売り物ではない、古い旅行鞄
八月も後半に入ると、西日の角度は少しずつ鋭さを増し、石造りの洋館に差し込む光の輪郭がわずかに硬くなる。
分厚い壁が溜め込んだ夏の熱は、午後遅くの室内を気怠い温度と湿度で満たしていた。開け放たれた窓から微かな風が入り、重いベルベットのカーテンを揺らす。しかし涼しくはない。ただ、澱んだ空気がまだ動けることを知らせる程度の風だった。
私はマホガニーのテーブルの前に座り、客が品物をしまうのを見ていた。
取引は終わっている。
今日の客が求めていたのは、十九世紀の純銀のシガレットケースだった。表面に刻まれた細かな装飾を最後にもう一度確かめると、彼はそれを黒い袋へ収め、自分の鞄へしまった。
「素晴らしい品をありがとうございました。探していた年代のものです」
私は軽く頷き、席を立った。
それで商談は終わりだった。
廊下へ続く重いオーク材の扉を開ける。
高い窓から斜めに差し込んだ西日が、古い寄木細工の床へオレンジ色の四角い染みを落としていた。
客はその光を跨ぎ、玄関へ向かう。
途中で足を止めた。
廊下の隅の薄暗がりに、古い革の旅行鞄が置かれていた。
美術館のガラスケースに収まるような品ではない。
かつては深い飴色だった革は、長年の摩擦でところどころ色を失い、四つの角には下地の荒い繊維が覗いている。堅牢だったステッチも一部は色褪せ、短い糸の端が革の表面から浮いていた。
鈍い真鍮の金具には、何かにぶつけた細かな傷が幾重にも重なっている。
分厚い取っ手だけが黒い。
何度も人間の手を受け入れ、脂を吸い込んだ革には、そこだけ湿ったような艶が残っていた。
夏の空気を吸った古い革から、微かな獣の匂いと乾いた埃の匂いがした。
客は身を少し屈めた。
「これは……」
視線が、擦れた角から真鍮の金具へ移る。
しばらく眺めてから、彼は私を振り返った。
「これも、お売りいただけるのですか」
一拍置いて、
「おいくらですか」
と尋ねた。
値札というものは便利だ。
考えなくて済む。
「それは売り物ではありません」
「おや、そうですか」
客はもう一度鞄を見た。
「惜しいですね。これほど使い込まれた良い風合いなら、市場に出せばかなりの値がつくでしょうに」
「そうかもしれません」
私はそれ以上言わなかった。
二人で玄関まで歩く。
重い扉を開けると、外のまとわりつくような熱気が一瞬だけ邸内へ流れ込んだ。
短い挨拶を交わす。
扉を閉める。
真鍮のラッチが、ガチャン、と噛み合った。
廊下に静けさが戻った。
窓から差し込む光の角度は少し変わっている。先ほどまで旅行鞄の側面を照らしていた光は、すでに寄木細工の床へ移っていた。
薄暗がりに残された鞄は、長く息を潜めてきた獣のように、壁際でじっとうずくまっている。
私はその前まで歩き、身を屈めた。
右手の指先で、分厚い革の取っ手に触れる。
室内にはまだ夏の熱が残っているのに、使い込まれた革の奥には、硬い芯のような冷たさがあった。
親指をゆっくり滑らせる。
黒ずんだ艶。
浅いひび。
指の腹に引っかかる、細かな傷。
そのまま真鍮の留め具へ触れた。
冷たい金属の表面に刻まれた微小な凹凸が、皮膚をかすかに擦る。
一度だけ、金具を押した。
カチャリ。
くぐもった音が、廊下の奥へ吸い込まれた。
私は立ち上がった。
それから鞄の側面へ手を添え、向きをほんの数センチだけ直した。
床板の目地と、完全に平行になるように。
貴女が何を売り物にしないのか、私は知らない。
尋ねるつもりもない。
私は鞄に背を向けた。
古い革の匂いだけを廊下に残し、書斎へ戻った。
