見出し画像

なぜ私は、今もジェーン・オースティンを読み返してしまうのか——『高慢と偏見』のロケ地を歩く前に

🖋 この記事は、ジェーン・オースティン作『高慢と偏見』を原作とした
BBCドラマ版および2005年映画版のロケ地をめぐる旅に向けて、調べたり、考えたり、想像したりしながら、ガイドブックができていく過程を記録している連載マガジンの一編です。

まだ旅の途中。
そして、旅の前でもあります。

いつか行ってみたい人も、読むだけで旅をしたい人も、一緒に歩いてもらえたら嬉しいです。

はじめに|恋愛小説、だと思っていたけれど・・・

画像:Wikimedia Jane Austen, from A Memoir of Jane Austen (1870)

ジェーン・オースティンは、「恋愛小説家」として語られることの多い作家です。けれど、彼女の小説を読み返すたびに思います。これはただのロマンスではないと。

200年以上前に書かれた物語なのに、登場人物の言動に、「こういう人、いるよね」と思ってしまう瞬間が、あまりにも多いのです。

なぜなのでしょうか。

人は、善か悪かじゃない

ジェーン・オースティン以前の小説では、登場人物は「とても善い人」か
「とても悪い人」どちらかとして描かれることが多くあったようです。

でもオースティンは、その分かりやすさを選びませんでした。彼女の描く人物たちは、善意を持っているのに失敗したり、欠点だらけなのに、なぜか憎めなかったりします。周りにいそうな人物たちがあふれているなと感じます。

たとえば『高慢と偏見』に登場するこの3人。

自己満足のかたまりのミスター・コリンズ
男の子に夢中なパーティー好きなリディア
感じが良くて信用してしまいそうなウィッカム

誰も”悪役”として単純には描かれていなくて、現実と同じように、ちょっとズレていて、あー痛いなぁ、あまり関わりたくないなと思わせてくれる人たちです。

だからこそ、時代を越えて共感してしまうのだと思います。

オースティンは、かなり意地が悪い(そして面白い)

もうひとつ、ジェーン・オースティンを読む楽しさがあります。それは、笑いです。

彼女のユーモアは、派手ではありません。乾いていて、ちょっと意地が悪い。愚かさや虚栄心、気取った態度や思い込みを、静かに、でも容赦なく照らします。

『ノーサンガー・アビー』では、当時流行していたゴシック小説そのものを、丸ごとパロディにしてしまいました。

そして『高慢と偏見』では、ミスター・ベネットが、こんなことを言います。

For what do we live, but to make sport for our neighbors, and laugh at them in our turn?

『高慢と偏見』より

「私たちは何のために生きているのだろう。近所の人たちの笑いものになり、そして今度は私たちが彼らを笑うためではないのか?」

周りの人から見れば、自分たちはかなりの大混乱ぶりに見えているはず。
だからどうせ自分も笑われているのだからと思って、他人にも少し寛大でいたほうがいい。

人を笑いながら、でも突き放さない。その距離感がとてもオースティンらしいなぁと思います。

読者を試すような、語り方

オースティンの小説を読んでいると、あとになって、ふと気づくことがあります。

——あれ?さっきまで信じていた気持ちは、本当に事実だったのかな?と。

語り手は、何も説明してくれません。登場人物の思い込みや感情が、いつの間にか語りの中に溶け込んでいるのです。

『高慢と偏見』で、エリザベスがウィッカムを好ましく思う場面もそう。読み進めるうちは自然に受け入れてしまうけれど、あとから振り返ると、それは「エリザベスの見方」であって、事実そのものではなかったと気づきます。

オースティンは、「これは違いますよ」とも、「注意してください」とも言わない。自分で気づくしかないのです。

この語り方は、自由間接話法と呼ばれていて、語り手と登場人物の声が、静かに混ざり合う書き方です。だから彼女の小説は、物語を追うだけでは終わらず、私の見抜く力まで、試されているように感じます。

結婚はロマンスではなく、生存戦略だった

オースティンの物語が、結婚を中心に描いているのには理由があります。

当時の女性は、財産を持てず、職業の選択肢も限られ、結婚がほぼ唯一の「将来の保障」でした。だから結婚は、恋愛だけの問題ではありません。

誰と結婚するか。それは住む場所、生活、尊厳を守れるかどうか、という現実的な問いだったのです。

オースティンは、その厳しい状況をそのまま描きながら、それでも愛と尊敬を大切にすることを諦めない女性たちを描きました。

声高に批判することはしない。でも確実に違和感を残す。それが彼女のやり方だと思います。

なぜ、私はロケ地を歩きたくなるのか

ジェーン・オースティンの小説では、建物や風景がくわしく描かれることはあまりないように感じます。部屋の広さやお屋敷の外観よりも、人がどう振る舞うのか、どう見られているかが描かれます。

だから私は、BBCドラマ版や2005年の映画版で、なぜこの場所が選ばれたのかが気になりました。

小説を映像作品にしてくれたことで、物語の世界がさらに広がったと感じているからです。作り手は、この物語をどう見せたかったのか。そのイメージが、場所や空間として立ち上がってくるのがとても面白いと思いました。

ドラマや映画は、原作に書かれていない部分を、場所や空間で語ります。応接間の配置、階段の位置、庭や散歩道。ただの背景ではなく、人物の関係や社会的な距離を目に見えるかたちで補ってくれているなと。

さらにその選ばれたロケ地の数々は・・・
私の場合はとくにお屋敷ですが、ロケ地としてではなくその場所自身の歴史や物語があって、その重なりがまた魅力的に感じられるのです。

映像の中でジェーン・オースティンの物語が繰り広げられた場所が、実際にはどんな空間なのか。本当は、どんな時間を重ねてきたお屋敷なのか。自分の足でそこに立って、物語を追体験しながら、同時に、その場所そのものも味わってみたい。だから私は、ロケ地を歩いてみたいのだと思います。

このマガジンでは、小説の舞台を追うのではなく、BBCドラマ版と2005年映画版が選び取ったロケ地を手がかりに、『高慢と偏見』の世界を、少しずつ立体的にしていけたらなと思っています。



いいなと思ったら応援しよう!

英国ドラマとカントリーハウス|yoko この記事が心に残ったら、いいねやコメント、無理のない形で応援してもらえると嬉しいです。チップは、イギリス映画・ドラマの舞台となったお屋敷を調べ、 ロケ地巡りや記録を続けるための力になります。