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世界の幻想性についての考察

非二元の考え方の中に、世界の幻想性というものがあります。「幻想性」とは、「何も価値がない」「存在しないから無意味だ」という意味ではありません。深い平安の中では、世界は以前よりも美しく、透明に見えるようになります。

多くの人は世界を「絶対的に本物の実態」として見ています。成功しなければならない、認められなければならない、失ってはならない、苦しみを避けなければならない、そうした意味づけが世界に貼り付いています。

しかし平安が深まるにつれて、それらが心によって与えられた解釈であったことが見えてきます。すると世界は、夢から覚めた後に夢を思い出すような質感を帯び始めます。夢だったと分かっているけれど、夢の中の景色は美しかった。そのような感じです。

しかし面白いことに、世界の幻想性が感じられ始めると、世界への愛は減るどころか深まることが少なくありません。なぜなら、所有しようとしなくなるからです。

すべてが儚いと分かっているからこそ、かえって今ここに現れていることのすばらしさが見えるようになります。これは少し逆説的です。「実在だ」と信じていた時よりも「幻想に近い」と見え始めた時の方が、世界を愛せるようになるのです。

なぜなら恐れが減るからです。失う恐れや支配したい欲求、所有したい衝動、それらが弱まるからです。その結果、世界との関係は「利用」から「鑑賞」へと変化します。そして、幻想性と愛は対立しなくなります。

例えば虹です。虹には実体がありません。近づいても掴めません。条件が揃った時だけ現れます。しかし実体がないからといって、美しさは減りません。むしろ、その儚さが美しさの一部になっています。

平安な心から見た世界は、それに少し似ています。固定した実体を持つものとしてではなく、神の現れ、存在の表現、一時的な輝きとして見えてくるのです。

そのため、世界の幻想性の認識が深まることと、世界を愛し楽しむことは矛盾しません。むしろ最も深いところでは、「これは夢のように儚い」という理解と、「なんと美しいのだろう」という感動が同時に存在します。

そして、その二つが同時に成立するとき、人は世界に執着することがなくなり、世界から逃避することもなくなります。ただ今ここに現れているものを、そのまま歓迎し、そのまま見送りながら生きるようになります。

それは「世界を信じている状態」でも「世界を否定している状態」でもなく、世界の透明性を眺めながら、その一瞬一瞬の輝きを味わっている状態と言えます。

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