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心の内側に触れる -フリードリヒの絵画の魅力

 

 
 
【月曜日は絵画の日】
 
私にとって大切な絵画とは、どこかある種の静寂のトーンを纏っている絵画のような気がします。
 
ドイツの風景画家カスパー・フリードリヒの絵画は、私の最愛の画家の一人であり、フェルメールやハマスホイと並ぶ、静寂の美の画家です。


『月を眺める二人の男』
ドレスデン美術館蔵




カスパー・ダヴィット・フリードリヒは、1774年、当時はスウェーデン領だった、ドイツ北部生まれ。幼い頃弟や姉、母を亡くし、このことは彼の生涯に大きな影を落とし、29歳の時、重い鬱病で自殺未遂を起こしています(彼の特徴的な頬髯はこの時の傷を隠すためのものでした)。


カスパー・ダヴィット・フリードリヒ


ドレスデンに移住し、美術アカデミーで学ぶと、山や廃墟等様々な場所に出かけて風景をスケッチしています。
 
31歳の時、ゲーテ主宰のコンクールで一等に。そして、『山上の十字架』では、キリストが架けられた十字架を背後から小さく捉える風景画という斬新な構図で、教会からは批判を浴びます。しかし、そこに込められた新しさと神秘に、段々と支持者が増えることに。


『山上の十字架』
シカゴ美術館蔵


ベルリン・美術アカデミーの会員になり、結婚して子供にも恵まれます。本人的には大変幸せな結婚だったらしく、作品にはどこか暖かさも出てくることになります。
 
51歳の時に脳卒中の発作を起こすものの、作品の製作は続けられ『氷の海』のような名作も手掛けます。1840年、ドレスデンにて65歳で亡くなっています。


『帆船の上で』
ミネアポリス美術館蔵




フリードリヒの絵画の特徴は、その雄大な風景、ロマン主義的な光景と言えます。
 
大海、険しい山岳、廃墟、墓地等、人知を超えた力の宿っているような場所を雄大に描く。
 

『雲海の上の旅人』
ハンブルク美術館蔵


そして人物は風景の中、ほぼ後ろ姿で顔の表情が見えず、感情は分からない。
 
『海辺の修道士』は、その極限まで至ったような初期作品で、陰鬱な色の海と溶け合うような曇り空に、画面の下部に辛うじて棒のような人物が見つかるだけです。


『海辺の修道士』
ベルリン美術館蔵


大気と水によって画面全てが満たされて溢れてくるかのような、抽象画に近い前衛的な作品であり、当時の人の驚きも理解できます。
 
それは神秘的で敬虔なものを感じさせるけど、キリスト教的かと言うとちょっと違う。『山上の十字架』に教会が拒否反応を起こしたのも良く分かる。人間の感情をどこか漂白してしまったような部分があります。
 
彼の描く「崇高な風景」は、宗教からどこかはみ出してしまう、異教的なところがある。といってもそれは、エキゾチズムとも違う、澄み切った風景を前にして、人間の感情も消えた、空っぽな場所のような感覚です。


『樫の木の修道院』
ベルリン美術館蔵


廃墟や墓地の、自然の厳しさや無残さの発露とも違う、落ち着いた感触。

或いは『氷の海』の驚くべき船の座礁場面でも、自然の恐怖や人間のちっぽけさといった、ある種の感傷的な感情を呼び起こすというより、その凍りついた情景と澄み切った空気が印象的づけられるのです。


『氷の海』
ハンブルク美術館蔵
右側に小さく船が見える


そして同時に、彼は幻想に生きる画家でもないと思っています。
 
フリードリヒは海や山の風景と同様に、室内画も手掛けています。とりわけ、窓にもたれかかる妻の後姿を捉えた絵画に見られる瞑想的な情景は、雄大な風景の幻想を効果的に描く画家には、決して及ばない発想でしょう。


『窓辺の女性』
プーシキン美術館蔵
ハマスホイの後ろを向いた女性像にも
影響を与えた


彼の描く海の多くは、波を立てずに澄んだ湖のような色合いをしていて、それが、ナチュラルな海の情景とも幻想とも違い、静けさを得るためのある種のキャンバスとして、風景が存在しているようにも感じられます。
 
人間の表面的な感情と違うエネルギーが溢れ、それでいて静寂に満ちた風景。何というか、人間の内面の奥底に魂というものがもしあるとしたら、リアルと幻想の狭間にあるこんな風景なのかもしれない、と思わせるのです。


『海からの月の出』
ノイエ・ピナコテーク蔵


そうした表現は、やはりフリードリヒが時代の子であったこともあるでしょう。彼が15歳の時、1789年に起きたフランス革命から、ナポレオン戦争に至る動乱の時代。
 
彼の絵画の中にはドイツ(当時は統一されていなかったので、どちらかというと古代ゲルマン的なもの)への愛国主義的な表現も隠されていますが、それ以上に、既存の宗教を超えたエネルギーの高まりを感じていたことはあると思います。


『朝日の中の婦人』
フォルクヴァンク美術館蔵


従来の聖母子像や聖書にとらわれない、人間と自然が向き合うその瞬間に生まれるエネルギーをとらえること。

それはフリードリヒの四歳年上の音楽家、ベートーヴェンと共通する何かなのかもしれません。

ベートーヴェンにも、従来の宗教曲では表現できない、しばしば異教的な力の爆発(ちなみに彼はインド哲学にも興味を持ち、蔵書にあったことが知られています)があり、それと対照的な静謐さも持ち合わせています。
 
とりわけ、ベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲は、いかなる意味でもキリスト教的とは違う、それでいて敬虔な感情を呼び起こし、どこか抽象的でモノトーンの色彩を感じさせる、驚きの静寂さに満ちています。それはつまり、フリードリヒの絵画と同じトーンと効果を持っているように思えるのです。


『キリスト教会の幻影』
ゲオルク・シェーファー美術館蔵
古代ケルトの異教ドルイド僧の儀式中に
教会の幻影が現れる。
フリードリヒの中でも珍しい幻視的な作品


現実をありのままに描くことが、芸術にとって最良とは言い切れないし、私たちはしばしば自分の感情のフィルタを通して、現実の喧騒を捉えます。
 
だからこそ、そうした感情も幻想も妄想も出てこない、削ぎ落された静寂な表現に出会うと、自分の内側にある、自分も知らない何かの核のようなもの、つまりは魂に触れるように感じるのかもしれません。
 
フェルメールやハマスホイと同様、フリードリヒの絵画は、そういう意味で私にとって大切なものであり、そうした場所に出会うことが、私にとって生きる意味のような、ある種の喜びを発見することのように思えるのです。


『雪の中の墓石』
ドレスデン美術館蔵



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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