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#47 Nazmi Ziya Güran(ナズミ・ズィヤ・ギュラン) 練りつける光


《ヌスレティエ・モスクとボスポラス(Nusretiye Mosque and the Bosphorus)》年代不詳 個人蔵

はじめに

20世紀初頭のトルコ、オスマン帝国から共和国へと激変する時代に、イスタンブールで絵を描き続けた画家がいます。ナズミ・ズィヤ・ギュラン(1881–1937)——パリで印象派を学び、ボスポラスへ持ち帰った画家です。しかし彼の絵は、パリの師匠たちが教えた印象派ではありませんでした。私たちが最初に感じるのは光の柔らかさではありません。絵具の重さです。カンバスに押しつけられるように置かれた筆触、溶け合わずにぶつかり合う色——なぜギュランはこれほど「濃く」描いたのか。その理由を探っていきましょう。

ナズミ・ズィヤ・ギュラン

作者と作品の背景

ナズミ・ズィヤ・ギュラン:ボスポラスの光と格闘した画家

ナズミ・ズィヤ・ギュラン(1881–1937)はイスタンブール生まれのトルコ印象派の画家です。父は官吏、幼少期から絵に強い関心を持っていましたが家族の反対を受け、官立学校を卒業後にようやくイスタンブール美術学校に入学しました。そこで保守的な教育方針に馴染めず、校長オスマン・ハムディ・ベイとの衝突が続きます。卒業試験の作品が認められず、卒業が一年延期されるという屈辱も味わいました。

しかしその在学中に、運命的な出会いがありました。地中海を航海中のポール・シニャックがイスタンブールを訪問し、若いギュランはこの点描主義の巨匠と接触します。その出会いがギュランの芸術観を根底から変えたと言われています。光を色の点として分解し、見る者の目の中で混色させるシニャックの方法論——それはイスタンブールの光を前に格闘していた若者に、新しい見方を与えました。

1908年、卒業と同時にパリへ渡ります。アカデミー・ジュリアンで学んだのち、ボザール(国立美術学校)でフェルナン・コルモンのアトリエに移ります。コルモンはゴッホ、ロートレック、マティスらも指導した教師でした。ルーブル美術館での古典模写、ドイツ・オーストリアへの遊学——ギュランはあらゆる方法で眼を鍛えました。

1914年、第一次世界大戦の勃発がパリの若いオスマン画家たちを故郷へ連れ戻します。後に「1914年世代」と呼ばれるこの画家たちは、印象派の光の表現をボスポラス海峡という全く異なる光の舞台に持ち込みます。西洋の技法と東洋の光が初めて本格的に出会った瞬間でした。

帰国後のギュランは、同じ場所を時間を変えて繰り返し描くという習慣を生涯続けました。イスタンブール占領期も新共和国の時代も、彼は常にこの都市の観察者であり証人であり続けました。1918年と1925年の二度にわたり美術学校長を務め、トルコ近代絵画の基盤を築きました。

1937年、56歳で世を去ります。大規模展覧会の設営を自ら手伝い、閉幕を待たずに9月11日、心臓発作で急逝しました。絵と共に生き、絵の傍らで死んだ画家でした。

イスタンブールという街

イスタンブール

イスタンブールはボスポラス海峡を中心に黒海とマルマラ海に囲まれた海峡都市です。丘陵地形の坂の上から海を望む景観が広がり、気候は地中海性と黒海沿岸の湿潤な気候の中間——夏は乾燥し、冬は雨と雪が訪れます。

東西の文化の接点といわれるイスタンブールはボスポラス海峡をはさんで西側(ヨーロッパ側)と東側(アジア側)に分かれています。

ヨーロッパ側には歴史的中心地が密集し、モスク、旧市街、大市場が重なり合います。アジア側は住宅地が多く、海沿いの生活感と落ち着いた空気が漂います。東西の文明が文字通り海を隔てて向かい合うこの都市で、ギュランは光を追い続けました。

ボスポラス海峡

ボスポラス海峡

ボスポラス海峡の乱れた水面が光を受けると何が起きるでしょうか。光は一方向に反射せず、あらゆる角度に散乱して戻ってきます。建物の白い壁、モスクのドーム、波止場の石畳——あらゆる面が光を受け取ると同時に、別の方向へ投げ返します。強い影が生まれるためには、光が一方向から来なければなりません。しかしボスポラスでは、影ができる前に別の方向から来た光が埋めてしまうのです。

作品の解説

《ヌスレティエ・モスクとボスポラス(Nusretiye Mosque and the Bosphorus)》年代不詳 個人蔵

《ヌスレティエ・モスクとボスポラス》——影のない光

力強く突き刺さるモスクの尖塔の向こうにボスポラス海峡が描かれています。印象派の素早く淡い筆致と違い、筆で絵具を練り付けたような力強さが感じられます。光は当たっていても影はほとんど描かれていません。

影のない光——これはボスポラスという地形が生み出した特質です。乱反射する水面が影を消し去り、画面全体を均等な光の密度で満たす。海峡を毎日眺めている画家の目には、その光の残像が色濃く脳裏に刻まれていたのではないでしょうか。

《船(Ships)》年代不詳 個人蔵

《船》——逃げていく光との格闘

光の粒子がカンバスに押しつけられるように置かれ、隣り合う色が溶け合わずにぶつかり合っています。これは印象派の技法を学んだ者の筆遣いではありません。何かと格闘している者の筆遣いです。

その「何か」とは、静止しないボスポラスの光です。捕まえようとするほど逃げていく光を、ギュランは力で刻みつけようとした。その格闘がこの筆圧を生みました。

《港(Harbor)》年代不詳 個人蔵

《港》——刻みつけられた光

影のない光と、逃げていく光への格闘——この二つが重なった時、ギュランの画面が生まれます。均等な光の密度と、重い筆圧。どちらが欠けても、この絵画は成立しませんでした。

ボスポラスの光と時代の中で

ボスポラス海峡の乱れた水面が光を受けると、光は一方向に反射せず、あらゆる角度に散乱して戻ってきます。建物の白い壁、モスクのドーム、波止場の石畳——あらゆる面が光を受け取ると同時に、別の方向へ投げ返します。強い影が生まれるためには、光が一方向から来なければなりません。しかしボスポラスでは、影ができる前に別の方向から来た光が埋めてしまう。影のない光が、画面全体を均等な密度で満たします。

さらにこの海峡の水面には、静止する瞬間がありません。表層流が時速数kmに達し、渦を巻き、細かい波が走り続けます。印象派の技法は本来、光の「瞬間」を素早く捕まえるためのものでした。モネが積みわら連作で追ったのは、同じ光の条件がしばらく続く「静止に近い瞬間」です。しかしボスポラスでは、その瞬間がない。捕まえようとした次の瞬間には、光は別の顔を見せています。

ギュランが同じ場所を繰り返し描き続けた理由は、光への執着だけではなかったかもしれません。彼が絵筆を握っていた時代は、オスマン帝国の解体から共和国の誕生という激変の時代でした。街の形は変わり、政体は変わり、首都の座もアンカラへ移りました。同じ場所に立ち、同じ光を繰り返し描くという行為は、激変する時代の中で変わらないものを確認しようとする行為だったのではないでしょうか。

しかし変わらないはずの光が、実は一瞬も同じ顔を見せない。時代も変わる、光も変わる——その二重の矛盾の中でギュランは格闘し続けました。逃げていく光を力で押さえつけるように、絵具をカンバスに練りつける。軽やかに捕まえることができないなら、力でねじ伏せるしかない——その格闘の痕跡が、あの重い筆圧として画面に残っているのです。

パリで学んだ印象派が、ボスポラスの光と激変する時代に出会ったとき、「練りつける光」とでも呼ぶべき独自の様式に生まれ変わりました。印象派は光を「捕まえる」技法です。しかしボスポラスの光は捕まえられない。だとすれば残る選択肢は一つ——「ねじ伏せる」ことです。それはフランスの師匠たちが教えた技法ではありません。ボスポラスの光と激変する時代が、ギュランの筆を変えたのです。

この傾向はギュランだけではありませんでした。同じ光の前に立った「1914年世代」の画家たちが同じ格闘をした結果、同じ方向へ筆が向かった——それが「トルコ印象派」と呼ばれながら、フランスの印象派とは根本的に異なる画風を生んだ理由です。

生成AIによる比較検証:ギュランが「印象派のまま」描き続けていたら

【原画:ギュラン】
【AI生成:モネ風バリエーション】

同じ構図、同じ光——しかし筆触と色調をモネ風に変換すると、絵の印象が根本から変わります。ギュランの絵にあった重力が消え、光は軽くなり、建物は大気に溶けていきます。美しい。しかしボスポラスの光ではありません。

印象派の「捕まえる」という方法論が、ボスポラスの光には通用しなかった。その証明がこの比較画像の中にあります。



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