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#20 Pierre-Auguste Renoir(ピエール=オーギュスト・ルノワール)軽さを描いた画家


《Seascape(海景)》1879年 アメリカ・シカゴ美術館蔵

はじめに

他の印象派の画家たちが比較的海景画を描いていたのに対し、ルノワールの作品の中で人物を描かず自然そのものを主題とする例は多くなく、《Seascape(海景)》はその点で珍しい位置を占めています。印象派の中でも、ルノワールは独自の筆致を用いていますが、場面によって描き分けをしていたようです。ここでは、その筆致の使い分けに注目してみたいと思います。

ピエール=オーギュスト・ルノワール

作者と作品の背景

ピエール=オーギュスト・ルノワール:喜びの画家が見た海

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841–1919)はフランス・リモージュ生まれ。幼い頃から絵の才能を示し、陶磁器絵付け職人として働きながら独学で絵を学び、パリのエコール・デ・ボザールに入学しました。やがてクロード・モネと出会い、セーヌ川のほとりで共に戸外制作を行いながら印象派の技法を発展させていきます。

ルノワールの作品世界は、踊り子、舟遊びをする人々、花、庭園——光の中で輝く人間の喜びに満ちています。「なぜ悲しい絵を描かなければならないのか」という言葉を残したとされるルノワールにとって、絵画は生の祝祭でした。冬の風景すら「自然の病気だ」と言い放ったほどで、荒天や厳しい自然をテーマにすることはほとんどありませんでした。

  • 1879年という転換点 この年はルノワールの画業において重要な節目でした。サロンに出品した《シャルパンティエ夫人と子供たち》が高評価を受け、画家として大きな成功を収めます。同年、パトロンとなるポール・ベラールと出会い、ノルマンディー海岸のワルジュモン城に招かれます。《海景》はこの滞在中に描かれました。

  • 珍しい主題 シカゴ美術館の記録によれば、《海景》はルノワールにとって極めて異例の作品です。人物なし、晴天なし、喜びの祝祭なし——荒れた海と曇り空だけが画面を支配しています。知られている限りルノワールの冬景色はわずか4点しかなく、荒天の海景もごく少数です。

  • 制作方法 画面のサイズと仕上がりの程度から、サロン出品を意識した作品だったと考えられています。強風の中でこれだけ大きなカンヴァスに描き続けることは難しいため、現地では下塗りと小さなスケッチのみを行い、アトリエで仕上げた可能性が高いとされています。

  • 印象派からの距離 1870年代後半、ルノワールは印象派グループの展覧会への参加をやめ、サロンへの出品に戻りました。商業的成功を優先した現実的な判断でしたが、印象派の仲間からは批判も受けました。この時期のルノワールは、印象派の技法を保ちながらも、より広い観客に向けた絵画を模索していました。

  • その後の変化 1881年から82年にかけてイタリアを旅したルノワールは、ラファエロやティツィアーノの古典絵画に深く感銘を受け、「乾いた様式」と自ら呼ぶ、より輪郭の明確な作風へと変化していきます。《海景》はその変化の直前、印象派の筆触が最も自由に展開されていた時期の作品です。

作品の解説

《Seascape(海景)》1879年 油彩・カンヴァス 72.6×91.6cm シカゴ美術館蔵

《海景》1879年 シカゴ美術館蔵

ルノワールの人物画に見られるようにふわりとした筆致が、この海景画にも踏襲されています。波頭は砕け散る波というより、ふわりと着地する綿帽子のように描かれています。

印象派の多くの作品は、移り行く光を短時間で描き留めようとする制作過程に基づいています。風景の一瞬を写し取る事が目的であれば、なぜ、写真のような写実的な描法を用いなかったのでしょうか。

写真は一瞬で風景を記録できますが、絵画におけるアカデミックな写実的表現では、一瞬を切り取るには時間がかかりすぎるのです。印象派は、細部の描写や、滑らかなグラデーションを犠牲にしてでも、素早く見たものを切り取ることを重視しました。

印象派の中でも、特にモネやピサロらが用いた筆触分割――「絵の具をパレット上で混ぜずにキャンバスに直接描き、鑑賞者の脳内で混色を起こさせる手法」には、パレット上で色を何重にも混ぜることによって生じる濁色を防ぐという目的があります。これが主目的でありながら、同時に印象派の画家たちは、外光の素早く移り行く速度に置いて行かれないように描くという利点も享受していたのです。


《Venice, the Doge's Palace(ヴェネツィア、ドゥカーレ宮殿)》1881年 油彩・カンヴァス クラーク美術館蔵、ウィリアムズタウン

《ヴェネツィア、ドゥカーレ宮殿》1881年 クラーク美術館蔵、ウィリアムズタウン

ルノワールは比較的、筆触分割を用いないことが多いようですが、この作品では運河の表現に典型的な筆触分割を用いています。平面的な水面は筆触分割で描きやすいようです。《海景》の波と比べると、同じルノワールがいかに場面に応じて筆致を使い分けていたかがわかります。

生成AIによる比較検証:筆触分割とルノワールの筆致の違い

【原画:ルノワール《海景》1879年】


【AI生成:筆触分割バリエーション】

《海景》の波を、筆触分割の技法で描き直しました。

筆触分割に変換すると、波は色の情報として正確になります。青、緑、白の色彩の豊かさが増し、光の反射が細かく分析されています。しかし原画と並べると、波の「重さ」と「動き」の質が変わっています。

ルノワールの原画では、波はふわりと空間に着地します。筆触が波の形に沿って流れ、砕ける瞬間の柔らかさと重力を同時に伝えています。筆触分割版では、波は細かい色の単位に分解されており、視覚的な情報は豊かですが、波全体としての一体感と流れが分散します。

また、生成Aiによるバリエーションでは、波の水の持つ巻き込むような重さが現れています。ルノワールの筆致では、雲さえも連想させ、波は軽やかに描かれています。ルノワールの他の作品、特に人物画を見ると、柔らかい印象を受けますが、実のところルノワールは浮き上がる感覚を追及してたのかもしれません。

このように、ルノワールが筆触分割を選ばなかったのは理由のないことではありませんでした。ルノワールの筆致は、密かに重力からの解放を目指していたのかも知れません。



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