く。ペルーの優しい苦さが私の心に伴奏する。

「婚約者の男性は、百年経とうが、二百年経とうが、女王を愛していると思います。少なくとも、私はそう思います。生まれ変わって性別が変わっても。その魂を愛したのだから、外見は関係ないです。きっと、主人公は女王の妹を選ぶでしょう。それでも、婚約者は側に入れるだけで幸せだと思います。なぜなら、女王と交わした『主人公を大切に育てる』という約束が彼を支えているからです。」

眼鏡を少し上げ、いつも以上に冷静に淡々と語る……。しかし、私を見つめる瞳は優しく誠実さに満ちている。あまりに真剣な眼差しに私は思わず笑ってしまった。

「そんな約束していませんよ。まだ二人の関係は悩み中です。三葉さんって本当にファンタジー好きですね。いきなりスイッチ入ったから驚きました。一瞬、婚約者に見えましたよ。せっかくだから、その案貰っちゃいます。」
「なんてこった。またしても失態を犯しましたね。怖かったですよね。ごめんなさい。」
「大丈夫です。もう慣れました。三葉さん、声も素敵だから俳優さんとか向いているかもしれませんよ。」

「ふふっふ。実は、カフェを経営する前は俳優をしていたのです。売れない俳優ですが……。役を重ねるうちに自分という存在が分からなくなり、私は身体を壊しました。そんな時、イタリア人の友人が一杯のコーヒーを淹れてくれました。今でも鮮明に覚えています……。彼女はコンビニに売っている普通のドリップコーヒーに蜂蜜を混ぜ、ゆっくりと時間を掛けてお湯を注ぎました。粉に蜂蜜を混ぜるだけなのに、想像を超える優しい飲み物に変化します。彼女とコーヒーに感謝しています。一度死んだ命。次の、この命を私のように苦しむ人のために使おうと、そのとき心に誓いました。」

口に残る苦味は鼻を通りながら、ゆっくりと甘い香りに変化する。その動きに共鳴し、白い空気も炎から手のひらの形に変化していく。恋人の手を優しく両手で包むようにして、マグカップと三葉を包み込む。私は思わず口を開く。
「その女性とは付き合っていましたか。」
「仕事仲間ですよ……。彼女は高貴な身分で婚約者もいました。高貴な身分なのに、庶民の暮らしが大好きで。このコーヒーのように香りをコロコロ変えて。この先の話は秘密です。もう少し親しくなったら話すとしましょう。」

三葉は白いカフェテラスとブナを見つめて優しく微笑む。ブラウンダイヤモンドの瞳に私は吸い込まれていく。そして、その瞳は私を見つめる。焦って視線を逸らす私に、三葉は爽やかな笑顔で話し掛ける。

「変な雰囲気にさせてごめんなさいね。そういえば、手紙が一通届いていましたよ。あなた宛です。差出人は不明ですが。」
突然芽生えた雑念を振り払うようにして、私は急いで中身を確認する。


霞さん。
恐らくこれが最期の言葉になると思います。
あの頃のように、もう言葉が出なくなって来ました。
中学三年生のあなたを初めて見た時、胸がときめきました。
忘れていた感情が蘇り、もう一度音楽に向き合おうと思いました。
仲間たちと、あなたと奏でた「カントリーロード」は一生の宝物です。

小説はまだ続けていますか。

あのラピスラズリも、素晴らしかったです。
桜の芽が散り、新芽を出す瞬間を感じました。
荒削りな、素直な文章に恋をしました。
私はこのときのために。
これまで小説を書いてきたのだと思います。
人生の最後に、あなたに出会えて良かった。
次は、もっとカッコいい男性があなたの支えとなるでしょう。

あなたには才能がある。
だから、諦めないで。

辛くなったとき、この手紙があなたの側にあること祈っています。あの時の笑顔と、ウルトラマリンの輝きをあなたに。

朝陽のじい より。


手紙から海の声が聞こえる。香りがカフェ一面を覆い、コーヒーの香りをかき消していく。忘れてはいけない物語と共に、嬉しさと、心苦しさと、様々な感情が溢れてくる……。

「ごめんなさい。行けなくて……ごめんなさい。」
声にならない声が、生まれたての小鳥にように誰かを探す。
「ん……。霞さん……大丈夫ですか。」
「ごめんなさい。大切な人からの手紙だったので、驚いちゃって。大丈夫です。一生の宝物いただきました。あの頃ではなくて……今の私が……小説を書きたい理由、ちゃんと見つけました。」

ラピスラズリの瞳は、白銀の波にさらわれて次第に色を変えている。

頬を伝うウルトラマンと新作の小説をあなたに、私はそう独り言を囁く。

「それは良かったです。おめでとうございます。それにしても、霞さんを泣かせるとはきっと素晴らしい人に違いませんね。一度でいいからお会いしたいものです。あれ、もう1枚入っていますよ。」

私はもう1つの手紙に目を通す……。


霞へ

お元気してますか。
じいちゃんの遺書出てきたので送付します。大切にして貰えると嬉しいです。一周忌のことは気にしなくて大丈夫です。寧ろ、本当はこの遺書を渡すつもりでした。遅れてごめんなさい。もっと早く届けることができたのに、わざと送りませんでした。じいちゃんと、君の恋人に嫉妬していたのかもしれません。

君が辛いときに側にもいれず、支えとなる遺書も渡さず、私は本当に最低な人間だと思います。別れて正解だったと思います。あれから5年が経ち、私は日本画の研究を終え、音楽の道に戻りました。これから二つを結びつける取り組みを始める予定です。

小説はまだ続けていますか。

私は明日、日本に戻ります。次の仕事は、大きなブナに囲まれた不死鳥のようなカフェです。そこは、イタリアの雰囲気が漂っているそうです。絵画、音楽、そして小説が交差する場所。もし居心地よかったら、君をもう一度誘うかもしれません。

愛の告白ではなくて。一生にセッションしたいです。勿論、そのときはまた断ってくれても構いません。

ようやく、少し大人になれた気がします。

幼馴染、朝陽より。


ウルトラマリンはさらに輝きを増し、フェニックスに新たな四季彩を与える。新たな炎を胸に、私は独り言を言う。

「なんだよそれ……。いつも、何も分かってないのだから……。私の方が先輩だぞ……。」

私の迷いを断ち切るようにして、新たな調べが耳をかすめる。
聞こえなかったチェロの音色が、ゆっくりと甘い香りを奏で始める。
目を閉じて、私はチェロの音色に約束をする。
私の声はもう届かないと知りつつも、私はあなたに約束をする。
どこかの婚約者のように。


赤い扉が開かれる。
「今日からお世話なります。朝陽と申します。よろしくお願いします。」

小麦の肌の、爽やか笑顔で。
少し大人びた、いつもの顔が現れる。

そして、私も笑顔を返す……。

「はじめまして。コンクリート・ロードは、お好きですか。」

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