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#18 Henri Rousseau(アンリ・ルソー)永遠のアマチュア


《眠るジプシー女(La Bohémienne endormie)》1897年 油彩・カンヴァス 129.5×200.7cm ニューヨーク近代美術館(MoMA)蔵

はじめに

アンリ・ルソーは、アカデミックな視点から見ると、ヘンな描き方をした画家でした。 人物を描けば、足が地につかず、空中に浮いているように見えます。 風景を描けば、遠近法に従わず、ものの大きさがちぐはぐです。絵画の基本原則から見れば、不自然な点は枚挙にいとまがありません。

にもかかわらず、ルソーが二十世紀の最も偉大な画家の仲間入りを果たし、ピカソに「真の天才」と言わしめたのは、いったいどういう理由からでしょうか?

ルソーの描く絵がファンタジーに満ちあふれていたから——それが大きな理由の一つであることは間違いありません。ただ、それだけでしょうか? 何か私たちの気が付かない理由が見落とされているかも知れません。ルソーの絵画を見ながら、その可能性を探っていきたいと思います。

アンリ・ルソー

作者と作品の背景

アンリ・ルソー(Henri Rousseau, 1844–1910)はフランスのラヴァルに生まれ、のちにパリで税関職員として働きながら絵を描きました。 正式な美術教育を受けることはなく、独学で制作を続けました。 1886年、42歳のときにサロン・デ・ザンデパンダン展に初出品し、その素朴で独特な画風が一部の画家や詩人に注目されるようになります。

《眠るジプシー女》は1897年に制作された作品で、ルソーが得意とした幻想的な題材のひとつであり、後の画家たち、特にシュルレアリスムの作家たちに強い影響を与えました。

現在、この作品はアメリカ・ニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されています。

作品の解説

《眠るジプシー女(La Bohémienne endormie)》1897年 油彩・カンヴァス 129.5×200.7cm ニューヨーク近代美術館(MoMA)蔵

《眠るジプシー女(La Bohémienne endormie)》1897年 ニューヨーク近代美術館(MoMA)蔵

ルソーの作品は輪郭がはっきりしており、色が複雑に絡み合ったり、にじみ出るような表現がありません。 いわば絵本やアニメの描き方に近いところがあります。

《眠るジプシー女》では、主題は砂漠に眠る女性とライオンですが、その舞台装置の重要な部分として月夜が挙げられます。

この月も、光が空気を通して散乱するのではなく、明確な輪郭をもって描かれています。 それは、誰もが子どもの頃に描いた記号的な月の表現に近く、単純化された形で提示されています。

ファンタジーとは、「現実には存在しないが、心の中では像を結ぶ世界」という意味があります。 ルソーの描く世界は、彼自身の想像の産物ですが、その想像を鑑賞者と共有するためには、形や色をはっきりと提示する方が効果的です。 抽象的な表現は、作者の意図に反して、鑑賞者によってさまざまな解釈を生むおそれがあります。 しかし、ルソーのように形を単純明快に整理した具象であれば、作家のファンタジーが、ほとんど誤解なく、直接的に伝わります。

《カーニバルの夜(Un soir de carnaval)》1886年 油彩・カンヴァス 117.3×89.5cm フィラデルフィア美術館蔵

《カーニバルの夜(Un soir de carnaval)》1886年 フィラデルフィア美術館蔵

《カーニバルの夜》でも、同じような月の表現が用いられています。 どちらの作品にも星は最小限に控えめに描かれているだけです。 月という記号を描くことで、誰しも夜空であることを即座に認識できるため、星を加える必要はなかったのでしょう。

これから察するに、ルソーは、ファンタジーを正確に共有するために余計なものを描かないという原則を貫いていたのではないでしょうか。 共通の認識が得られる最小限の線まで描けば、それ以上筆を進めない。 そのため、月は丸く描かれた時点で、夜空を表わすという役割を終了し、その光が周囲にどのように作用しているかまでは描かれません。

「人物が、月の光を受けて光っているというより、不自然に明るく発光している様に見える」といった論評も見受けられます。
鋭い観察ですが、その理由にまでは言及していません。

これを解き明かせば、ルソーの・・・ファンタジー共有のための原則から生じる必然です。ファンタジーの中の人物が重要だというメッセージを伝えるために、ルソーは人物に相応の輝度を与えたのです。
月の光がどれだけ人物に反射するかという現象的 ”自然さ” はルソーにとって関心の外でした。 

もっとも、こうした創作論をルソー自身が意識していたわけではありません。 感じるままに描いたものに、論理的な筋道が備わっている――そこにこそ、彼の天才性が潜んでいます。 ピカソがルソーを「真の天才」と呼んだ理由も、まさにそこにあります。

ルソーを偉大な作家たらしめている根幹は、彼独特の多くの人の共感を呼ぶファンタジー自体に他なりませんが、その伝達を最も効果的な方法で行っていたことを、忘れてはなりません。

生成AIによる比較検証

「もし月の光が現実的に描かれていたら——ルソーのファンタジーは消えるのか?」

構図・人物・森・小屋はそのままに、月の光だけを「記号的な白い円」から「現実的な光の拡散」に変えた画像をAIで生成しました。

【原画:ルソー《カーニバルの夜》】


【AI生成:月明かりのカーニバル】

二つを見比べると、その違いは一目瞭然です。

原画では仮装した二人の人物が内側から発光しているように白く輝いています。月はそこにあるのに、森は月光で照らされていない。光の現象としては完全に矛盾しています。それでも私たちは違和感を覚えません。なぜなら、ルソーの光は現実の光ではなく、ファンタジーの中の光の記号だからです。

AI生成画像では、月光が現実的に降り注ぎ、人物の足元に影が生まれ、森全体が自然な夜の光に包まれています。構図はほぼ同じです。しかし印象はまったく異なります。写実的で美しい——しかしどこにでもある冬の月夜になってしまいました。

この比較でもう一つ気づくことがあります。ルソーの絵が際立って平面的であるということです。AI生成画像では影と光が奥行きを生み出し、森に三次元的な空間が生まれています。一方ルソーの原画では、人物も森も同じ平面上に並んでいます。

三次元的に厳密に描かれた空間は、見る者に解釈の余地を与えません。影の方向、光源の位置、奥行きの関係——すべてが論理的に決定されており、見る者はただそれを「読む」だけです。そこに入り込む隙間はありません。

しかしルソーの平面には、隙間があります。

影がなければ、物体は空間に縛られない。縛られない物体の前に立ったとき、見る者は無意識のうちに自分自身の解釈を持ち込みます。この森はどんな森か。この二人はどこへ向かうのか。その問いに答えるのは、画家ではなく見る者自身です。

つまりルソーの平面性は、欠如ではなく招待です。

見る者それぞれのファンタジーが絵の中に入り込み、その人だけの物語が生まれる。ルソーのファンタジーが「共有」されながら、同時に「個人的」であり続ける理由は、ここにあったのかもしれません。

生成AIによってファンタジーは消えました。

人物が内側から輝いていたからこそ、この森はカーニバルの夜でいられた。月光が現実を侵食した瞬間、ファンタジーの共有は終わります。

想像力が働く条件——科学的裏付け

ルソーの平面性が見る者の想像力を引き出すという直観には、認知科学の裏付けがあります。

Kotovych et al.(2011, Scientific Study of Literature)は文学テキストを対象とした実験で、登場人物の心理を明示した版と暗示した版を比較しました。結果、情報を明示するより、読者が自ら推測しなければならない暗示版の方が、登場人物への理解と共感が深まることが示されました。この研究は文章を対象としたものですが、「情報の省略が受け手の想像的参加を促す」という原理は、絵画にも同様に働くと考えられます。

ルソーの記号的な描き方、影のない平面、輪郭だけで示された月——これらは視覚的な省略を意図せず生み出しています。見る者はその隙間に自分自身のファンタジーを持ち込む。ルソーが技術的な規範の外にいたからこそ、彼の絵には隙間が生まれた。その隙間が、見る者それぞれの物語を呼び込んでいるのです。

新ルソー論

冒頭で、「アンリ・ルソーは、アカデミックな視点から見ると、ヘンな描き方をした画家でした。」と述べました。ルソーを"下手な"絵描きと評する評論もあります。この見方は既存の価値基準にのっとって、技術的熟達度の階梯で評価する視点です。そこには既存の価値基準が正しいという潜在的意識があり、必ず「上位/下位」というヒエラルキーを伴います。

果たして、アカデミーの決めた基準は正しいのでしょうか。歴史的に蓄積された、集団幻想と言えないでしょうか。

ここで、ピカソとルソーを並べて考えてみましょう。

ピカソはアカデミーの規範を完全に習得した画家でした。10代ですでに古典的な写実技法を完璧に身につけ、その後キュビスムへと転換していきました。つまりピカソの「逸脱」は、規範を深く理解した上での意識的な破壊です。反抗には、反抗する対象の存在が前提となります。

ルソーは違いました。

彼には破壊すべき規範がそもそも見えていませんでした。アカデミーの階梯を登ろうとしたことは事実ですが、その規範が自分の創造にとって絶対的な基準であるとは、ついに思わなかった。ピカソが規範の外に出ようとしたとすれば、ルソーははじめから規範の外にいた。

この差は決定的です。

ピカソの自由は、規範との格闘の末に獲得された自由です。ルソーの自由は、格闘すら必要としなかった自由です。どちらが深いかという問いに意味はありません。しかし、どちらがより純粋かと問えば——答えは明らかです。

ここで思い起こすのは、私の師である建築家竹山実の「常にアマチュアであれ」という言葉です。

竹山はこう語っていました。専門家の思考は枠を守る。しかしアマチュアの思考は枠を問い直す、と。建築という世界で30年以上仕事をしてきた私には、この言葉の重さが骨身に染みています。専門知識が深まるほど、人は知らず知らずのうちに「こうあるべき」という枠に縛られていく。その枠が創造の可能性を気が付かないうちに、しかし着実に狭めていくのです。

ルソーはその意味で永遠のアマチュアでした。

竹山の言葉が示すのは、単なる無知を称賛することではありません。専門家でありながら、常に初心者の目で世界を見続けることの難しさと価値を語っているのです。ルソーはその状態を意識せずに体現していた。だからこそ彼の創造は反抗ではなく、純粋な自由の産物なのです。

"絵画の専門知"という枠を知らなかったからこそ、ルソーは自由に、そして正確に、ファンタジーを描くことができた。

ピカソが「真の天才」と呼んだのは、技術的な卓越性に対してではありません。獲得するのではなく、はじめから持っていた自由——それに対する、おそらく羨望を含んだ賛辞だったのではないでしょうか。


この記事は、50人の光を描いた画家シリーズの一つです。他の記事はこちらからご覧ください。






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