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#3 J.M.W.Turner(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー)究極の光の追求


《The Dogana and San Giorgio Maggiore, Venice(ヴェネツィア、税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の眺め)》1842年 油彩・カンヴァス テート・ギャラリー蔵、ロンドン

はじめに

「光の画家」と呼ばれる画家は世界中にいますが、ターナーほど光の追求のために「物の形」を犠牲にし続けた画家はいません。

彼の絵を年代順に並べると、ある奇妙な現象に気づきます。描くにつれて、風景が消えていくのです。建物が霞み、船が溶け、水面が空と一体化し、最後には何が描かれているのかさえわからなくなる。これは技術の後退ではありません。光の本質に近づこうとした結果、形が邪魔になっていったのです。

今回は4点の作品を通して、ターナーの「形の消滅」の過程を辿ります。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー

作者と作品の背景

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー:光に形を溶かした画家

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775–1851)は、ロンドンの床屋の息子として生まれました。14歳でロイヤル・アカデミーに入学し、天才として早くから頭角を現します。しかし彼のキャリアを一言で言えば、「正確な描写から出発し、晩年には光だけが残る絵へと向かっていった」旅でした。

  • ヴェネツィアへの傾倒 1819年と1833年にヴェネツィアを訪れ、水と光が溶け合うこの都市に強く魅了されます。水面の反射、霧の中の建築、刻々と変わる大気——ここでターナーの光への探求は決定的な深みを増しました。

  • 印象派の30年前 ターナーが光と大気を主役にした絵を描いていたのは1840年代。印象派の誕生(1874年)より約30年早く、対象の形を曖昧にして光の現象を前面に出すという方法を確立していました。

  • 同時代の無理解 晩年の作品は当時の批評家から「未完成」「絵の具を投げつけたような絵」と酷評されました。しかし彼は意に介さず、光の追求を続けました。

作品の解説

《The Dogana and San Giorgio Maggiore, Venice(ヴェネツィア、税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の眺め)》1834年 油彩・カンヴァス ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵、ワシントンD.C.

第一段階:《ヴェネツィア、税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会》1834年 ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵、ワシントンD.C.

まずこの1834年の作品を見てください。ゴンドラ、建物のシルエット、水面の波——形はまだくっきりと認識できます。しかし空と水の境界はすでに曖昧で、光が大気全体に満ちていることが感じられます。ターナーがヴェネツィアに何を見ていたかが、ここから始まります。


《The Dogana and San Giorgio Maggiore, Venice(ヴェネツィア、税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の眺め)》1842年 油彩・カンヴァス テート・ギャラリー蔵、ロンドン

第二段階:《ヴェネツィア、税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会》1842年 テート・ギャラリー蔵、ロンドン

同じ題材を8年後に描いた作品です。建物はまだそこにありますが、輪郭はすでに霞の中に溶けはじめています。空と海は同じ光の表現で統一され、建物が空中に浮かんでいるように見えます。光は粒子のように散り、大気全体に乱反射している。

重要なのは、ここでは光源そのものは直接描かれていない点です。ターナーが描いているのは光そのものではなく、物体や大気に反射した光です。しかしその反射光の集積が、まるで光源が内部にあるかのような輝きを生み出しています。


《A River Seen from a Hill(丘から見た川)》c.1840–45年 油彩・カンヴァス 78.7×79.4cm テート・ブリテン蔵、ロンドン

第三段階:《丘から見た川》c.1840–45年 テート・ブリテン蔵、ロンドン

橋と川、木々——題材はまだわかります。しかし形はもはや副次的な存在です。画面全体が白と青と黄の光の霞に覆われ、橋のアーチだけが辛うじて「そこに何かある」ことを示しています。ターナーはこの頃、形を描くのではなく、光の中に形の痕跡を残す、という方法に移行しています。


《岬の間のボートと日の出》1840年頃–45年 テート・ブリテン蔵、ロンドン

第四段階:《岬の間のボートと日の出》1840年頃–45年 テート・ブリテン蔵、ロンドン

ボート、2つの岬、そして日の出。タイトルはそこに何があるかを告げていますが、絵画そのものはそれをかろうじて伝えているに過ぎません。キャンバスは淡い黄色、緑、そして白の光り輝く靄(もや)に覆われています。ボートは中心にぼんやりとした青い形として存在し、岬は両側に温かみのあるオークル色の気配として示されています。水平線は存在しません。水と空気、そして空の間に明確な境界線もありません。すべてが、姿を現すことのない、たった一つの朝の太陽の光の中に吸収されています。そこにあるのは太陽そのものではなく、画面全体を満たすその残響だけです。

形態が完全に消失したわけではありません。しかし、光の中に「何かが存在する」ことを確認するために必要な最小限のレベルまで削ぎ落とされています。ターナーはもはや、光に照らされた光景を描いているのではありません。彼は、光景の微かな記憶をその内に内包した「光そのもの」を描いているのです。

ターナーと印象派——似て非なる光の追求

ターナーは印象派の30年前に光に注目した先駆者と言われます。確かにその通りです。しかし両者の目的は根本的に異なっていました。

印象派の画家たちが描こうとしたのは「反射光としての光」でした。物体に当たって跳ね返った光が網膜に届く、その瞬間の色彩の印象——モネの睡蓮も、ルノワールの木漏れ日も、光そのものではなく、物体を介した光の現象です。印象派は、その反射光を筆触分割という方法で純粋な色の集合に分解しましたが、それは反射光としての光を否定するものではありませんでした。

ターナーはもっと先を目指していました。形あるものはすべて、物体に反射された光です。純粋な光——物体を介さない光そのもの——を取り出そうとすれば、形は邪魔になる。だから彼の晩年の絵では、物の形が次第に消えていったのです。これは偶然ではなく、必然でした。

ターナーとジェームズ・タレル——120年を超えた直結

James Turrell, Breathing Light, 2013. LED light into space, dimensions variable. Los Angeles County Museum of Art.

1943年生まれのジェームズ・タレルは、光を「物質」として扱います。彼は部屋を光で満たし、天井を切り抜いて空を枠に収め、鑑賞者を奥行きの知覚が完全に消失する色彩の場へと没入させます。彼はこう語っています。 「私の作品には対象もなく、イメージもなく、焦点もない。対象もイメージも焦点もないとき、あなたは何を見ているのか。あなたは、見ている自分自身を見ているのだ」

この一節は、ターナーの晩年の作品についても書かれ得たものでしょう。

しかし、タレルはさらにその先を行きます。彼はターナーを直接的な情報源として名指ししています。フェルメール、ゴヤ、そして印象派と並んで、ターナーの絵画の中に自身の追求と共鳴するオーラを見出しているのです。この繋がりは単なる美術史的な推論ではありません。彼自身が認めていることなのです。

それでも、タレルがターナーから受け取ったのは、スタイルや技法ではありませんでした。それは一つの問いでした。「光以外のすべてを取り除いたとき、何が残るのか?」という問いです。

絵画という媒体に制約されていたターナーの答えは、「ほとんど何も残らない」というものでした。キャンバス上の顔料、描かれた世界という還元不可能な存在。彼は、絵画が許容する限界まで形態を溶解させることはできましたが、それを完全に排除することはできませんでした。

タレルはそれを排除しました。キャンバスを取り除き、顔料を取り除き、描かれた世界を完全に消し去ったのです。タレルのインスタレーションに残されているのは、光を描いた絵画ではありません。それは、媒介されることなく直接的に体験される「光」そのものなのです。

ターナーの最後の絵画群とタレルの最初のインスタレーションは、およそ120年の歳月によって隔てられています。問いは常に同じでした。変わったのは、ただ媒体(メディア)だけだったのです。

生成AIによる比較検証:モネ風にしたら何が変わるのか

【原画:ターナー《ヴェネツィア、税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会》1834年】


【AI生成:モネ風バリエーション】


【ターナー自身:《ヴェネツィア、税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会》1842年】


モネ風に変換した途端、水面が色の粒子の集積に変わります。青、緑、橙、ピンクの小さな筆触が並列に置かれ、水面全体が振動するように輝いています。建物のシルエットは残り、帆も教会も鐘楼もそこにある。しかし表面はすべて、目に見える筆触の集合に分解されています。

ここに印象派の本質があります。印象派が分解したのは形ではなく、色です。物体を介して反射した光を、混色せずに純粋な色の並列として置く——その結果、形は残りながら、すべての表面が光の振動として輝きます。

では同じ時期のターナー自身はどうしたか。3枚目を見てください。1834年から8年後、同じヴェネツィアの同じ題材を描いた1842年の作品です。建物は霞の中に溶け、水面と空の境界が消え、黄金色の大気だけが画面を支配しています。モネ風バリエーションと比べると、その違いは一目瞭然です。モネ風では形が残った。ターナー自身は形を消した。

印象派は「反射光としての光」を受け入れたまま、その色を分解しました。ターナーは反射光そのものを超えようとして、形を消していきました。同じヴェネツィア、同じ光への関心から出発しながら、二人はまったく逆の方向へ向かったのです。

この3枚の比較は、漠然と信じられてきた「ターナーは印象派の先駆者」という通説に、静かな警鐘を鳴らしています。確かにターナーは印象派より30年早く光に注目しました。しかし3枚を並べると、向かった方向がまったく逆だったことが一目でわかります。印象派——ここではモネ——は形を残したまま色を分解しました。ターナーは色を分解するのではなく、形ごと消していきました。

ターナーが本当の意味で先駆けたのは印象派ではありませんでした。形を消すことで光の純粋な存在に近づこうとしたその探求は、120年後にジェームズ・タレルが光そのものを素材として扱うまで、誰も辿り着かなかった場所にあったのです。

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