闇金ウシジマくん4 ザ・ファイナル
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底抜けに徹底的にやれ
「やる時は徹底的にやれ」と主人公は言うが、なかなかできることではない。徹底的にできるかが、心の底辺に生きるかどうかの分かれ目かもしれない。
主人公の金貸しウシジマのところに、中学の時の同級生がやって来る。中学の時、リンチに遭うウシジマをクラス全員がバットでなぐる中、一人だけそれに参加しなかった奴だ。今は、浮浪者をだまして重労働させる業者に取り込まれ、借金を強いられて、ウシジマのところに来ることになった。
10日で5割の利子が付くウシジマのところで金を借りる時点でどうかしてるけど、この同級生はこのひどい借金を、だまされて重労働させられている他人のために借りる。
4作目にして、ウシジマの中学生時代が描かれる。ヤミ金会社の部下が、番を張ってた同級生で、ちょくちょく出てくる女ヤミ金もケンカした相手で、今作の浮浪者を食い物にしている奴らもケンカした不良だった。クソ人間に囲まれて育った中で、善の方に振り切った人間が、今回登場した同級生だった。
この同級生は他人のために自らを気軽に犠牲にする。ベン・ハーで見たキリストを思わせた。底辺に生きる人のために、なんのためらいもなく動くことができる。おそらく実在はしない。少なくともこれまで出会うことのなかったタイプの人間だ。
この作品に出てくる人は、基本的にみんな腐ってる。貧しい人を食い物にするヤミ金業者が腐ってると思ったら、食い物にされる人たちは、パチンコのために日銭を借りて家庭を壊し、貧者を救うように見せている弁護士も、自分の利益のためだけに生きている。皆、自分だけが得をしようとしか考えてない。視界が5センチ先くらいまでだから、後先考えずごく目先の得のためにじたばたする。そして当然、苦境に陥る。ヤミ金も悪いが、食い物にされる奴らが全面的に被害者だとも同情できない。
弁護士など、社会的な地位が高いというか、世間でそこそこチヤホヤされるから、そんな奴が考えを誤ってしまうのはまだ分かるが、この作品では、重労働を強いられ搾取されている人も、下の人を見つけて優越感にひたっている。傍から見れば、どっからどう見ても落伍者だが、そのコミュニティの中での上下関係でマウントを取って、かすかな優越感を楽しんでいる。
会社で課長になったり部長になったり、それを出世と喜ぶのが世間で当たり前のようになっているが、所詮は狭い組織内での話だ。ちょっと視野を広げれば、この作品で描かれる被搾取空間でのヒエラルキーと同様に見える。無論、映画の世界は創作で、搾取されながら先輩風を吹かせるモロ師岡はカリカチュアライズされた姿だが、どこの世界にもこんな人はいるはずだ。少なくとも自分の周りにはいて、その人が去ったら別にまたそんな人が生じた。
バカに見える人物であっても、人はそれで、それなりに満たされて生きることができる。どこを目指して生きるかの違いだ。世界制覇を目指して生きているなら、とても満足できはしないが、お山の大将を目指すなら不満はない。足るを知る、という言葉をこの流れで使っていいのか分からないが、場面次第ではそう考えることも幸せに生きる方便だ。
大きな幸せ、多数の幸せを願うなら、ウシジマの同級生のような生き方になるのだろう。目先の損得勘定では圧倒的に損をしている。でも先の先まで読めば、こうした生き方の方が豊かに生きられる。搾取されてる人もヤミ金ウシジマも、その人の中では先の先まで考えて行動しているのだが、どこまで読めているかはその人ごとに異なる。環境や天賦の才によって異なる視野の中、みんな精一杯に考えてはいるけれど、狭い世界の中での出世だけ考える人は、搾取されていることにも気付かない。底辺での争いに終始してしまう。
狭く低い世界で満足するならそれでいい。ある意味、足るを知るを実践できていることになる。でも、そうでない者にとって、小さな存在で大きな願いを持つ者がなんとかするには、この作品の同級生のように別な次元で生きる必要がある。それが解脱という言葉で表現されるものなのかもしれない。霊的な世界を俗な世界に当てはめて、坊さんに怒られるかもしれないが、俗な人間にはこんな解釈が精一杯だ。
ラストの音楽のない、山田孝之がハンドルを持つ姿が印象的だった。クソ人間の代表のようなウシジマが、キリストのような同級生を生んだ。作り事と言えばそれまでだが、そんなことだってありうる。第一作からずっと、素晴らしい緊張感で繰り返し見るに耐える作品だと思ってきたが、どうしても観後感がさわやかでなかった。それが最終作で、人間捨てたもんじゃないと思えた。全てを回収して余りある希望を与えてもらった。徹底的にやるウシジマと、底抜けに人を信じられるようになった同級生、彼らの生き方に大いに学ばせてもらえた。
