繊細な僕たちが、理不尽な「音」の犠牲者にならないための戦略
麺をすする音や、咀嚼音。
それを聞いても何とも感じない方には申し訳ないのですが、それらが気になってしまう人達の為に書きます。
僕たちにとっては、それは文字通り「頭痛」に匹敵するほどの耐え難い不快さとして、どうしても脳に走ってしまいます。
単なる「気にしすぎ」という性格の話ではありません。
僕の様に慢性上咽頭炎のような身体的な不調がある方ならご理解頂けるかと思いますが、それは神経を逆撫でされる様な暴力であり、逃げ場のない不快を心に引き起こします。
「もっとおおらかになれ」と言われても、それは無理な話かも知れません。
なぜなら、その音の背後にある「高尚な理由なんてないのに、文化やマナーという言葉で都合よく正当化している」という薄っぺらさに、僕たちは気づいてしまっているからです。
でも、そうやって真実を見抜いてしまうからこそ、僕たちは「ややこしい犠牲者」というポジションに追い込まれます。
言い返せば面倒なことになる。だから黙るしかない。
その「黙らされている」という感覚が、何よりも僕たちの心を蝕んでいくのです。
■「人間ではない」と割り切る、という防衛戦術
どうしようもなく不快なとき、僕は時々こんな考え方をします。
「目の前のその存在は、人間ではない」
そう割り切るのです。相手を「理性が通じ、配慮が期待できる対等な人間」として見るから、期待が裏切られ、怒りが湧き、傷つく。
ならばいっそ、「知性を持たない動物」だと一時的に定義してしまう。
「人間だと思えばマナーや配慮を求めてしまうが、知性のない動物にそれを求めるのはこちらの思い上がりだ」
そうやって相手を格下げすることで、少なくとも「配慮の欠如」という物語から自分を引き剥がし、その場しのぎの平穏を確保する。
これは、僕たちがこのノイズまみれの世界で生き残るための、極めて実用的な防衛本能です。
ただ、書き添えておかなければなりません。
これはあくまで僕たちが便宜上行っている「分離」の価値観であり、あくまで『一時的な逃避』に過ぎません。
いつまでもその視点に留まり、相手を知性のない存在として遠ざけ続けることは、真実の探求者としてはおすすめできる道ではないと自分でも理解しております。
あくまでこれは一時的な対処法としての紹介です。
■「現象」という幻想に気づくとき
結局のところ、僕たちが本当に目指すべきは、その不快な現象を「外側にある変えられない現実」として固執するのをやめることなのかもしれません。
僕を苦しめていたはずの「不快な音」も、それを「無礼な攻撃だ」と定義する思考も、すべては僕という観測者の内側に映し出された物語に過ぎない。
僕たちが必死に戦っていたその「理不尽な事実」さえも、実は現象という名の幻想の一つに過ぎなかったということです。
そう気づくことができたとき、初めて僕たちは「ややこしい犠牲者」という名の囚人から解放されるのではないでしょうか?
不快を感じる自分を無理に否定する必要はありません。
ただ、その不快が起きている事実を眺めながら、「これもまた、幻想のワンシーンだな」と呟いてみる。
そうやって少しずつ、「物語」から降りていく。
真実の探求とは、もしかしたらそんな風に、自分が握りしめていた不快という名の幻想を、一つずつ手放していくプロセスのことなのかもしれません。
