めんどくさいものが、好き。ノルウェーの薪ストーブと神経系の話
ストーリーが、モノの気配を作る
めんどくさいものが好きなのだと思う。
ストーリーのあるものが好き。
たとえば、今この場所に元々あった薪ストーブ。ノルウェー製で細長い形をしていて、薪を入れる扉の上の部分に古いノルウェー語の言葉と本体横には動物や木や小屋のレリーフが描かれています。
前のオーナーさんが近所に住む外国人の方から譲っていただいたものらしく、そのお宅からここまで友人たち何人かで運んできたといいます。
それを聞いただけで、このストーブはただの暖房器具ではなくなります。
遠い北の国ノルウェーの冬。火を囲む暮らし。仲間と力を合わせること。
そういうストーリーが、そのモノの気配を構成する一部になっている気がします。
思えば、洋服や小物や雑貨も、私は作家さんのものが好き。マルシェやポップアップ店舗でつい足が止まってしまって、そのモノが出来上がるストーリーや愛を直接聞いてしまうと、つい財布の紐が緩んでいます。
大量に並んでいるものよりも、個性というか少し癖があって、それに出会った喜びも含めて、ついそれを手元に置いておきたくなってしまいます。
作り手の思いが、カタチになっている。そしてその思いもまた、そのものを構成する一部になっている。そんなふうに感じてしまうから。
祈りが、鋳鉄に刻まれている
そして、扉の上に刻まれたノルウェー語の言葉が気になって、Googleレンズで訳してみたら、こんな意味でした。

「夜遅く、一日が終わる頃、ワタシは火を埋める。神よ、どうかワタシの火が永遠に消えることなきように。」
なんかじわっと目の奥が熱くなった。
一日の終わり眠りに入る前に暖炉の火を灰のなかに埋めるけれど、火は消えないでねという祈り。内なる火なのか、火は貴重だから熾火として残しておきたいのかわからないけれど、まさに日々の生活の中にある祈り。
本体横のレリーフの凹凸も、最初は装飾だと思っていたのだけれど、実はこの凸凹が熱を拡散するための機能だそう。
このストーブに詳しくなる分だけ、このストーブが普通のストーブではなく特別なストーブになっていきます。
簡単に手に入ったものは、手放されるのも簡単かもしれない
ここに引っ越してきて、前のオーナーさんのモノの片付けをしていると、いろいろなものが出てきます。
前の暮らしの名残。もう使われなくなったもの。なぜここにあるのかわからないもの。(苦笑)
その中には、多分100円ショップで買われたであろうものも、たくさんあります。もちろん、100円ショップのものが悪いわけではありません。便利だし、助けられる場面もたくさんあります。
均一化されたものは、主張が少ない分、使いやすいところもあります。
でも、使われなかったまま埃をかぶっているものを見ていると、少し考えてしまうのです。簡単に手に入ったものは、手放されるのもまた、簡単なのかもしれない。そこに物語がないと、そのモノと関係を結ぶ前に、ただ「もの」として時間が経ってしまうのかもしれません。
会議室の観葉植物と、神経系の話
ここで思い出すエピソードがあります。
以前、東京の企業でヨガクラスを担当していたとき、その初日のことです。初めての高層ビルの会議室でのクラス。ここが会場ですと案内された時、ここでは自分自身が落ち着けないと感じました。その落ち着けない感じでクラスをやっても、生徒さんはやっぱり落ち着かないだろうなと。ワタシの神経系にとって、馴染みのない、まだ「安全かどうか」判断できていない場所で、これまた初めて会う生徒さん。どこにも、繋がれるものがない。
そのとき、初めてワタシが無意識にしていたことがあることに気づきました。会議室の隅に置かれた、レンタルの観葉植物を、時々見てしまうこと。
緑の葉っぱはただそこに、有機的に、在る。
ポリヴェーガル理論には「ニューロセプション」という概念があります。神経系は、意識より先に、周囲の環境を無意識にスキャンして「安全の手がかり」を探しているというものです。そのスキャンは、人間同士の表情や声のトーンだけに向くわけではありません。有機的な形、自然素材、生命の氣配——そういったものもまた、神経系にとっての「安全の信号」になりうるのです。だからワタシはあのとき、植物をつながりのアンカーにしていたのはと今なら思います。初めて会う人たちよりも、植物の方が、その瞬間のワタシの神経系にとっての、安心の手がかりだったようです。
単なる「好みの問題」だと思っていたことが、実は身体の話だったのかもしれない。ストーリーのあるもの、作り手の氣配が残るもの、自然のもの。
そういったものを、神経系は「繋がれるもの」と判断してほっとするのかもしれません。
ストーリーと、ナラティブは違う
ここで少し、言葉を整理しておきたいと思います。
「ナラティブに陥る」という表現を聞いたことがあるでしょうか。自分の頭の中で勝手に作り上げたストーリーを現実だと思い込んでしまう、という意味で使われることが多い言葉です。過去の経験や思い込みから生まれた解釈のフィルターが、今ここで起きていることを歪めて見せてしまう。そういう罠のことです。
ワタシがここで言っている「ストーリー」は、それとは全く違うものです。
ノルウェー語の祈りも、仲間と力を合わせて運んだという事実も、作家が時間をかけて込めた思いも——それらはワタシの頭の中で作られたものではなく、そのものに実際に刻まれている歴史です。外側にある、本物の文脈。
むしろ、そういう「本物のストーリーを持つもの」と繋がることは、自分の内側のナラティブから抜け出すきっかけになるのかもしれません。自分の解釈ではなく、そのものが実際に経てきた時間に触れることで、神経系が「今ここ」に着地しやすくなる——そんなふうに感じています。
めんどくさいものは、関わることを求めてくる
もちろん、これはいいことばかりだけではありません。ストーリーのあるものは、たいてい少しめんどくさい。(笑)
例えば、手入れが必要だったり、簡単には使えなかったり、修理にも手間取るかもしれない。でも、たぶん、そのめんどくささが好きなのかも。
めんどくさいものは、関わることを求めてきます。ただ消費するのではなく、少し立ち止まることを求めてきます。そしてこの問いかけが、ものを単なる道具ではなく、ワタシという生活、その暮らしの一部にしていくのじゃないかと思います。
めんどくさい場所を、作りたい
今、新しいリトリート施設の準備をしながら、片付けやDIYリノベに追われています。正直、やることがたくさんあり過ぎるのに、うまく進まなくて凹むこともたくさん。
でも、ふと氣づいてしまいました。そういうのが好きでしょ、と。
理路整然と整った場所より、時間の層が積み重なり、記憶をまとったかのような空間。ひとつずつ関係を結び直していくような場所。
そういう、めんどくさい場所に惹かれてしまうのだ。
この施設は、たぶん便利な場ではありません。
効率だけでできた場所でもありません。
古くて、少し手がかかって、少し物語が多すぎる場所です。
でも、そのめんどくささの中に、立ち止まり、自分に戻る余白があるのかもしれません。
大量に、早く、同じように、消費されていくものではなく。ひとつずつ、出会い直していくもの。
ワタシが作りたいのは、きっとそういう場所です。めんどくさいものを、めんどくさいまま愛せる場所。
ここの場は、そんなふうに少しずつ、形を成していきます。
この場所のことは、またゆっくり書いていきます。

🏔 ヒルナノーグ|八ヶ岳・原村のリトリート施設
ヨガニドラー、TRE、ippon blade。
身体からのアプローチで、神経系を整えるリトリートを少人数で開催しています。
▷ 施設の日々とリトリート先行案内(LINE)
https://lin.ee/1eorL1z
▷ ウェブサイト
https://kaonyoga.com
▷ 著書『感じるヨガで、』
※ポーズが一つも載っていないヨガの本です
