【河童忌】或阿呆と文豪
芥川龍之介。みんな好きな作家だけど、一番にあげられる作家でもないように感じる。みんな知ってるけどみんな知らない。妖怪。もとい河童のような作家。
先日、会社の同期が『羅生門』の意味がよくわからないという話をしていて驚いた。僕にとって芥川の文章は明快でかっこいい。時代を超えた普遍性こそが『芥川龍之介』だと思っていたのだ。
思い返してみれば僕が初めて芥川の文章に触れたのは小学生の頃だ。絵本で読んだ『蜘蛛の糸』だった。当時は「蜘蛛一匹救ったくらいでここまでチャンスくれるんだな」くらいの感想を持っていた。
ストーリーだけでいくなら『杜子春』。NHKの教育番組でやっていた記憶が薄っらとある。説教臭いオチだなと子供の頃は思っていた。
ガキンチョにでも物語のあらすじを読ませてしまう。今になってはその力量に驚かされるばかりだが。
中学生になり初めてしっかりと芥川文学を読むに至った。朝礼と一限の間にある朝読書の時間で芥川の短編をたくさん読んだ。
『羅生門・鼻』、『偸盗・地獄変』王朝ものを中心に有名どころは粗方読んだように思う。『地獄変』が一番好きだという印象とその続編の『邪宗門』が未完なのが残念だったということだけは覚えている。
高校受験の対策で『蜜柑』にも触れたように思うし国語の時間に習う文学史にも芥川の名前は出てくる。芥川はヘッセと並んで中学生が初めて触れる文豪だ。
死亡理由、『ぼんやりとした一抹の不安』。
あまりにクレイジーで、それでいて文学的だ。
あれだけ作家として認められて、一般大衆だけじゃなくて漱石に認められるようなスタートでゴールは『ぼんやり』か。そう思って太宰の心中癖を詳しく書いたページを開いた。
高校生になるといよいよ『羅生門』がでてくる。冒頭の『sentimentalism』が英語で書かれていることがかっこいい。高校国語の『羅生門』に対する常套句は「エゴイズム」だ。下人が老婆のエゴイズムに感化されて自己を正当化する話。朝読書以来の『羅生門』との再会にやはり読みやすいなと思う。
けれど、高校国語の授業で印象に残っているのは『こころ』や『富嶽百景』、『山月記』だ。『山月記』は高校の気を衒った試みでALTに教わったという背景もあるけれど。
何はともあれ芥川はあったなという、印象こそあれ何をやったのかは覚えていない。
ただ覚えているのは面皰だのなんだのやたら情景描写が細かいなくらいのもので『精神的向上心のないものは馬鹿だ』というKの発言や、妻子をほっぽかしながら漢詩を誦じる李徴を越えるインパクトはなかった。
大学生になり経済学部に入った僕にも「まともに」芥川に向き合うチャンスがあった。教養科目の確か『文学・言語学入門』という科目であったと思う。
その科目では『羅生門』を題材に10種類のテクストの読み方を毎週していくという講義であった。
コロナの余波もあった当時オンデマンドだったその講義を僕はほとんど受けなかった。
「エゴイズム」を絡めたしょうもなくいい感じなレポートを書いて「可(ぎりぎり及第点)」だった記憶がある。
正直今が一番悔しい。会計学や人的資本経営よりも欲しかった情報がそこに転がっていたなんて。
結局、最後のモラトリアムに忙しい僕は大学の授業が片付く四年生まで読書から遠ざかっていた。
読書を再開してから初めて読んだ芥川は『戯作三昧・一塊の土』である。父に勧められたこの短編集は「江戸もの」と「文明開花もの」がまとめられている。
その中でもやはり『戯作三昧』であろう。滝沢馬琴に自身を仮託して描かれる芸術家の苦悩。ドロドロとしたものではなくサラッと書くのが芥川らしいと感じた。
サラッと書くのが芥川らしい?
確かにそう感じたがどこから来たのか、どのテクストか?一体僕は芥川の何を読んで何を読んでいないのか?その時、大学の講義の存在を思い出した。
だけど、何をやったかは思い出せない。資料は期限切れで読めない。僕は、芥川に何を学んだのか。僕も『羅生門』はわからないのか。
「なあ、芥川。その明快な文章で人生を刻んでくれよ。」
……。嘆いても彼の行方は、誰も知らない。
