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丙午(ひのえうま)の遺言│マイノリティの組織変革アプローチ│創作大賞2026│ビジネス部門

まえがき

還暦の年を迎えた今年の1月から、ここで投稿を続けています。日ごろは昔の思い出や趣味、音楽やラジオへの関心を綴ることが多く、今回のような硬い文章とは少し毛色が違います。

創作大賞のビジネス部門の作品をいくつか読んでいるうちに、サラリーマン時代に得た考え方を一度きちんと書いておきたいと思うようになりました。

これは、今日からすぐ実践できるハウツーでも、武勇伝でもありません。効果を測定するような仕組みも、ここには書いていません。だが、この測れないものこそが、組織の土台を支えているのではないか。36年の現場で、僕はそのことを繰り返し思い知らされてきました。

僕は1966年、丙午の年に生まれました。出生数が前年より約25%も少なく、翌年にはまた増えている。その年だけ、くぼんでいるんです。他の年と比べて極端に少なく、学校のクラス数も少なかった世代です。この属性において、僕は早くからマイノリティでした。

キャリアは1989年、バブル景気のなかで「文系」「事務職」として始まりました。20代30代はゼネコン勤務、40代50代は大学職員として学校法人に身を置きました。建設業では理系・技術職が圧倒的多数の中でのマイノリティ、40歳でのキャリアチェンジ後は異文化からの中途入職者としてのマイノリティ。窮屈だったかと言えば、必ずしもそうではありません。異なる視点から物事を見られたことは、むしろ収穫だったと今は思います。

ここで語る「組織変革」とは、トップダウンの大きな改革ではありません。一人ひとりが現場で気づき、言葉にし、次の誰かに渡す。その積み重ねが、結果として組織の文化を変えていく。そういう意味で、この言葉を使っています。

このあとの全5章では、ふたつのキャリアを通じて得た考え方を、できるだけ平易に、文字数を抑えて書きました。データや理論で語るのではなく、現場で実際に起きたことを通して考えを示すという書き方を、あえて選びました。日本型企業に残り続ける普遍的なクセを振り返り、今すでにビジネスの中心で頑張っている若い方々へ向けて、ひとつの見方を残しておきたい。だからこそ、これは僕にとっての遺言なんです。

第1章 建設産業で学んだこと

入社して間もない頃、僕はある種の正しさを過信していた青年だった。会議室で誰かが古い手順をなぞろうとするのを見ると、つい口を挟んでしまう。「これ、もっと早くまとめられる方法があると思います」。論理的には正しい。だが、その場の空気はすっと冷えた。

縦社会という言葉を、僕は最初、檻のようなものだと思っていた。年齢と序列で発言の重さが決まり、正しさよりも順番が優先される世界。そこに馴染めない自分を、どこか誇らしく感じていたのかもしれない。若さというのは、たいてい間違った自信に裏打ちされている。

ある先輩が、僕の肩を叩いてこう言った。「言ってることが合ってるのは認めてやる。でもな、誰の顔も立てずに進めたら、誰も動かなくなるぞ。お前、責任取れるか」。その時はただの処世術だと聞き流した。だが現場に長くいるうち、僕はその言葉の奥にあるものに気づいていく。

縦社会を支えていたのは、規則ではなかった。誰がどの場面で誰に頭を下げれば物事が前に進むか、誰の機嫌を直せば現場が止まらずに済むか。それを読み、動かす力。マニュアルのどこにも書かれていない、でも確かに機能していた、人間の技だった。

正しさは、人を動かす燃料にはならない。それを身体で覚えるまでに、僕は何度も冷たい沈黙を経験した。

それでも、僕は幸運だった。職階や職種、経験や年齢にこだわらず、組織をフラットにする時間を意識して作る上司に、何人も恵まれたからだ。多くの役員クラスの人でも、そうだった。その中には、後には社長になる人もいた。

それは、飲み会のような特別な場ではなかった。むしろ日常の中にあった。長い時間が用意されるわけではない。思いついた時に、ふっと降りてきて、隣に座って、一緒に手を動かしながら話す。そういう形だった。そういう人たちだった。縦社会の作法を誰よりも知っているはずの人たちが、その作法を一時的に脇に置いて、目の前の現場と地続きの言葉で話しかけてくる。その瞬間だけ、序列が溶けた。

後に社長になるある上司からは、こんな話を聞いたことがある。その人が若い頃、さらに上の世代の先輩から「若い事務屋の意見を聞け」と言われたことを覚えていたようだ。後に僕はその事務屋の一人となった。

現場を動かしているのは、肩書のある人間だけではない。職階や職種、経験年数に関係なく、それぞれの立場から見えている景色がある。その上司は、そうした声をくまなく聞き取り、最後は管理職として一つの方向にまとめていた。僕はその姿を若い頃に見ていた。教えられたというより、盗ませてもらったのだと思う。

当時の僕は、それを単に「気さくな上司だ」としか受け取っていなかった。だが今振り返れば、あれもまた一つの技だったのだと分かる。縦社会を維持する力と、それを必要な時にだけ緩める力は、矛盾しない。むしろ、緩める術を持っている人間ほど、縦社会の中で長く機能していた。型を知っているからこそ、型を外す加減も分かるのだろう。

その学びが、本当の意味で僕の手元に戻ってきたのは、もっと後のことだ。学校法人の現場で、規則やマニュアルではどうにもならない一人ひとりの事情に向き合った時、僕は気づいた。あの縦社会で叩き込まれた「人を読む力」は、効率化の道具ではなく、個別性と向き合うための土台そのものだったのだ。

型を学んだ場所が、まさか個別性と向き合うための訓練場だったとは、当時の僕には想像もできなかった。

第2章 若者への支援の現場で学んだこと

40歳になってキャリアチェンジした。建設会社を離れ、僕は人を支援する場所に身を置いた。型を信じてきた人間が、型の効かない世界に足を踏み入れたのだ。

そこで、僕はまた同じ過ちを繰り返した。標準化すれば早く済む、フローを作れば誰でも対応できる。そう信じて、相談業務にも手順書を当てはめようとした。だが、目の前に座る一人ひとりは、フォーマットに収まる存在ではなかった。同じ悩みを抱えているように見えて、その奥にある事情はまるで違う。家庭の状況、これまでの経緯、本人が言葉にできない違和感。どれも、テンプレートの欄には書き込めないものだった。

ある日、ある学生と長く向き合っていた同僚が、ぽつりと言った。「目の前の学生をその他大勢の一人として扱った時点で、支援は終わりますよ」。効率という言葉に慣れすぎていた僕には、その一言が刺さった。標準化は、量を扱うための知恵だ。しかし目の前にいるのは、量ではなく、一人の人生だった。

ある時、強い絶望を抱えた学生と向き合ったことがあった。今でも彼の顔が浮かんでくる。詳細は伏せるが、こちらの一言や対応の順番を間違えれば、その後の人生に大きな影響を与えかねない場面だった。マニュアルや手順は確かに必要だった。しかし、その場で頼りになったのは手順書ではなかった。表情の変化、発せられる言葉の間(ま)、視線の揺れ。そうした小さな情報を拾いながら、目の前の一人と向き合うことだった。支援とは制度でありながら、最後は人と人との接点でもある。そのことを僕は痛感した。

僕はそこで、建設業で覚えた「人を読む力」を、初めて違う角度で使うことになった。誰の顔を立てるかではなく、誰の事情を聴くか。誰を動かすかではなく、誰の話に時間を割くか。同じ筋肉を、まったく違う方向に伸ばす作業だった。

支援の現場で管理職となってからも、その姿勢は僕の根幹にあった。支援に関わる人の職種、経験年数、年齢、職責にはこだわらず、できるだけ多くの意見を聴いた。仕事上の経験が少なく見える人でも、その人の生き様や成育歴、別の分野で積み重ねた経験の中に、思いがけないヒントが隠れていることがあったからだ。

一つひとつの言葉を、そのまま答えとして採用したわけではない。複数の意見を掛け合わせ、連結させ、現場の状況に合わせて形を変えながら判断に活かしていった。重層的な支援を要する時がそれにあたる。一人の学生の背景に、家庭の事情、経済的な問題、心身の状態が同時に重なっている場面では、一つの専門性だけでは太刀打ちできない。振り返れば、そうした聞き取りと組み合わせによって、大きな行き詰まりを避けられたことが何度もあった。それもまた、若い頃に見た先達の姿から学び取ったものだった。

それでも、型をまったく捨てたわけではない。記録の取り方、引き継ぎの仕組み、情報共有の丁寧さには、建設業で身につけた発想がそのまま活きた。個別性に向き合う現場ほど、土台となる仕組みがしっかりしていないと、支援する側が倒れてしまう。型は、個別性を守るための骨組みでもあったのだと、僕はここで初めて理解した。

標準化と個別性は、対立するものではない。型があるからこそ、人は型を超えて一人ひとりと向き合う余裕を持てる。そのことを、僕は大学の現場で、何度も自分の手で確かめていった。

だが、この理解にたどり着くまでの道のりは平坦ではなかった。型に頼りすぎて学生を傷つけた経験、個別性を優先しすぎて現場が回らなくなった経験、その両方を僕は通り過ぎてきた。そのどちらの失敗も、次章で語る「マイノリティとしての孤独」につながっていく。

第3章 マイノリティと向き合う

「これは、あの人にしか分からない」。学校法人の現場でも、僕はこの一言を何度も聞いてきた。そしてその度に、小さな違和感を覚えてきた。丙午や文系、中途入職者としてのマイノリティだけでなく、僕はここでもう一つのマイノリティを生きることになる。発想としてのマイノリティだ。

属人化という言葉を、僕たちはあまりに簡単に受け入れすぎている。大学で障がい学生支援に関わった時、それを痛感する出来事があった。当初は特定の職員しか対応方法を知らず、その人が不在になると判断が止まることがあった。ある意味、善意によって支えられていたわけだが、仕組みとしては脆かった。僕はその状態に強い危機感を覚えた。

あの人がいなければ回らない仕事、あの人の頭の中にしかない手順、あの人が休んだら誰も対応できない判断。それを「頼りになる人材」と呼ぶ文化が、組織では育まれ根強くなる。だが僕には、それがずっと危うい綱渡りに見えていた。

ある時、僕は支援記録の引き継ぎ資料を作ろうと提案した。誰が担当しても、最低限の質を保てる仕組みを残したい。そう思っての提案だった。返ってきたのは、賛同ではなく、苦笑いだった。「そんなのマニュアル化したら、仕事のやりがいがなくなりますよ」。その場の空気は、僕の提案を歓迎していなかった。

属人化を支えているのは、技術の問題ではない。それは、「自分だけが分かっている」という事実そのものに、安心と価値を見出す心理だ。誰かに渡してしまえば、自分の存在意義が薄れる。そう感じている人ほど、標準化や言語化に抵抗する。僕はその構造に、学校法人の現場で、幾度か突き当たってきた。

そしてその度に、僕は組織の中で少数派だった。標準化を志向する人間は、属人化が当たり前の組織では、変わり者として扱われる。適度に効率を求める声であっても、時に「冷たい」とすら言われた。型を信じる僕の発想は、属人化を育んできた組織風土にとって、理解しがたいものだったのだろう。

だが、ここで一つはっきりさせたいことがある。属人化を批判することは、その人個人を否定することではない。むしろ、属人化に頼らざるを得なかった時代の事情、その人なりの誠実さは理解できる。問題は、その仕組みを次の世代にそのまま引き渡してしまうことだ。

属人化された仕事は、その人がいなくなった瞬間に消える。技術も、判断も、関係性も、すべてが個人の中に閉じ込められたまま失われる。これは、組織にとっての損失であると同時に、次の世代にとっての足かせでもある。そんな仕事を引き継ぐということは、答えのない問いを丸ごと押し付けられるということに等しい。

だからこそ、僕は対応の記録を残し、関係部署との連携ルールを作り、学外の専門機関との接続を整理することに力を注いだ。特別な才能を持つ誰かに頼るのではなく、組織として支え続けられる状態を作りたかったからだ。

特別なことをしたわけではなかった。自分の頭の中にある判断基準を、まず誰かに話してみた。同僚に説明しているうちに、自分でも初めて気づくことがあった。「なぜそう判断したのか」は、机に一人で向かっているときよりも、誰かに話しているときの方がずっと言葉になる。その話した内容を、簡単なキーワードにしてメモに残すようにした。完璧な手順書を作る余裕はなかったから、ヒントになりそうなことだけでいい。うまくいった話だけでなく、失敗した話も残した。

なぜ失敗まで残すのか、と聞かれたことがある。世の中には、成功事例だけを集めたフレームワークがいくらでもある。最短距離で、合理的に、正解に乗せてくれる。便利なものだと思う。だが、そこには失敗が抜け落ちている。失敗を知らないまま手順だけをなぞった人間は、想定外のことが起きた瞬間、立ち止まってしまう。僕はそれを、ずっと危ういと感じてきた。

失敗の共有には、本来、時間がかかる。研修のような場を設けて教え込むこともできるだろうが、それでは身につかない気がする。だから僕は、日頃のやり取りの中で、惜しみなく、正直に開示することを選んできた。うまくいった話の隣に、失敗した話を並べて置いておく。それだけのことだ。

あとで誰かが「あの時はどう考えたんですか」と聞いてきたとき、そのメモが新しいヒントの種になった。一度に全部はできなかったから、少しずつ、できる範囲で積み重ねていった。気づけば、それが組織の財産になっていた。

僕がマイノリティだったのは、属性によるものではない。発想によるものだった。そしてその発想は、属人化を育み、それを当然と思ってきた人たちへの、ささやかな問いかけでもあった。あなたが守ってきたその技術や判断は、本当に、あなた一人のものでいいのか。

この問いは、次章で語るデジタルとの向き合い方にも、そのままつながっていく。属人化の対極にあるものこそ、再現性であり、標準化であり、そして今、AIという形で僕たちの前に現れている。

第4章 デジタルとどう付き合うか

僕がいた当時の建設業の現場では、紙の伝票と対面の合意形成がすべてだった。誰かに何かを頼む時は、まず足を運び、顔を見て、頭を下げる。それが当たり前の作法だった。学校法人の現場に移ってからも、長くその作法は残っていた。記録は手書き、引き継ぎは口頭、判断は経験を積んだ誰かの感覚に委ねられていた。

そこにデジタル化の波がやってきた。業務システムが導入され、情報共有はチャットに移り、記録はクラウドに上がるようになった。便利になったことは間違いない。だが、便利になったことと、組織が変わったことは、同じではなかった。

システムを入れても、学生一人ひとりの事情は、データベースの項目には収まらなかった。記録を効率化しても、本当に必要なのは、目の前の人の小さな変化に気づく感覚だった。デジタル化は、属人化していた業務を可視化し、標準化する力を持っていた。それは、前章で語った「属人化への抵抗」とまさに同じ方向を向いていた。だからこそ、僕はデジタル化を歓迎する側に立った。

そして、AIが現場に現れた。

僕がAIと向き合い始めたのは、2022年の終わり頃だった。最初は、表計算の関数を組むための、ちょっとした手助けだった。

次に、学内報告向けに書いた文章をそのまま読み込ませ、もっと整った言い回しに直してほしいと頼んでみた。返ってきた文章は、確かに滑らかで、誤りもなかった。だが、この使い方は、すぐに手放すことになった。そこには僕の声がなかった。語尾の癖、言葉の選び方、間の取り方。自分でも気づかないうちに、文章から自分自身が抜け落ちていた。

それ以来、僕はAIの使い方を絞った。誤字の確認と、考えの整理。それ以上は頼まない。これは僕が、AIに対して引いた、ささやかな一線だった。

この経験から、僕が学んだことは一つだ。デジタルやAIは、再現性のある部分を驚くほど早く、正確に処理してくれる。標準化できる業務、繰り返しの作業、確認や検証は、これからますますAIに任せていくべきだろう。それは、属人化を解消し、組織を健全にするための、力強い武器になる。

しかし、人と人が向き合う接合点だけは、当面、代わりにはならない。学生の小さな表情の変化に気づくこと、言葉にできない違和感を聴き取ること、誰かの肩をそっと叩くこと。これらは、データに変換できない領域に属している。AIがどれほど進化しても、この接合点は、人間にしか担えない場所として残り続けるのではないか。少なくとも今の僕は、そう考えている。

だからこそ、僕はこれからの労働市場の変化を、悲観してはいない。AIやロボットが標準化できる仕事を引き受けてくれるなら、人間に残されるのは、まさにこの「接合点」を担う仕事だ。エッセンシャルな職能、つまり人と人の間でしか生まれない仕事へのニーズは、これからさらに重みを増していくのではないか。それは、僕たちが何を学び直すべきかという問いに、一つの答えを示している。

型を作り、標準化を進め、それでも残る人間の領域を見極める。この三つを同時に行うことこそ、これからの組織に求められる発想だと、僕は考えている。

この見極め方は、実は第3章で語った属人化への抵抗と同じ作業だ。属人化に気づき、言葉にし、誰かに話して渡す。そのプロセスのどこにAIを差し込めるかを考えてみると、答えは見えてくる。記録を整える作業、過去の判断を一覧にする作業は、AIに任せられる。だが、目の前の判断基準を最初に言葉にする瞬間、つまり「なぜそう判断したか」を初めて口に出す瞬間だけは、今のところ人間にしかできない。AIは、言葉にされたあとの整理は得意でも、言葉にする前の感覚を引き出すことはまだできない。

第5章 60代の役割

36年という時間を、僕は組織という現場で過ごしてきた。建設業で型を学び、学校の現場で個別性と向き合い、属人化への違和感を抱え続け、デジタルとAIの波を見送ってきた。振り返れば、それぞれの時代に、それぞれの正解があった。

だが、今の僕が一番強く思うのは、自分の世代の正解を、次の世代にそのまま手渡してはいけない、ということだ。

60代という年齢は、ともすれば「逃げ切り世代」と呼ばれる。あとは静かに席を譲ればいい、出る幕ではない、そう見られることも少なくない。だが僕は、その見方に強く異を唱えたい。

これから先、労働力人口そのものが減っていく。組織を支える層は、否応なく若手や中堅へと移っていく。今、現場の中核を担っているのは、まさに彼らだ。彼らが安心して働ける土台を整えることこそ、今の60代に課せられた最後の、そして最も大きな役割だと僕は考えている。

その土台とは、属人化されたノウハウを言葉にして渡すことだ。

難しいことをしたわけではない。後輩が判断に迷っている場面を見かけたとき、僕はすぐに答えを教えなかった。代わりに「なぜそう思う?」と聞いてみた。その答えを聞いてから、自分の判断基準を付け加える。これを何度か繰り返しているうちに、判断基準は少しずつ後輩の中に移っていった。属人化を手放すというのは、何か大きな仕組みを作ることではなかった。日々のやり取りの中で、自分の中にある「なぜ」を、惜しまず口に出す。それだけのことだった。

振り返れば、僕自身の仕事もそうだった。障がい学生支援の体制整備も、学生のキャリア支援の仕組みづくりも、外部団体との連携も、自分だけが分かる状態を目指したことは一度もない。むしろ、自分が異動しても退職しても回り続ける形を作ることを意識してきた。「あの人にしか分からない」という仕事を、誰もが引き継げる形に変えること。標準化できる部分はAIやデジタルに任せ、人間にしか担えない部分を、若い世代が早いうちから経験できるように道を開くこと。これは、年功序列の上に立って指示を出す役割ではない。むしろ、自分が積み上げてきたものを、惜しみなく解体し、言語化しながら渡していく役割だ。

60代の価値は、もはや「経験の量」では測れない。経験は、抱え込んでいるだけでは価値にならない。若い頃には分からなかったが、経験は誰かが使える形に翻訳して初めて社会的な価値を持つ。今の僕はそう考えている。これからの60代に求められるのは、自分の経験を、次の世代が使える形に翻訳する力だ。属人化を手放し、型として残し、そのうえで、型では届かない部分にどう向き合うかを、若い世代に語り継ぐこと。これこそが、僕たちの世代にしかできない仕事だと思う。

そして、これは悲観すべき未来ではない。AIやロボットが標準化できる仕事を引き受けてくれる時代は、人と人の接合点を担う仕事の価値が、これまで以上に高まる時代でもある。その時代を生きる若手中堅に、今から準備をしておいてほしい。個別性に向き合う発想を、今のうちから自分の中に育てておいてほしい。それが、これからの労働市場で、確かな強みになる。

僕がこの文章に込めたのは、過去の精算ではない。次の世代への、ささやかな申し送りだ。

丙午という年に生まれた僕に、特別な使命があったとは思わない。ただ、型と個別性のあいだで揉まれ続けた一人の人間として、一つだけ確かに言えることがある。属人化に頼らず、型を残し、それでも残る人間の領域を次の世代に渡すこと。それが、僕という一人の人間が、この時代に置いていく、ささやかな遺言だ。

一次経験を積んでほしい。誰かの言葉や、誰かの分析を借りるのではなく、自分の足で現場に立ち、自分の目で人を見て、自分の言葉で語ってほしい。それだけが、どんな時代になっても、誰にも代わることのできない、あなた自身の力になる。

あとがき

日ごろここで書いているコラムとは、内容がガラッと変わりました。それでも、60年生きてきた同じ脳味噌が書いたものですから、根のところでは案外つながっている気がします。

AIやデジタル化の進化は、いったいどんな人が考えているんだろうと思うほど速い。すごいことです。一方で労働人口の減少は避けられず、組織はこれからも変化を迫られるでしょう。多様化が進み、個別の事情に向き合う場面はこれからもっと増えていくはずです。

書きながら何度も思い出したのは、現場で出会った言葉の数々でした。ある日先輩がかけてくれた一言、同僚が正直に話してくれた一言。理屈では説明しきれない、その場の空気のようなものを、文章でどこまで伝えられたかは分かりません。

建設業で18年、学校法人で18年。まったく違う世界を歩いてきたつもりでした。しかし書き終えてみると、どちらの現場でも僕が向き合っていたのは同じテーマだったように思います。人はどうすれば動くのか。組織はどうすれば残るのか。そして、経験をどう次の世代へ渡すのか。その問いに対する、現時点での僕なりの答えが、この文章です。

還暦になって、ようやく書けた文章だと思います。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

アルコ

#創作大賞2026 #ビジネス部門

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