嫌なものを見続けることでしか、保てない現実がある
嫌だとか考える必要はあるのか
はじめに
嫌だ。
そのひとことは、
案外、深い。
わがままではなく、
甘えでもなく、
心や身体が、
先に知ってしまったことの名前かもしれない。
けれど人は、
嫌だったことそのものよりも、
嫌だったことを、
ずっと考え続けてしまうことで苦しくなる。
あれは嫌だった。
本当に嫌だった。
なぜあんなことになったのだろう。
なぜ自分はあんなふうに傷ついたのだろう。
そうやって、
ひとつの出来事は、
心の中で何度も起きなおす。
では、
嫌だとか考える必要はあるのだろうか。
今回は、そこを見ていきたい。
嫌だった出来事。
傷ついた自分。
見続けてしまう痛み。
そして、
「嫌だった」を消さないまま、
そこから少し自由になるということを。
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1. 傷ついたのは、出来事そのものか、それとも守っていた自己像か
最初に傷つけるのは、
たぶん、出来事そのものだ。
冷たい言葉。
雑な扱い。
無視された気配。
こちらの大事さが、
なかったことにされる感じ。
それは痛い。
まず、普通に痛い。
だから、
「そんなことで傷つく必要はない」
などとは言えない。
傷ついたなら、傷ついたのだ。
そこは、もう動かしようがない。
けれど、
時間がたってもなお残る苦しさは、
少し違う場所にあることが多い。
それは、
出来事ではなく、
その出来事の中で崩れた
自分の像だ。
こんなふうに扱われるはずではなかった。
もっと平気でいられるはずだった。
自分は、こんなことで揺らぐ人間ではないと思っていた。
人は、
起きたことそのものだけでなく、
起きたことによって
保っていた自分の形が壊れることで、
深く傷つく。
つまり、
痛みはふたつある。
ひとつは、外から来る。
もうひとつは、内側で割れる。
そして、
長く残るのは、
後者であることが多い。
なぜなら出来事は、
過去へ行く。
けれど自己像は、
今も心の中に残りつづけるからだ。
あのときの自分。
言い返せなかった自分。
平気な顔ができなかった自分。
こんなことで苦しくなる自分。
人は時々、
出来事を思い返しているようでいて、
ほんとうは
そのとき壊れた自分の像を、
見張り続けている。
だから苦しい。
出来事は終わっているのに、
自己像の崩れだけが、
まだ終わっていない。
ここで少しだけ、
見え方が変わる。
傷ついたのは、
たしかに自分だ。
でも、
傷ついたことと、
自分の価値が壊れたことは、
同じではない。
傷ついたのは事実だ。
だがそれは、
自分のすべてが否定されたという意味ではない。
守っていた像が破れた。
それはつらい。
けれど、
破れたのは像であって、
存在そのものではない。
そう思えるだけで、
苦しみは少し、
空気を入れ替える。
2. 嫌なものを見続けることでしか保てない現実感とは、何なのか
人はときどき、
嫌なものを見続けることを、
誠実さだと思う。
つらかったことを忘れないこと。
嫌だったことを軽くしないこと。
見なかったことにしないこと。
それはたしかに、
大事な面がある。
けれど、
そこにはもうひとつ、
別のものが混ざっている。
苦しみを持ち続けていないと、
あの出来事まで
嘘になってしまう気がすることだ。
痛みが薄れると、
本当はそれほどでもなかったのではないか。
自分は大げさだったのではないか。
あの傷は、
思っていたほど深くなかったのではないか。
そんなふうに、
事実そのものまで揺らぎそうで怖くなる。
だから人は、
見続ける。
思い返す。
何度も痛みを確かめる。
それによって保たれている現実感の正体は、
たぶん
「私はほんとうに傷ついた」
という事実の証明だ。
つまり、
嫌なものを見続けているのではなく、
傷の本当さを見失わないようにしている。
それは切実だと思う。
痛かったことを、
痛かったまま持っていたい。
無かったことにしたくない。
自分で自分の傷を、
裏切りたくない。
その気持ちは、
よく分かる。
でも、
ここでひとつ越えなければならないものがある。
それは、
痛みを感じ続けることと、
事実を保つことは、
同じではないということだ。
見続けなくても、
嫌だったことは消えない。
繰り返し痛まなくても、
傷ついた事実は無くならない。
むしろ、
何度も再生することで、
出来事そのものより
「痛みを抱え続ける自分」のほうが
強くなってしまうことがある。
そうなると、
現実を守っているつもりで、
痛みの形式を守っているだけになる。
本当に現実だったものは、
痛みが静かになったあとにも残る。
あれは嫌だった。
たしかに傷ついた。
それはもう、
熱を持ち続けなくても消えない。
現実とは、
傷口を開き続けることでしか
保てないものではない。
静かになっても残るもの。
繰り返さなくても確かなもの。
それを現実と呼べるようになったとき、
人は少し、
痛みの番人でいることをやめられる。
3. 「嫌だった」を保ったまま自由になるとは、どういうことか
ここが、
いちばん難しいところかもしれない。
自由になるというと、
多くの人は
気にしなくなることを思う。
忘れること。
流すこと。
もう何も感じなくなること。
けれど、
たぶんそうではない。
「嫌だった」を保ったまま自由になるとは、
嫌だった事実を消さずに、
その事実だけで
自分を作らなくなることだ。
あれは嫌だった。
それは本当だ。
たしかに傷ついた。
それも本当だ。
でも、
その出来事が
自分のすべてではない。
その出来事を通してしか
世界を見られなくなる必要はない。
その痛みを通してしか
自分を感じられなくなる必要もない。
自由とは、
否認ではない。
美化でもない。
許すことを急ぐことでもない。
ただ、
そこに住み続けないことだ。
「嫌だった」を
記憶として持つ。
感覚として持つ。
けれど住所にはしない。
必要なときに思い出せる。
でも、
いつもそこへ戻らなくてもいい。
それがたぶん、
自由に近い。
人は時々、
苦しみから離れることを
裏切りのように感じる。
こんなに嫌だったのに。
こんなに傷ついたのに。
もう平気になってしまったら、
あのときの自分を見捨てることになるのではないか、と。
でも、
ほんとうは逆なのかもしれない。
いつまでも同じ場所に立たせ続けることのほうが、
あのときの自分を
閉じ込めてしまうことがある。
嫌だったと分かったなら、
その感覚はもう失われていない。
そこが残っているなら、
何度も確認しなくてもいい。
あれは嫌だった。
だからこそ、
そこから離れてよかった。
そう言えること。
それは薄情ではない。
鈍感でもない。
忘却でもない。
むしろ、
感覚への信頼だと思う。
嫌だったことを、
嫌だったまま持つ。
けれど、
その嫌さの中に
住み続けはしない。
そのとき人は、
ようやく
嫌悪から自由になるのではなく、
嫌悪に支配されることから
自由になっていく。
それが、
「嫌だった」を保ったまま
自由になるということなのだと思う。
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