見出し画像

あの日の鴨は、死のうとしている。 【創作大賞2026 エッセイ部門 応募作品】

結婚12年目を迎えた冬のある日。
私の目の前で夫の心臓が止まった。

その日も普通にふたりで食事をして、
ふたりで経営する写真スタジオに、カメラマンの夫は出かけた。
私は妊娠3ヶ月の絶賛つわり中。吐いては横になり、横になってはテレビ画面にでかでかと写したアクションシューティングゲームをしてまた吐いて。寝たと思ったらまたゲームして。吐き気がつわりのせいなのかゲーム酔いなのかわからないまま、またトイレに走る。いつもと変わらない堕落した朝だった。

HSS型HSPという言葉がある。
ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP)、直訳の通り「高い感受性の人」。そのなかでも、さらにハイ・センセーション・シーキング(HSS)という刺激を求める性質が重なった人が、全人口の約6%ほどいるらしい。

感受性が異常に高いくせに、新しいことや刺激をやたら求めてしまう。
人と関わりたいのに、一人になりたい。傷つくから人が怖いのに、なぜか営業職に配属されることが多い。生姜に憧れておろし金に飛び込む豆腐のような矛盾人間、それが私である。

まさか、人生を変えるほどの刺激が、こんな形でやってくるとは思っていなかった。

スタジオでカメラの準備中、急に胸に違和感を覚えた夫は私を電話で呼び寄せた。
ボサボサ頭にパジャマ姿で駆けつけると、真っ白なスタジオの床に座り込んだ夫。
「これをやったんだけど」
差し出したのはニトログリセリンスプレー。
数年前に狭心症を患った時にお守りがわりに処方された、万が一発作が起きた時に舌下に噴射する薬だ。

「救急車は呼んだ?」
「これで良くなるかなと思って」
返答もせず、慌てて119番に電話した。

オペレーターとの会話の中で今の様子を聞かれ、ふとおでこに手を当てた。
冷たい。「なにこれ?物?」
スマホを耳に当てたまま思わず後退りした。
オペレーターは何か言っていたと思う。

救急車が向かったと知ると、夫はおもむろに立ち上がろうとする。
「いやいや、座ってた方がいいんじゃない?」
動けなくなったら困るから玄関に行くという。こういう時まで、夫は冷静で正解なのである。追い討ちをかけるように夫は言う、「ひろちゃん、まず靴下を履いて。僕の車に君の厚手のコートが入っているからそれを着て。」
今から運ばれるのは私なのではないだろうかと錯覚するけど、これが日常の風景である。

いやいや、夫の一大事、こんな時くらい私だって冷静なんだ。
その寝癖、そのパジャマのまま、私は聞いた。
「んで、なんでこうなったの?」
聞けば、今日は午後に古い洗濯機の回収業者が来る予定で、二階にあるドラム式洗濯機を玄関まで運んでおいてあげようと思って一人で運んだ後、胸が苦しくなったとのこと。
夫が運ばずとも、業者のおじさんが二人がかりで取りに来てよっこらよっこらとやってくれたであろうに、おじさんたちが少しでも楽になればと。
夫ならやりかねない。いや、現実やってしまっている。

遠くからサイレンが聞こえてきて、私は通りに出た。
何度も言うが、ボサボサ頭でパジャマにコートを羽織った女が必死に飛び跳ねながら、救急車に大きく手を振って知らせている。ああいう時のためになりふり構わないという言葉があるのだろう。

やっと救急隊員が到着したのだが、玄関での聞き取りは長かった。
飲んでいる薬、サプリ、朝から何をしたか。待てど暮らせど車両に乗せる気はないようだ。
これだけ書いて、まだ病院にも到着できていない。
書いている私も、同じ気持ちである。

必要な確認だと分かっているのに、私の中では「早く搬送してくださいよ」と「素人が口を挟むほど邪魔なことはない」が、念入り洗濯コースばりに永遠に回転していた。
ここには場違いな、ドラム式洗濯機がでーーーんと知らん顔していて恨めしい。

夫は大丈夫、大丈夫と自分で歩いて救急車に乗った。やっと出発だ。
搬送先の総合病院までは5分ほど。
救急隊員がストレッチャーベッドに寝た夫のYシャツを開き心電図のコードらしきものをペタペタと貼る。私は足元にある補助席的なものに対角線で向き合って座る。
救急車っていうのは思った以上に揺れる乗り物だった。
いつも車で通る時にふたりで笑う「ちんさむポイント」も、救急車で通るとそれ以上に跳ね上がる。夫と目を大きく開いてアイコンタクトして笑った。

最後に笑った。

その時、夫の黒目が上瞼に隠れ白目になった。首がガクンと項垂れた。
壁に設置されているモニターの数字が大きく「0」と表示されると、今まで波打っていた波形が真っ直ぐ横に伸びて動かなくなった。同時にピンポンピンポンとアラート音がけたたましく鳴り始めた。救急車の助手席に座っていた隊員も飛んできた。
私は、目の前の夫の足を「さわくん!さわくん!」と揺り起こす。
夫の身体は車の揺れなのか、私が揺らすからなのかぐらんぐらん揺れる。
「奥さん離れて」と救急隊の大きな声がしてハッと手を離す。
スパイラルコードの先に小さなアイロンがついたようなものを天井から取り出して、夫の胸に当てた。これはAEDだ。次の瞬間、夫の身体がボフッと浮き上がった。その動き方は物だった。
夫は何も動かない。物のような夫が頬を叩かれて名前を呼ばれている。
救急隊員が前方の運転手に「急いで!」と叫んでいる。
外の様子は見えない。今どこを走っているのだろう。私は何を見ているのだろう。

車内が明るくなり、後方ドアが開いたと気づいた。
待ち構えていた複数の大人達がストレッチャーに乗った夫を一瞬でさらって行った。
「奥さんは処置室でお待ちください」の言葉を置いて。

救急処置室の戸は薄い。
廊下で待つ私の耳に、騒々しい人や物の音が入ってくる。
「分かる?聞こえるー!?」という呼びかける声が聞こえる。と思えば、次の瞬間「心停止!離れて!」とAEDと思われる号令が聞こえる。

人はこういう状況に立たされた時、目の前が昔の深夜のテレビの砂嵐のようにジラジラし、吐き気がして、音がぐーんと遠くなったりするんだな。

「アドレナリン入れます!」という大声がしたと思えば「ウォウウォウウォウ!」と聞いたことのない、獣の遠吠えのような夫の声が聞こえていて、異常事態だということしか、分からない。

処置室内からの音を聞きたくないが、今、夫が死のうとしているかもしれない。廊下のベンチに横になったり、立ったり座ったりしながら、あーどうしよう、いやいやないない。大丈夫大丈夫。あーでもー。
言葉を念仏のように、ひとりでぶつぶつ繰り返していた。
覚えていないが、周りに他の患者さんがいたのならば、不気味に怖がらせてごめんと謝りたい。

どのくらい経っただろう。看護師に呼ばれ、室内に入った。
パーテーションで隠されており中は見えないが、人の熱気圧があるというか想像以上に人がいる感じがした。

「心臓が動いた状態で手術に入りたかったので、心肺蘇生を試みていましたが、何をしても蘇生しないのでこのまま手術室へ移動します。」担当の女医さんは少しだけ焦った口調だった。
すると処置室の後ろのドアからガチャガチャと金属音がして、廊下に飛び出すと、四隅に男性が配置されたストレッチャーに紫色の物体が乗っているのが見えた。
夫だ。四隅の男性が全速力で廊下を走る。
私も必死に追いつこうと走り、人の間から夫と思われる紫色の様子を確認する。上半身裸で仰向けに寝かされた胸の上に、凱旋門みたいな形をした機械が乗っている。人間の胸ってここまで凹むのかというほど定期的に押している。

いや、あれは殴っている。

電気の消された薄暗い日曜日の総合病院。平日なら、多くの患者でごった返している入り口だ。本来なら、手術室への搬送で通る場所ではないのだろう。今日は最短距離を、四人の男性がストレッチャーごと走っていく。
ダダダダっと走る音と私の叫ぶ声がしーんと静まり返った空間に響いている。
喰らいついて走りながら、隙間から紫黒い夫の顔が見えた。
「ひろこだよ!帰ってきてよ!」
必死に走る男性たちは、誰も私と目を合わせずうつむいていた。
その横顔は、もう何かを知っている人の顔に見えた。

コーナーを曲がり、直線の廊下を叫びながら並走した。

「奥さんはここまでです。待合室でお待ちください。」
男性が腕でジェスチャーした。

自動扉が開くと、眩しいほど明るい室内が見えた。
夫はそのスピードのまま走り吸い込まれて行った。
私は扉の前に立ちはだかり「待ってるからねー」と叫んだ。

誰もいなくなり無音になった。



夫とはカメラマン20人ほどが所属するブラック企業で知り合った。
その会社で、私はデザイナーとして企業のパンフレットやチラシデザインを制作する仕事をしていた。カメラマンの入れ替えが激しい会社だったので新しい人が入ってくるなんて日常茶飯事。

初対面の印象は、デカい。太い。顔が濃い。年上。
失礼にもほどがある。でも初対面の印象なんて、だいたいそんなものだ。
私の人生では、完全にエキストラ枠の人だった。要するに、恋愛対象外ということである。

ある日、そのエキストラの人に、「今度ご飯に行きませんか?」と誘われる。
翌日、またそのエキストラの人に、「今度ご飯に行きませんか?」と誘われる。
その後も、会うたびにヘラヘラしながら誘ってくる。

怖い。キモい。キモすぎる。
この人は社内の女という女に、同じことを言って回っているのではないか。キモ。

「すみません。私の半径2m以内に近づかないでもらえますか?」と伝えてもヘラヘラしている。翌日には2m外から誘ってくる始末だ。

追い討ちをかけるように、終いには社内で噂が広まり、上司に確認されるありさま。ひーやめてくれー。エキストラの人よー。

そんな中、なぜか名古屋まで会社のカメラを修理に出しにいくよう言われ、またなぜかそのエキストラの人と行くことになるという不運。

朝早く車で迎えに来ることになったが、家の場所を知られたくなく近くの主要道路で待ち合わせた。白い外車のコンパクトカーからその巨人が降りてきて、助手席のドアを開けてくれる。
これってエスコートってやつなのでは。なんだか恥ずかし。
「いえいえ、自分で乗れますから。」
座席のドリンクホルダーには、温かい飲み物が用意されている。
なんだなんだ。恥ずかし。

永遠に話しかける巨人。ぽつぽつと返事をする私。

カメラを修理会社に出した後は、ランチが予約されていて絶句した。

今日の私、ドアを開けてもらって車に乗っただけで何にもしてない。
行き先を気にしたり、時間を気にしたり、お金を気にしたり。何もしてないじゃん。

なんて楽なんだ。

鴨が葱を背負って来るとは、よく言ったものだ。
ただし今、葱を背負っている鴨は、私の横で運転している。
しかもランチまで予約している。
もはや鍋まで持参しているではないか。

私は助手席で、最低なことを思った。
ふんふん、この鴨め、私のことが大好きなんだな。
恋愛経験が浅く、中学生恋愛脳をこじらせたまま社会人になった私は、初めてのこの状況に鼻の穴を膨らめている。

私はどこへ行っても帰り道はぐったりしているタイプだ。
恋愛も、例外ではなかった。

好きになって、気を遣って、相手の機嫌を読んで、帰るとぐったりした。
刺激は欲しいくせに、受けるとすぐ疲れる。
我ながら面倒くさい生き物である。

でもこの人といると、私は何もしなくてよかった。

何も考えなくても、ちゃんと目的地に着く。
私が何かを頑張る前に、何もしない私を、なぜか嬉しそうに見ている。

それが、なぜか居心地よかった。

そんな面倒くさい私と、刺激なのに超安全だったこの人は、半年後、結婚した。鴨は、結婚してからも毎日幸せそうだった。
差し出された葱も、用意された鍋も、私は「夫が私を好きだから」「仕方ないなあ」と、残さず食べていた。
12年でいちばん変わったのは、私だ。
幸せな鴨鍋を食べすぎた豚と化していた。

いた、のだが。

今、あの日の鴨は死のうとしている。




待合室で私の心にあったのは「私のミカタがいなくなっちゃう。置いていかないで。」この後に及んで、自分本位な考えなのをお許しください。
しかし、本心だった。
生きてさえいてくれたらいい。息しててくれさえしたらそれでいい。私が生きていける。一人では生きていけないほど丸々と肥えた私の心は、張り裂けそうだった。

私は、夫の愛情でようやく一人前の顔をして生きていたのだ。

今にも手術室の中から、いつかのドラマで見たような「奥さん、手は尽くしましたが残念です。」と白衣の先生が出てくるのではないかという雰囲気しかなかった。

数々の自分がしてきた夫への無礼が走馬灯のように駆け巡る。
あぁ、出先で私が痔になった時、恥ずかしがる私の代わりにドラッグストアに買いに行ってくれたな。
あぁ、いつも旅行にいく時の荷造りは私の下着まで全部してくれたな。移動する車の中で私は「寝台特急だ〜」と後部座席を倒して大いびきをかいて寝ていたな。
あぁ、何度も飲んだくれた私を深夜3時、街中に車で迎えにきてくれたな。
あぁ、仕事の締め切りが近い時には、朝か夜かも分からずパソコンの前から離れない私におさんどんしてくれたな。
あぁ、あぁ、あぁ…
どんな時も、夫は嬉しそうだった。

考えるほど、私が一生分の愛をもらい尽くしてしまったから、夫は死んでしまう。そんなバッドエンドしか思い浮かばず、しきりに頭を振ってその考えを消し続けた。

4時間ほど経っただろうか。

暗い長い廊下の遠くから、シャーシャーと滑車のような音が聞こえてくる。
音は次第に大きくなり、手術室の前で止まった。
一台の点滴スタンドがついた大きなベッドだった。
看護師が方向転換し、手術室に入って行った。

すると、突然付き添っていた母が「よかったね!あーよかった!」と喜び出した。私は、この娘の不幸についに母もおかしくなってしまったのではないかと心配になった。
「ベッドが運び込まれるってことは、さわくん生きてるんだよ!病室に戻れるんだよ!」さすが母だ。この洞察力、だてに私の母をやってない。

40分間の心停止。
夫の心臓の細胞は三分の二が壊死した。
脳には酸素が届かず、植物状態に限りなく近い低酸素脳症と診断された。
手も足も、思うようには動かない障害を負った。

冒頭にも書いたが、この時、私は妊娠3ヶ月だった。この日を境に、つわりなんてものは、いっさいどっかに飛んで行った。
不妊治療6年。夫が念願の我が子と一緒に暮らし始めるまで、まだいくつもの壁が立ちはだかる。それは、また別の長い話である。
毎日が普通に生きていたら味わえない刺激の連続で、HSS型HSPの私は楽しくて死にそうだ。

今の夫は、あの時にも増して私のことが大好きそうだ。
私は一生、夫のミカタだ。
鴨鍋の代金返済には、一生かかる予定である。
私は、夫を愛している。





────────────────
スキやフォローが励みになります!
────────────────

▽ 嫁が書くエッセイのアーカイブはこちら

▽ 回復記録のアーカイブはこちら


いいなと思ったら応援しよう!

嫁 「さわくん!嫁ちゃん!チビさわ!応援してるぞー!」 そんなふうに思っていただける回がありましたら、チップという名のお給料をいただけるとうれしいです。 パパがこのnoteで稼いだ分は、回復のための活動や、家族の次のチャレンジに使わせていただきます。 Best wishes!