今のUXの風潮自体が「意味のイノベーション」を生みづらくしている
「意味のイノベーション」と言う言葉を聞いたことがある方もいるでしょう。(私はたびたび言及するし)
これはミラノ工科大のロベルト・ベルガンティ教授が提唱した概念で、UXデザインやプロダクトデザインの領域でよく言及されます。一見魅力的なアプローチに見えますが、私はここ数年で「現在のUXリサーチ/デザインの風潮は、構造的に意味のイノベーションを起こしづらくなっているのではないか?」と感じるようになりました。
この問題は「組織の理解がない」や「データ依存の意思決定」といったビジネス環境の問題にとどまりません。むしろ、UXリサーチャー/デザイナーの教育や認識そのものもまた、「意味のイノベーション」を阻んでいるのではないかと思っています。
今日はその話をしていきましょう。
※この記事の内容はUXに関わる誰もに向けたものですが、実践は中級者以降にされるのをお勧めします。本記事は「主観的に判断するべき」と言う記事ですが、初心者はまず「主観的に判断する癖を無くす」必要があります。
「意味のイノベーション」とは何か

「意味のイノベーション」は、単なる機能改善や問題解決を超え、製品やサービスの「意味」そのものを革新することを指します。
例えば、AppleのiPodは「音楽を持ち運ぶデバイス」ではなく、「ポケットに1000曲の音楽を入れる」という体験の再定義でした。同様に、任天堂のWiiは「高性能なゲーム機」ではなく、「家族で体を動かして楽しむエンターテイメント」という新しい意味を創造しました。
これらの製品が画期的だったのは、単に既存の不満点を解消しただけではなく、「意味」そのものを変えたからです。
製品やサービスは、単なる機能ではなく、「この機能をこう使うと便利だよ」という提案を伴うものです。それを意識的に行うのが意味のイノベーションです。
しかし、この「意味のイノベーション」は現在のUXリサーチ/デザインの風潮では生まれにくいのではないか、と私は考えています。
想起されそうな理由
これに対して、「なぜ今の組織で意味のイノベーションが成立しないか」をUXリサーチャー/デザイナーに尋ねると、おそらくは組織の理解がない、戦略へのUX的な視点の反映ができない、効率性重視、データ依存の意思決定、デザインのプロセスが旧来的、などの意見が出てくるのでしょう。
あるいは、UXリサーチャー/デザイナー自身に問題があると言ったら、過度なユーザー中心主義や方法論への固執、専門性の欠落あたりが上がるでしょうか。
しかしながら、おそらくそれら全てが解消されても意味のイノベーションは起こりません。
「不・負の解決」は考えやすい
さて、現代のUXデザインやリサーチでは、多くの場合「不・負の解決」—つまりユーザーの不満や問題点を特定し解決すること—が主流となっています。(そうでない場合に関しては後ほど触れます)
例えば、GoogleのHEARTフレームワークやNPS(顧客推奨度)など、多くのUX指標が「ユーザーの不満をいかに減らすか」という視点に立っています。
「不・負の解決」アプローチには明確な利点があります。
測定可能である。
不満や問題点は比較的容易に可視化・定量化できる合意形成のしやすい
「この問題を解決すべき」という点で関係者の合意を得やすいROIの説明がつく
問題解決による効果を数値で示しやすい
しかし、ここに落とし穴があります。
100人のユーザーが抱える不満をすべて解消したとしても、それは「不満のない状態」を作り出すだけであり、必ずしも「良さ」や「意味」を生み出すわけではないのです。
Netflix、Airbnb、Uberなど、多くの革新的サービスは初期段階では不完全でしたが、提供する「新しい意味」に人々は価値を見出しました。
つまり、意味のイノベーションとは単なる改善ではなく、「これは良い・善いものになるはずだ」という確信から生み出されるものです。
そもそも「良い・善い」という概念が難しい
では、組織が「新たな価値を生み出そう!」とすれば、投資を増やせば善いという話でしょうか?
いいえ、それだけではうまくできません。
まず、大前提として意味のイノベーションは難しいです。
(破壊的イノベーションは難しいです)
しかし、なぜ難しいかは実はシンプルです。
これは、「良い・善い」という概念そのものが難しいからです。
どういうことでしょうか?
今より「良い・善い」状態がなんなのかは、現在からはわからない

まず「不・負」は現状に対しての評価です。
つまり顕在化できユーザーから拾えるものです。
もちろん言葉になりづらいものもありますが、おおむね不満が存在しています。
対し、「良い・善い」は現状への評価ではなく、ここに存在しないものです。
つまり、現状に不満を感じていないけれど、提案されると、「確かにそれがよかった!」と気づくものです。
これは可視化されていないので洗い出しではなく提案に近いため非常に難しいのです。
100人が感じる不満を全て潰せば不満はなくなるかもしれません、しかし良さ=不満がないことではありません。
「良い・善い」とは主観的かつ多義的である

そして、もっと大事なことに「良い・善い」とは主観的かつ多義的です。
例えば私は毎朝お茶を飲むタイプで、それを良い生活だと思っています。
この生活が良いのは、それが「客観的に良いとされる生活である」「丁寧な生活である」からなどではなく、単純に私がお茶が好きで、美味しいお茶屋さんを知ってて、それが主観的に好きなのです。
さて、コーヒー派の人もいるでしょうし、そもそも昼に起きるのが良いという人もいます。
私はコーヒー派ではないのでいくら「あなたはコーヒーを朝に飲むべきだ」と言われても飲みませんし、昼まで寝ると罪悪感を感じるタイプです。

私の感情はわたしのものであって、「良い・善い」に絶対的な正解はありませんし、非常に主観的なものです。
「意味のイノベーション」とは主観的にしか提案できない
これらを合わせると下記のようになります
1:意味のイノベーションとは「良い・善い」の提案である
2:「良い・善い」とは主観的にしか判断しえない
1と2より:つまり意味のイノベーションとは主観的にしか提案できない
つまり、意味のイノベーションとは主観的に行われる必要があるのです
UXデザインにおける「主観」の位置付け
ところで、UXデザインにある程度知識があり、あるいはUXリサーチ/デザインをやっている人ならみんなが信じてることだと思うんですが、
UXデザインでは主観的に判断することは御法度とされています。
私はその風潮を重大な虚偽であると考えています。
というか大きな誤解です。
現代のUXリサーチやデザインの現場では、「主観的に判断することはいけない」という教えが広く浸透しており、これはバイアスを排除するためとされていますが、はっきりいうとこれは大きな誤りです。
まず、「なぜ主観的に判断してはいけない」と言われるかから考えていきましょう。
その後に、「『なぜ主観的に判断していけない』という言説は問題なのか」を反証します。
なぜ「UXデザインは主観的に判断してはいけない」と言われるのか
ある程度UXデザインに精通していて、「なぜ主観的に判断してはいけない」と言われてるか、わかってる方は読み飛ばして構いません。
UXデザインにおいて「主観的判断はいけない」という言説が広まった背景には、以下のような要因があります。
初期のUXデザイン教育では「デザイナー自身の好みでデザインするな」という教えが強調されてきました。これは、それまでの美的センスや個人的な感覚に依存しがちだったデザイン手法からの脱却を目指したものでした。
そして徐々に科学的アプローチへの傾倒していきました。
UXデザインが学術的・科学的な裏付けを得るために、心理学や行動科学などの方法論を取り入れる過程で「主観を排除し、客観的データに基づく」という姿勢が美徳とされるようになりました。
また、ビジネス環境での説得力を高めるために「データドリブン」であることが重視されています。
経営陣や意思決定者を納得させるには、「私はこれが良いと思う」より「ユーザーの87%がこの問題を抱えている」という説明の方が効果的だったのです。
そして、バイアスへの過剰な警戒も大きな要因です。認知バイアスへの理解が深まるにつれ、デザイナー自身のバイアスを排除することがUXデザインの「正しい姿勢」として広く教えられるようになりました。
なぜ「UXデザインは主観的に判断していけない」という言説は問題なのか
はい。上の反証です。
理由1.そもそも「バイアス」という単語は誤用されている
バイアス…確証バイアス、代表性バイアス、正常性バイアスなどなどいろいろありますね。
さて、バイアスは原義を辿れば偏りや傾き、先入観、偏見という意味の言葉です。 これに対して「認知」が加わることで「自分の経験や体験といった、認知に基づいた先入観や思い込みのこと」という意味になります。
では何が誤用なのでしょうか?
バイアスは、単に偏っている/先入観がある/偏見がある、という状態を示す言葉であって、それが悪いとは言っていないのです。
ここを誤解している人があまりに多すぎます。
理由2.バイアスがいけないのではなく、ユーザーとのズレがいけない

バイアスが悪いとは言われてない。
それってレトリックの問題?そうではありません。
「えぇっと、誤用しているって言われても、バイアスは悪いじゃない」という反証が聞こえてきそうですが、偏ったり、先入観があったとして、それがユーザーと同じように偏っていたらどうでしょうか?
それは悪いことでしょうか?
つまり偏りにも方向があり、偏りが存在することではなく、その偏りがユーザーとずれていること、が問題なのです。
偏っていることではなく、ずれがいけないのです。
理由3.人間はバイアスから逃れられない
そもそも人間は主観的な生き物であり、人間の仕組み上バイアスを無くすことはできません。
客観性を目指すことはできても、真に客観的であることはできません。
人によって感じ方が違うしね…と思うかもしれませんが、これは単なる感じ方のレベルではありません。
そもそも人はこの世界を主観的にしか捉えられておらず、人によって見えているものが違います。私たちがリンゴを見るとき、私と相手は同じリンゴを見ているようで、違う角度から見える違うリンゴを捉えています。
私たちは、この世界全てを主観的に捉えている以上、その私たちから出力される全てが主観的です。
(ここら辺は現象学という遠大な学問につながるのでこの記事では掘り下げません)
理由4.そもそも私たちは主観的にしか判断できないのに「自分は主観的に判断してない/客観的に判断している」という幻想を抱いている
客観を意識するあまりに、人はついつい自分が主観的に判断してることを忘れてしまいます。
例えば、写真共有アプリの戦略ミーティングで市場分析を行う場面を想像してみましょう。

『プロフェッショナル↔︎カジュアル』と『個人的↔︎ソーシャル』
チームは競合の写真アプリを4象限マップにプロットしています。横軸は「プロフェッショナル↔︎カジュアル」、縦軸は「個人的利用↔︎ソーシャル共有」と設定されています。
「この分析から明らかなように、市場には右上の『カジュアルでソーシャル性の高い』写真アプリが主流ですが、左下の『プロフェッショナルでソーシャル共有』領域にはまだ機会があります」
この分析に対して、一人のデザイナーが疑問を投げかけます。

「でもなぜ『プロフェッショナル↔︎カジュアル』と『個人的↔︎ソーシャル』を軸に選んだのでしょうか?別の視点として『日常向け↔︎特別な瞬間向け』と『シンプル↔︎機能豊富』で考えるとどうでしょう?そうすると、まったく違う戦略の余地が見えてくるかもしれません」
すると、多くの場合こんな反応が返ってくるでしょう。
「その軸の提案はあなたの主観に基づいていますよね。この2軸は業界標準の分析枠組みです」
「新しい軸を採用するなら、それがユーザーにとって重要である客観的なデータを示してください」
「『日常向け』や『特別な瞬間向け』というのは曖昧な概念で、定量的に測定できません
こういう指摘されたデザイナーは次第に「私は〜と思います」という発言を控えるようになり、代わりに「ユーザーインタビューでは〜という声が多く聞かれました」とだけしか言わなくなるでしょう。
さて、今の例に違和感を抱かなかったら要注意です。
何に違和感を感じるべきか。
『プロフェッショナル↔︎カジュアル』と『個人的↔︎ソーシャル』と言う軸は一見「客観的」に見えますが、これは実は分析者の主観(何が写真アプリにとって重要な価値軸であるかという判断)に基づいています。
別に『ターゲット層』『無料ストレージのサイズ』でも良いですよね。

例えば4象限マップで競合分析をするとき、私たちは知らず知らずのうちに『これが重要な軸だ』と決めています。例えば写真アプリなら『プロ向け vs カジュアル』『個人用 vs 共有用』という軸を選びます。
そしてこの選んだ軸を基に、『この象限が空いているから、ここを狙おう』といった結論を導きます。この結論は一見、客観的な分析から導かれたように見えます。
でも実は、そもそも『どの軸が重要か』という最初の選択自体が、分析者の価値判断—つまり主観—に基づいているのです。
これは『カメラの性能』や『使いやすさ』など別の軸を選んでいたら、全く違う結論になっていたかもしれません。
私たちは自分が選んだ軸を『当然の前提』として扱い、その主観性を忘れてしまうのです。その結果、その分析から導き出された結論も『客観的な事実』のように錯覚してしまいます。
要するに、分析の入り口で既に主観が入っているのに、出てきた結論だけを客観的と思い込んでしまう—これが問題なのです。
こうして、UXデザイナーはデータやユーザーに裏付けられない限り、新しいアイデアを提案しなくなるのです。
私たちは自分が主観的に判断していることを忘れ、「データに基づいた客観的判断」という幻想に陥ります。
実際にはそもそもどう言う人にどんなデータを収集するか、どの指標を重視するか、どの問題に注目するかという時点で、すでに主観的判断が介在しているにもかかわらずです。
私たちに可能な"客観"とは、せいぜい「私個人だけでなくみんながそうだねと合意できる状態」ぐらいなんですが。
本当は主観的なのに、自分は客観的であると誤解していることの何が問題なのか
大きくは二つ問題あります。
まず、自分の判断が客観的だと思い込むことで、その背後にある価値観や前提条件が不可視化され、検証されないまま意思決定の土台となってしまうことが問題です。
そして、客観的でないもの-例えばデータに基づかない判断-は信用に足らないという信念につながります。私たちはあらゆる判断を主観でしているにもかかわらず、目に見える主観的なものだけをを否定していることに気づいていないのです。
「UXデザインは主観的に判断してはいけない」という言説は「意味のイノベーション」を構造的に否定している
UXデザイナーのジレンマ
この主観や客観についての誤解が現代のUXデザイナーを困難な立場に追い込んでいます。
「主観的判断を避けるべき」という言説は、UXデザイナーの次のような行動につながります。
直感的判断が抑制される
「これは良いデザインだ」という直感的な判断を、データで証明できない限り表明しなくなる個人的経験を否定する
「私の経験では〜」という発言を避け、ユーザーの声からわかったものを語る創造的提案を躊躇する
ユーザーから明示的に求められていないアイデアを、提案することを躊躇する美的判断を回避する
視覚的要素について「美しい」「心地よい」などの主観的評価を避け、常に機能性の観点から語る専門家としての判断力を放棄する
長年の経験から培われた専門家としての判断力よりも、少数のユーザーテストの結果を優先する価値観の表明を回避する
「このプロダクトはどのような世界を作りたいのか」という価値観に関わる議論を避ける未来志向の提案を控える
現状のユーザーニーズを超えた、未来志向の提案を控える
彼らは「ユーザーはきっとこれを求めているはずだ!」という自らの直感や良さの感覚を、「それは単なる私の好みかもしれない」と疑い、声に出せなくなっており、つまりデザイナーとしての専門的な直感を発揮できない状況が生まれています。
主観を排除する風潮はUXデザイナーの「意味の提案者」としての役割を奪い、単なる「問題解決者」に矮小化してしまっているのです。
デザインとは主観的に行われるものである

まとめると下記です。
・意味のイノベーションとは「良い・善い」の提案である
・「良い・善い」とは主観的にしか判断しえない
・つまり意味のイノベーションとは主観的にしか提案できない
・昨今のUXリサーチ/デザインの風潮では「主観的に判断すること」を全てバイアスであると扱ってしまっている
・ゆえに昨今のUXリサーチ/デザインの風潮から「意味のイノベーション」は起きづらくなっている
つまり、「意味のイノベーション」が生まれないのは、ロジカルさや組織だけの問題ではなく、「UXデザイナーは自我を出さないように教育されてる」こと自体にも課題があるのです。
ただし主観の使い方は気をつけるべき
まず、「個人の主観」と「専門家の主観」は違います。
デザインには「個人的な好き嫌いの主観」と「専門家としての訓練を経た主観」があります。
後者は「審美眼」や「経験則」からくる判断であり、これはむしろ積極的に活用されるべきもの。しかし、現代のUXの流れでは、これすらも排除されがちなのが問題なのかもしれません。
主観の暴走はデザインが個人の好みに偏り、ユーザーの視点が軽視されるリスクがあります。
市場とのズレや多様なニーズの無視につながり、独善的な意思決定が進む可能性もあります。
また、カリスマ的なデザイナーの影響が強くなったり、合理的な議論やフィードバックの機会が失われることも懸念されたりもあるので、主観が常にプロダクトの成功がつながるわけではありません。
主観は重要ですが、適切な検証とバランスを取ることが不可欠です。
新しいUXのアプローチが必要になる
では、どうすれば「意味のイノベーション」を実現できるのでしょうか?私は、UXデザインにおける主観に対する新しいアプローチが必要だと考えています。
1. 反省的実践
ドナルド・ショーンが提唱した「反省的実践」は、デザイナーは自らの主観性を自覚しつつ、それを批判的に検証する姿勢を持つべきだ、という主張です。
自分の直感や判断を無視するのではなく、それを意識的に活用し、常に振り返りながら精度を高めていくアプローチです。
2. 当事者参加型のデザイン
デザイナーが主観的に行うだけではデザインはユーザーからズレてしまいます。なのでちゃんと当事者を参加させていきましょう。
単にUXリサーチ/デザインをするだけでなく、もっとラディカルに-参加型デザインやエスノグラフィーなどのアプローチを活用し、ユーザー自身がデザインプロセスに積極的に関与できるようにすると善いでしょう。
3. 文化的文脈の重視
製品やサービスが存在する文化的・社会的文脈を深く理解し、その中での「意味」を考えます。同じ機能でも、異なる文化や社会環境では全く異なる意味を持つ可能性があることを認識するのです。
4. プロトタイピングの再評価
「これは機能するか?」だけでなく「これは意味をもたらすか?(ユーザーにとって価値があるか?)」という問いを中心にプロトタイピングを行います。機能性や使いやすさだけでなく、ユーザーの生活や価値観にどのような変化をもたらすかを重視するのです。
5. 定性と定量の融合
数値データと物語的理解を対立させるのではなく、相互補完的に活用します。定量データから見えるパターンと、定性的な洞察を組み合わせることで、より深い理解に到達するのです。
まぁ本来、これらは別に新しい方法ではないはずなんですけどね…
デザイナーができること
そう言った場面でデザイナーやリサーチャーができることは何でしょうか?
1. 当事者の文脈を深く理解する
UXデザイナーやリサーチャーは、インタビューや観察などの手法を使い、ユーザーの日常行動や感情の動きを把握します。どの瞬間にストレスを感じ、逆にどんなときに満足感や達成感を得るのかを可視化します。
ここでは「クイックに」情報を取ってくるのではなく、エスノグラフィのように長期的かつ深く当事者と関わることで、間主観的な理解を目指します。
2. チームがユーザー視点を持てるようにファシリテート
プロジェクト初期の段階では、具体的な機能や要件の話が先行しがちです。UXデザイナーがそこに介在する価値は「なぜそれが必要か?」「本当にユーザーはそこに困っているか?」と問いかけることで、チームの思考が一段深まります。
抽象的な問いをしつこく繰り返すようにも思えますが、このプロセスが抜け落ちると"解決策先行"のまま突っ走ってしまう危険が高まるのです。
3. 当事者のエンパワーメントを支援する
最終的には、当事者自身が自分の問題を解決できるようなツールや環境の提供を目指します。デザイナーは「問題を解決する人」ではなく、「当事者が自分で問題を解決できるようにする人」へと役割をシフトさせていくのです。
組織が変化すること
これはつまり、決裁者も変わらなければいけないと言うことです。
当事者の「良い・善い」であって、決裁者の「良い・善い」じゃない
では現実の話をしましょう。
四半期ごとの数字に追われ、KPIの達成に汲々とするビジネス環境の中で、「当事者にとっての良さ」を優先することは容易ではありません。
会議室では常に「ROIはどうなる?」「どれだけのユーザー増が見込める?」「競合との差別化は?」といった質問が飛び交います。そして私たちは、具体的な数字で答えられる提案だけが生き残る厳しい現実に直面しています。
この最中の中で「ユーザーにとっての良さ」を主張することは無謀にさえ見えます。組織は、測定可能な短期的成果を出せる「問題解決型」のアプローチを構造的に優遇するようにできているからです。
しかし皮肉なことに、長期的に見れば組織の成功は当事者の支持なしには成り立ちません。そもそもユーザーは「良い」と思うから使ってくれるのです。
多くの組織が陥る罠は、「当事者が良いと思うからこそ使ってくれる」という単純な事実を忘れ、「使ってもらうために機能を詰め込む」という本末転倒な発想に陥ることではないでしょうか
組織は主観にどう向き合うか
組織が主観性を受け入れるためには、経営層や決裁者が抱える現実的な課題や懸念に寄り添いながら、徐々に価値観の変革を促すことが不可欠でしょう。
現状、多くの決裁者が「主観」を警戒する理由は、「主観的判断=不確実性」と感じ、リスクが伴うと考えるためです。そこで重要になるのが、主観を完全に受け入れさせるのではなく、まずは「主観的判断を補完的に取り入れる」段階を設けることです。
具体的には、意思決定プロセスの中に「意味のイノベーション」を意識した小規模な実験やプロトタイピングを導入し、そこから得られる定性的な価値やユーザーの反応を経営層に示す機会を作ります。
これにより、主観性に基づいたアイデアや提案が、具体的な成果やポジティブな反応をもたらすことを実感できるようになります。
UXデザイナーはどう認識を改めるのか
おそらくに、UXデザイナーの教育/認識そのものも見直す必要があります。
現状のUXデザインの風潮は「客観性に偏りすぎているため、デザイン教育の初期段階から「主観的・価値的判断」の重要性を強調し、それを活用するための手法(エスノグラフィ、反省的実践、批判的デザインなど)を取り入れることもあるかもしれません求められます。
特に、デザイナーが自身の感性や価値観を明確に言語化・可視化し、建設的に批判・検討できるスキルを養うカリキュラムを構築することで、自己否定感や不安感に陥ることなく、主観を前向きに活用できるデザイナーを育成できます。
最終的には、経営層やリーダー層に対し、判断に主観性を取り入れることが単なるリスクではなく、組織の長期的な競争優位性やユーザーとの深い関係性の構築に繋がるという視点を伝え続ける必要があります。
これを地道に積み重ねることで、組織内で主観性を成熟させ、受け入れる土壌を作ることができるでしょう。
自分たちが何を「良い・善い」と感じているか自覚的になるべきだ
ところで、少し不思議な話ですが、そもそも私たちは「何を良い・善いとするか」を決めないまま、デザインを始めることはできません。
どんな組織であっても、何を目指すのか、どんな世界をつくりたいのかを決めなければならず、デザインには必ず作り手の思想が反映されています。
しかし、多くの組織では、それを意識しないままぬるっとデザインを進めてしまいます。
ユーザーリサーチを行い、データを分析し、最適解を導き出す…このプロセスは一見ドライかつ思想的には見えません。
しかし、そこには必ず主観的に「これはよい」と言う判断が発生しています。
その上で、自分たちが何を「良い・善い」とするかが言語化されていなければ、そこに自覚的でなければ、デザインの方向性は場当たり的になり、短期的な改善の積み重ねに終始してしまいます。
結果として、デザインが思想を持つことを拒み、「どこに向かうべきか?」という根本的な問いを避けるようになってしまいます。
思想的であることはリスクでしょうか?
Appleは「シンプルさ」を、Patagoniaは「環境保護」を、Teslaは「持続可能性」を、それぞれ善いものとして定義し、デザインに落とし込んできました。
こうした組織では、デザインは単なる問題解決ではなく、「世界をどう変えるか?」という意思の表現になります。思想はむしろ強さになるのです。
すべての組織は、意識せずとも何らかの思想を持ちます。
だからこそ、それを曖昧にしたまま進めるのではなく、明確にし、それを基軸としてデザインを進めるべきです。
自分たちの思想を理解せず曖昧にデザインしてしまうこと自体がリスクであり、思想を持ったデザインは強くなるのです。
むすびに:
昨今のUXリサーチやデザインの風潮は「客観性」という幻想のもと、デザイナーから「良い・善い」を提案する力を奪ってきたと私は思っています。
しかし真の意味でのイノベーションは、単なる問題解決を超えた「意味の創造」から生まれるでしょう。
(もちろん同時にズレてしまう可能性や暴走してしまわないかも監視が必要なのですが)
これは私の偏見ですが、今のUXリサーチャー/デザイナーは美大やデザイン学科出身の人が少なすぎます。デザイン以外の出自からきた人が多いと言う印象を持っています。(UIデザイナーにはいますが)
元々私は総合大学の中のデザイン学科出身ですが、そこは必ずしも「客観性」の世界ではありませんでした。むしろ自分が「良い・善い」と信じられるものを目指して走る場所でした。
デザイナーは自らの感性や価値観を「バイアス」として恐れるのではなく、それを磨き、対話し、時に勇気を持って提案する必要があります。
そこから生まれる「意味のイノベーション」こそが、人々の生活に真の変革をもたらすのではないでしょうか。
ユーザーの声を聴きながらも、時にはユーザー自身も気づいていない「良さ・善さ」を提案できるデザイナーが、これまでの時代も、これからの時代も、価値を持つのだと、私は思っています。
AI時代に意味のイノベーションはどうなるのか?
AIに「良い・善い」は考えられても、それを判断するのは人間だと思っています。
このサイクルを早めることはできるかもしれません。
ですが役割を間違えないようにしたいですね。
このサイクルのAI化はまた考えていきたいです。
その他
現在「どのように主観的にデザインするか?」と言う記事を現在書いています。
いつ書き終わるのかわからぬ記事ではありますが。
気になる方はお待ちいただけますと幸いです。
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いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!