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#49 Henry Ossawa Tanner(ヘンリー・オサワ・タナー)裏から見た光


《水上を歩くキリストを見る弟子たち(The Disciples See Christ Walking on the Water)》1907年頃 油彩・カンヴァス 130.8×106.7cm デモイン・アート・センター蔵、デモイン

はじめに

日中では気が付かない美を見出した画家がいます。Henry Ossawa Tanner(1859–1937)は、アフリカ系アメリカ人として初めて国際的な名声を得た画家であり、その生涯を通じてほぼ夜だけを描き続けました。彼の光は太陽ではなく、月明かりです。しかも月に照らされた光が水面に反射して届く、二重に間接化された光です。この「裏から滲み出る光」の中に、Tannerは同時代の誰も描かなかったものを見ていました。

ヘンリー・オサワ・タナー

作者と作品の背景

ヘンリー・オサワ・タナーは1859年、ペンシルバニア州ピッツバーグに生まれました。父はアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の司教、母はアンダーグラウンド・レイルロードを通じて奴隷制から脱出した女性です。中名「Ossawa」は廃奴運動家ジョン・ブラウンが活動したカンザス州の地名に由来します。

少年時代にフィラデルフィアへ移った家族の中で、13歳のタナーは公園で風景を描く画家を見かけ、画業を志しました。ペンシルバニア美術アカデミー(PAFA)でトーマス・イーキンスに師事した彼は、100名のクラスでただひとりの黒人学生でした。

1891年にパリへ渡り、アカデミー・ジュリアンに入学。「人種が問題にされない」と感じたタナーは生涯をフランスで過ごし、聖書的主題の夜景画に独自の境地を開きました。パリ・サロンで《ライオンの穴のダニエル》が佳作を、続く《ラザロの復活》が三等メダルを受賞し、後者はフランス政府が購入してオルセー美術館のコレクションに収まりました。晩年にはレジオン・ドヌール勲章を授与され、全米デザイン・アカデミーの初のアフリカ系アメリカ人正会員となりました。1937年、パリの自宅で逝去。

独自の青の色調——インディゴとターコイズを幾重にも重ねるグレーズ技法による「Tanner blues」——は、光そのものを宗教体験として画面に定着させようとする彼の一貫した主題と不可分のものです。

作品の解説

《水上を歩くキリストを見る弟子たち(The Disciples See Christ Walking on the Water)》1907年頃 油彩・カンヴァス 130.8×106.7cm デモイン・アート・センター蔵、デモイン

《水上を歩くキリストを見る弟子たち(The Disciples See Christ Walking on the Water)》1907年頃 油彩・カンヴァス 130.8×106.7cm デモイン・アート・センター蔵、デモイン

夜の海に浮かぶ一艘の舟。月の光が水面を青く染め、その反射が舟と人物を淡く照らしています。キリストの姿は画面左上の光の柱として示されるだけで、顔も体も明確には描かれていません。弟子たちは恐れ、ひれ伏し、目を覆っています。

ここで比較として思い浮かぶのは、ウクライナの画家Arkhip Kuindzhi(1841–1910)です。《ドニエプル川の月夜》(1880年)において彼が描いた月明かりは、蛍光色にも見える圧倒的な輝きで見る者を制圧します。Kuindzhiにとって月明かりは自然現象の極致であり、その美しさそのものが主題でした。

《ドニエプル川の月夜(Лунная ночь на Днепре)》1880年 油彩・カンヴァス 105×144cm ロシア国立美術館蔵、サンクトペテルブルク

Tannerの月明かりはまったく異なります。薄く、曖昧で、消えかけている。光の存在を主張するためではなく、闇の中に「何かがある」ことを示すためだけに存在しているような光です。批評家たちがTannerの光に神の存在を読み取ったのは、彼が「光そのもの」ではなく「光の気配」を描いたからでしょう。ただしそれはあくまで見る側の解釈であり、Tanner自身が語った言葉ではありません。

《葦の中のモーセ(Moses in the Bullrushes)》1921年 油彩・板 56.8×38.5cm スミソニアン・アメリカン・アート・ミュージアム蔵、ワシントンD.C.

《葦の中のモーセ(Moses in the Bullrushes)》1921年 油彩・板 56.8×38.5cm スミソニアン・アメリカン・アート・ミュージアム蔵、ワシントンD.C.

ナイルの岸辺に跪く女性と、その傍らに立つ人物。水面に映る微かな光だけが夜の闇を割っています。旧約聖書の場面——ファラオの迫害を逃れ、葦の籠に乗せられた赤子モーセを、ファラオの娘が発見する夜——を描いています。

《アーチ(The Arch)》1919年 油彩・カンヴァス 99.7×97cm ブルックリン美術館蔵、ニューヨーク

《アーチ(The Arch)》1919年 油彩・カンヴァス 99.7×97cm ブルックリン美術館蔵、ニューヨーク

パリの凱旋門。1919年7月13日夜、第一次世界大戦の戦没者を悼む式典の場面です。アーチの中央に白く浮かび上がる仮設の霊廟、その周囲を群衆が取り囲んでいます。しかしTannerはこの白い光を劇的な照明として描くのではなく、青い夜の空気の中に溶け込ませています。

三点の絵に共通するのは、光が正面からではなく常に「裏側」から滲み出てくることです。月は水面に反射し、聖なる存在は光の柱として示され、霊廟は群衆の向こうで発光している。Tannerの光は、見る者に向かって直接放射されることがありません。

なぜ夜に向かったのか

夜の絵は当然ながら夜に描かれたわけではありません。中東への旅でスケッチし、翌日パリのアトリエで仕上げるというのが彼の制作プロセスでした。つまりTannerの夜の色は最初から記憶の中の色です。実際の月明かりを忠実に再現しようとしたのではなく、夜の体験が信仰と記憶と感情によって濾過された後に生まれた色——それが「Tanner blues」の正体ではないでしょうか。

なぜTannerはこれほど夜の場面に惹かれたのか。一つには、彼が選んだ聖書の場面がことごとく夜に起きた出来事だったからです。ニコデモがキリストを訪ねたのは夜、弟子たちが水上を歩くキリストを見たのも夜、エジプトへの逃避も夜でした。

しかし筆者にはもう一つの理由が思えてなりません。これは仮説ですが——Tannerの父・Benjamin Tucker司教は、ニコデモが夜にキリストを訪ねた場面を、奴隷たちが夜ひそかに礼拝を行っていた「聖書的根拠」として語っていたといいます。昼間に礼拝することを禁じられた人々が、夜の闇の中で信仰を守り続けた記憶が、Tannerの血の中に流れていたはずです。

アメリカ社会において黒人は「日陰」に置かれた存在でした。社会の表に立つことを許されない。しかしTannerはそれに反発するのではなく、夜そのものを自分の表現の場として引き受けました。日中では気が付かない美を、夜の中に見出したのです。Tannerは人種について公には語りませんでした。「私はただのM.Tanner、アメリカ人画家だ」と言い続けた。しかしその沈黙の分だけ、夜の絵が語っていたのかもしれません。

生成AIによる比較検証——Kuindzhi風に描いたら

同じ構図、同じ聖書の場面を、Kuindzhi風に描き直すよう生成AIに指示しました。

【原画:タナー】
【AI生成:Kuindzhi風バリエーション】

結果は一目瞭然です。Tannerの青が消え、漆黒の闇とKuindzhi特有の蛍光色の緑が支配しています。月は鋭い白緑の光点として空に浮かび、その反射が水面を一直線に切り裂いています。舟と人物は闇のシルエットとなり、キリストの姿は緑の燐光を纏った幽霊のように水面に立っています。

この比較が教えてくれるのは、光の「量」ではなく光の「方向性」が絵の精神性を決定するということです。Kuindzhi風の光は見る者に向かって正面から放射されます。圧倒的で、逃げ場がありません。一方Tannerの光は水面の奥から滲み出るように広がり、見る者はその光を受け取るかどうかを自分で選ぶことができます。

同じ夜の場面が、Kuindzhiの手にかかれば「自然の驚異」となり、Tannerの手にかかれば「内面の問い」となる。この差異こそが、二人の画家が光に込めた哲学の違いを如実に示しています。


この記事は、50人の光を描いた画家シリーズの一つです。他の記事はこちらからご覧ください。





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