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シミセンの人生談義 生きることの意味


はじめに

 1年かけて生きることの意味について考えてみました。僕は小中学生対象の進学塾に勤めており、そこで毎月校舎で発行する通信に、年間テーマを1つ決めて連載記事を載せていました。すでに、定年退職し、通信を出すことも無くなったのですが、惰性でもう1年、締め切りに追われることもなく、少し遅れ気味に書いてきました。すでに4月になってしまいましたが、やっと昨年度分B4 12枚が完成しましたので掲載します。読者対象は小中学生とその保護者のつもりですが、どなたにでも気軽に読んでいただけるかと思います。1人本質観取みたいな感じです。良かったら読みながらいろいろ考えてみてください。


1 何のために生きるのか 生きるのに目的は必要か        

 これから1年かけて人生談義をしてみたいと思います。僕も今年で還暦を迎えました。つまり60歳です。ちょっとキリが良いので、自分の人生を振り返ってみようと思います。とは言っても、森毅の人生2乗説(僕はこちらの方がしっくりいきます)に従うと、僕は第8ステージ(7の2乗=49歳~8の2乗=64歳)の後半にいるということになりますが。子育てがひと段落したと思ったら、親の介護の問題が浮上。そして、それも済んで、両親の七回忌を終えたところ。会社の方も、まずは役職定年、そして60歳の定年退職、常勤から非常勤と次第に責任が減り、働き方が変わっていきます。まあ、いままでもそんなにあくせく働いてきたという感じではないのですが、すっかり時間に余裕ができるようになってきました。もう少し、いままで通り働きたいなあという思いもありますが、ちょっと本棚を見渡せばシェイクスピア全集を始め積読の本が山のようにありますし、スマホの中にも、森鴎外や芥川龍之介の全集やプルーストの「失われた時を求めて」などが入っています。いくらでも時間は欲しいわけで、でも、人とも関わっていたいという思いもあり、いま少しゆれているところです。
 さて、この60年、僕は何のために生きてきたのでしょうか。何のために37年間働いてきたのかという問いならば、食べるためとか、住宅ローンを払い続けるためとか、子どもを養っていくためとか、はたまた、誰かの役に立てるようにとか、自分の存在意義を確かめるためにとか、いろいろ言うことができそうですが、何のために生きてきたかと言われると、明日も生きるために今日も生きているとしか言いようがありません。そもそも、生きるのに目的なんて必要ないのではないでしょうか。何か目的があって、そのための手段として生きているというのはちょっと違うような気がします。ただただ生きているのでいいと思います。そこに意味は必要ないように思います。ただ、楽しく生きている間はそれで何も問題ないのかもしれないのですが、とてもつらいことがあったとき、もう死にたいと思うとき、自分は何のために生きているのかという疑問がわいてくるのではないでしょうか。今日死んでしまえば、明日を生きることはできません。でも、明日に全く希望が持てないとしたら、今日死んでしまった方がましだということになるかもしれません。それでも、生きていて欲しい。人はどうせいつかは死ぬのだから、生きていられる間は生きていて欲しい。そう願うばかりです。
 ちょっといきなり難しい問題に直面してしまったので、僕の人生を振り返りながら、そのときどきで何を思って生きてきたのかを思い出してみます。とくに、何かの転機になった場面ですね。小学3年生になった4月、僕は転校生として新しい学校に通い始めました。もう不安でいっぱいでした。引っ越しなんてしたくなかった。でも、近所の同級生が放課後にすぐ声をかけてくれて、あっという間に溶け込んでいくことができました。中学受験に失敗したときは一晩だけ泣いた記憶があります。高校入学と同時に寮生活を始めましたが、最初の1週間だけは家から通学すればよかったと思いました。でも、2週目に入ると楽しいことの方が多くなりました。高校2年生のとき1年間アメリカのハイスクールに留学しました。そのときは出発の準備をし始めたころ、不安でいっぱいになり、こんなこと言い出すのではなかった、と思ったことがあります。でも、実際に出発してしまうともう無我夢中で、あっという間の1年でした。留学から戻ると1つ下の学年に入ったため、友人関係が思うようにいかず、何だか常に浮いた気分でいました。でも、仲のいい友人ができたことで、そんな思いも吹き飛びました。大学入試にしても大学院入試にしても思うようにいかないことばかりでしたが、自分の置かれた場所でそれなりに楽しく生きてくることができました。大学では、この歳になっても親友と呼べるような人物とも出会うことができました。学生時代はずっと寮生活でした。東京に出て社会人になると初めての一人暮らしで、不安もいっぱいありましたが、いろいろと新しい体験ばかりで悩んでいる暇もなかったです。そのころ2度の失恋で少し落ち込むことはありましたが、そのときも、わりとすぐに前向きに生きることができました。いろいろあって会社を辞め、実家にもどって1ヶ月ほどは無職でしたが、とりあえずと思って新たに就職をしました。ただそのすぐ後に学生時代の恩師の紹介もあり別の会社に移りました。ところが、そのころ花粉症を発症したことも重なって、通勤電車の中でこのまま死ぬのではないかという思いをしたのです。すぐに病院に向かい、保険証をもって母に迎えに来てもらいました。久しぶりに親のありがたみを実感しました。身体的には特に問題はなかったのですが、その後しばらくは不安にさいなまれ、結局また転職することになります。26歳のことでした。いままで生きてきた中でこのときが一番きつかったと思います。臨床心理学の本などをむさぼり読みました。「ノルウェイの森」に出て来るバスに乗って、京都の北の方に向かいました。戻って来て、鴨川の土手で決心しました。2度目の会社に戻ろうと。当時の人事部長がこころよく受け入れてくださいました。本当にありがたかったです。そこから、34年間、同じ会社で働き続けました。しばらくは、また同じような発作が起こるのではないかと思い悩むこともありましたが、まあ何とか乗り越えてきました。振り返って言えることは、人生何とかなるということです。まあ、これは僕の性格ということなのでしょうが、わりと気が弱く、すぐ落ち込んだりするのですが、だいたい一晩するとけろっと忘れてしまいます。心配性で、先回りばかりしていました。何かイベントがあると緊張してお腹が痛くなったり、トイレが近くなったりするから、前もっていろいろ調べたり、余裕をもって到着するようにしたりしていました。滑り込みセーフみたいにしてやってくる人がうらやましかったです。まあ歳をとってくると、人生「案ずるより産むがやすし」と思えるようにはなりました。歳を取るほど反応が遅くなるとか、鈍くなってくるとかということかもしれません。身体はあちこち弱って来るのですが、精神的には図太くなっていくと言えるのでしょうか。いや、そうでもないですね。心配性は心配性のままです。
 さて、こうして人生を振り返って、何のために生きてきたのかと考えると、家族と出会い、友人と出会い、先生と出会い、仕事仲間と出会い、パートナーと出会い、新しい家族と出会い、いろいろな本と出会い、影響され、おそらく周りにも何らかの影響を与えてきました。生きることに目的は必要ないですし、誰かと出会うために生きてきたというわけでもないのですが、生きることによって結果的にいろいろな出会いがあったわけです。人生苦しくて死にたいと思っても、まだこの先の人生でどんな出会いが待っているか分かりません。きっと自分を幸せにしてくれる出会いもあるはずです。そう思って生きていって欲しいですね。
 何のために死ぬのかと問われたら、それは「後進に席を譲るため」という言い方もできるかもしれません。来月は「いまを生きるか、未来を生きるか」について考えてみたいと思います。

2 いまを生きる、未来を生きる 「苦しい」と「楽しい」をアウフヘーベンする


 以前、何かの本を読んでいたら、「いまを生きる人」と「未来を生きる人」という表現が使われていました。分かりやすい分け方だなと思って僕も使うようになりました。「いまを生きる」とは、いま現在を楽しく、輝いて生きていこう、というような意味です。それに対して「未来を生きる」とは、将来の自分のために、いまは少ししんどくても、苦しくても我慢して生きていこう、というような意味と考えれば良いでしょう。さて、皆さんはどちらが良いと思いますか。
 ここでは先に僕の考える結論を言っておきましょう。それは、どちらかではなくどっちも、ということです。おそらく誰でもそうだと思いますが、いまを生きてもいるし、未来を生きてもいるのです。どちらかだけという人はいないでしょう。ただ、どちらに、重きを置くかということだと思います。僕はどちらかというと、未来を生きる方に重きを置いてきました。この34年間、教室訓である「目標を持とう、目標に向かって努力しよう」ということを伝えてきたつもりです。目標は少し高いものを設定するように話してきました。受験生にとって一番身近な目標は受験で第一志望に合格することです。現状に満足することなく、さらに上を目指して、高い目標に向かって努力してほしいと思ってきました。人間、これくらいでいいと思って現状に満足してしまうと、その後の成長が望めません。そうかと言って、高過ぎる目標を立てるととうてい無理とあきらめが出てしまいます。だから、少し背伸びして、手を伸ばせば届くような目標を持つことが大事だと思っています。それに向けて努力することが皆さんの成長につながると信じています。ただそのために皆さんのことを苦しめたり、しんどい思いだけの生活を送らせたりしてきたのではないかと少し不安に思ってもいます(過去の受験生たちみんなを思い浮かべて)。毎日が楽しい方がいいに決まっています。将来のことなんてあまり考えず、いまを楽しく幸せに生きている人を何人も見てきました。僕もできるなら授業をほっぽり出して、好きなドラマの話とか、読んだ本の話とか、恋愛のこととか、みんなの友人関係の悩みとか、家族のこととか、相談ごとも含めて、そんな話をしている方がきっと楽しいと思います。しかし、それは僕の主な役割ではなかったのです。ときどきはそういう役割もしてみたかったのですが、でも一番の僕の役割は皆さんに算数や数学・理科の楽しさを伝えることでした。担任としては皆さんの意欲を引き出して、学びに向かわせることでした。そして、第一志望合格に導くことだったのです。そのためには苦しいことをみなさんに強いることもあったと思います。ただ、この苦しいことと楽しいことは実は両立できるのだとずっと思っています。それをここではお伝えしたいと思います。
 受験勉強を単に第一志望合格のための手段と思はないようにしてほしいのです。そう思ってしまうと、しんどいけれど、自分の将来のために我慢しなければいけないと思うことになってしまいます。そうではなくて、受験勉強自体を楽しんでほしいのです。楽な勉強だけしなさいと言っているわけではありません。それでは成長は見込めません。しんどいけれど、苦しいけれど、楽しく感じることはきっとできると思うのです。苦楽しい(くるたのしい)ということばを作家の遠藤周作さんが使っていました。小説を書いていると、どこかで行き詰って苦しいときもあるはずです。でもそれは苦しいだけではないのです。それは楽しい行いでもあるのです。もう少しで抜け出せそう、先に光が見えて来る、その後に希望がある、そういうとき人は楽しさも感じるはずです。また、数年前の小5生が言ってくれたことばがあります。難楽しい(むずたのしい)。算数の問題を解いているとき、あるいはパズルをやっているとき、ゲームでもいいかも知れません。難しいからこそ解けたときの喜びは大きいのです。簡単なこと、自分ですっとできることだけをしていたのではこの感覚を味わうことはできません。こういう思いを皆さんに知ってほしいのです。いや、きっと既にそういう感じを味わったことがあるでしょう。私の少ない経験からですが、山登りにたとえると、途中苦しい道のりがあったからこそ、頂上からの眺めが本当に美しく思えるものです。でも、本当はその途中の道のりにも楽しいことはいっぱいあるはずなのです。それを見つけてほしいと思います。普段見かけない高山植物が咲いていたり、サルと出くわしたり、いろいろと楽しみはあるはずです。クマには気をつけたいものですが。
 これはなにも受験のことだけではありません。人生全般につながっていることだと思います。単に、将来のためにと、いま苦しいのを我慢するのではなく、いま生きていること自体を楽しんでほしいのです。それは、毎日おもしろおかしく生きようと言っているのとはちょっと違うのです。将来のことも考えて、しんどいことにも耐えて頑張ってほしい。でも、耐えるだけではしんどい。だからしんどい中にいろいろ楽しみも見出してほしいのです。きっとそれができると思います。
 僕にできることは、皆さんに「学ぶことは楽しい」ということをお伝えすることです。算数も数学も、理科だって、学ぶことそれ自体が楽しいのです。できなかったことができるようになったり、難しいと思って霧の中に隠れていた問題がふと視野が開けて全貌が見渡せるようになったり、そういう経験をたくさんしてほしいのです。そんな中で学ぶこと自体の楽しみが見えてくるはずです。一朝一夕にできることではないでしょう。やはり努力は必要です。苦しいだけの勉強ではなく、1つ上のステージに上がって来てほしいのです。そうするときっと見える世界が違ってくるのです。
 人生を楽しみましょう。いまを楽しく生きていきましょう。でも将来のことも考えてみましょう。将来のためにいま何をすべきかを考えてみましょう。努力すること、我慢すること、ときには耐え忍ぶことも必要になるでしょう。でも、そういうこともひっくるめて楽しく生きましょう。「苦しい」と「楽しい」をアウフヘーベンするのです。それは単なる苦しい、単なる楽しいとは違うものになるはずです。未来を生きるだけではなく、いまを生きるだけでもなく、両方のいいとこ取りというわけでもなく、両方をうまくミックスすることで一段階上のもっと良い生き方ができるのではないでしょうか。お好み焼きを食べたい。焼きそばも食べたい。そんなときは広島風お好み焼きを食べるのです。それは、それぞれ単体で食べるとき以上の味わいを感じられるはずです。もっとも僕は別々に食べる方が好きなのですが。昔、予備校で倫理の先生がアウフヘーベンということばの説明をするときにこういうたとえ話をしてくれたのです。でも、広島風がそれぞれ単体で食べるとき以上においしく感じられないのであれば、この説明は破綻していることになるのですけどね。でもまあ、なんだか覚えていたので書いてみました。
 次回は、自分らしく生きるということについて考えてみます。自分探しなんてことばもありますが、そんな確固とした自分なんてあるのでしょうか。自分らしい自分って何なのでしょう。

3 自分らしく生きる いくつかの「分人」を生きる


 みなさんは自分で自分のことをどういう人間だと思っていますか。心理テストか何かをやってみて、あなたの性格はこうですよとか、あなたに向いている職業はこういうものですよとか、答えが返って来ることがありますね。そのときどう思いますか。確かにそうだなと思いますか。
 僕は毎年会社で秋に心理テストを受けてきました。それで、だいたい毎年同じような結果が返ってきます。僕に対する心理イメージは次のようなものです。「考え深い性格」「強い言い方に反発」「引っ張るよりもついていくほう」「あまり目標にこだわらない」「新しいことにはあまり興味がない」「目立ちたがり屋ではない」「人にあわせるのは苦手」どうでしょう。あたっているようでもあり、そこはちょっと違うなというところもあります。僕は理科系の教科を長年担当してきましたが、読書が大好きです。割りと深く物事を考えているように見えるかもしれませんが、実は適当に直感で動いていることの方が多いのです。きつい言い方をされたりすると反発はしますね。誰に言われたかによってはひどく落ち込むこともあるかもしれません。27年ほどは中間管理職として働いてきましたが、オレについて来いというタイプではありませんでした。でも引っ張られるのも嫌です。管理するのも管理されるのも大嫌いです。目標にはこだわりません。目標なんてどうせ人が決めたものですから、その決め方次第で達成出来たりできなかったりいろいろです。それに偶然に左右されることが圧倒的に多くて、自分の力でどうにかできることはほんのわずかだと思っています。ただ、目標に向けて努力すること自体は大事だと思っています。新しいことに興味がないわけではないのです。どんどん新しい本を読んだり、新しい考え方に触れたりしたいと思っています。知らない土地やお店を訪れるのも大好きです。新しい電化製品とかには興味がないというだけです。何でも壊れるまで使いつづけます。服も破れるまで着続けます。だいたいは「もったいない」という精神が強いのです。実は僕は目立ちたがり屋です。学生時代はよく舞台に立ちました。人と合わせるのが苦手というか、雑談が大の苦手です。つい時間のムダだと思ってしまうのです。それに雑談のネタをほとんど持ち合わせていません。特に苦手なのがプロ野球とか相撲とかスポーツ関係、それから車とかバイクとか電化製品とかの機械関係、競馬とかパチンコとかギャンブル関係、そういう大人の男の人が話題にすることの多い内容に全く興味がありません。それと、血液型の性格診断、もう全く非科学的だと思っているので、とにかく時間のムダだと思ってしまいます。ということで、ずいぶんと自分がどういう人間かということが浮き彫りになってきたのではないかと思います。
 もう一つ上げておくと、先日、河合隼雄先生の「ユング心理学入門」という古い本を奈良の書店にて半額で入手して読んだのですが、自分はまったく内向型の人間だと思いました。この半年ほど森鴎外の「舞姫」読書会に参加しているのですが、12,3人くらいの女性の中で僕一人が男性です。その中で、高校の同級生が一人、「源氏物語」読書会でご一緒した人が二人、あとは高校時代の恩師一人ということで、半分以上は知らない人たちです。そうすると、僕は完全に口を閉じてしまいます。何も言えなくなってしまうのです。始まる前の雑談がどれほど多いことか。にこにこしておく以外、僕には術がありません。いろいろ思うことはあるのですが、なかなかうまく口を開くタイミングがつかめません。それで、だいたい帰ってからメールで先生に質問したりしているのです。先生からの信頼は厚いのですけれどね。僕は、本当はむちゃくちゃおしゃべりで、二人で食事に行ったりするとしゃべりすぎることもあります。でも、4人とか、5人とか以上になってくると話し出せなくなります。人数がもっと多くなって、隣の人と二人でしゃべるとかはできるのですが。まわりの人がどう思うかとかを気にしすぎるのですね。
 これはいま自己分析をしているのですが、実際には場面場面で少しずつタイプは変わるのです。仕事で、たくさんの人の前でしゃべっているときの自分と、近所でバーベキューなんかをしているときの自分、読書会などに参加したときの自分、昔からの友人と一緒にいるときの自分、親友と二人でいるときの自分、妻と二人でいるときの自分、息子といるときの自分、娘といるときの自分、一人で電車に乗っているときの自分、全く一人でいるときの自分、その都度違った自分がそこにはいます。人間はコミュニケーションをとる生き物なので、周りの状況が変わることで、自分も変わるのは当然だと思います。何か一本真ん中に芯になるようなものはあるのかと思いますが、少しずつ場面にあわせて自分を合わせて行くのだと思います。そうすると自分ていったい何なのだろうと思ってしまいます。結局、誰かといるときの自分は、相手の人が自分のことをどう思っているかで決まってしまうような気がします。相手のことを気にし過ぎる必要はないのですが、自分はこういう人間だと決めつけすぎる必要もないように思います。ゆれていていいし、ゆれているのが当たり前の姿なのではないでしょうか。
 自分っていったい何でしょう。自分らしいとはどういうことでしょう。こうやって考えてくると、自分はこういうものだと決めてしまわなくてもいいように思えてきます。その都度、誰と一緒にいるかによって自分は変わってもいいように思います。小説家の平野啓一郎はこういう人間観を「分人」ということばで表しています。「私とは何か」(講談社現代新書)の中でくわしく論じられています。また、「ドーン」や「空白を満たしなさい」(講談社文庫)など小説の中でも大きく取り上げられています。よかったら読んでみてくださいね。自分の中には周りにあわせていろんな自分が存在するのです。あまり無理せずに、自分が生きやすいように、気楽に考えて生きていくのが良さそうですね。そのときどきで言うことが違っていてもいいじゃないですか。二重人格だなんて非難する人がいるかもしれませんが気にしなくていいでしょう。一人の人がいくつもの人格を持っていていいわけです。別の人格になったときの記憶がないとかになると、それはちょっと病的と言えるのかもしれませんが、自分で把握できている範囲なら、その場面ごとで、自分が生きやすいように生きていけばよいのだと思います。
 自分らしく生きるというのは、結局、自分が生きやすいように生きるということではないでしょうか。無理せずに、自然体で、自分を出せればよい。それが相手によって変わったとしてもなんの問題もありません。そして、いくつか持っている「分人」の中で、一人でも自分が大好きな「分人」がいればいいですね。一番心が休まる、一番幸せを感じられる、そういう「分人」を見つけることができると良いなと思います。もし、しんどい「分人」がいるのなら、その「分人」からは逃げ出してもいいのだと思います。まあ、気楽に生きていきましょう。
 人間一人で生きていくのは難しいと思います。かと言って、家族以外であまり強く拘束されるのは嫌ですね。できたら、たくさんの弱いつながりの中で生きていければいいなあと思います。そんなことを次回は考えてみたいと思います。

4 つながって生きる 自立と依存のあいだでウィーク・タイズ


 自分が子どもであるときは、早く親の拘束から自立したいと思うかもしれません。自分が親の立場になって子どもを見ていれば、早く自立してほしいと思うかもしれません。最近はなかなか子離れができなくて、いつまでも自分の手元に子どもを置いておきたいなんて思う親も多いのかもしれませんが。男女の関係でも同じようなことがあるかもしれませんね。いずれにしても、拘束されるのも拘束するのもあまり好ましいことではないですよね。できれば、家族であったとしても、恋人であったとしても、それぞれ一人の人間として自由な生き方が尊重されていると良いなと思います。
 さて、とは言え、人間は一人では生きていけません。ロビンソン・クルーソーだってずっと一人っきりだったわけではありません。自立して生きていくことは大切ですが、必要なときには周りの人の助けを得てもいいわけです。いろいろな人とつながって、コミュニケーションを取りながら人々は生きていきます。僕はどちらかというと強く拘束されるのが苦手で、弱いつながり(ウィーク・タイズ)をいくつか持って生きていけたらいいなと思ってきました。複数のコミュニティに所属できるとそれぞれの「分人」を生きることができて精神のバランスが保てるのではないかとも思います。そこで僕がどんな弱いつながりを持って生きてきたかを紹介してみようと思います。家族とか、友人とか、会社で毎日一緒に過ごす人とか、そういうのを除くということですね。
 学生のころに白虎社という舞踏集団の合宿に参加しました。まあ、驚きの体験でしたね。その関係で、東京で公演があったときなどはお手伝いに行ったりしていました。大学卒業後3年ほどですが東京に住んでいたので。その間に、また別に舞踏家田村哲郎のワークショップにも通いました。裏方をしたり、舞台にも2度ほど立たせてもらったりもしました。舞台間近になると稽古がつまってきて、普通に朝から会社勤めをしていた自分にとってはかなりきつかったですね。でも、舞台後の打ち上げでは、高揚感というのか、達成感というのか、そういう気分を味わうことができました。体育大会とか合唱コンとかといっしょですね。大人になると、そういう機会がなくなるので、ときどきそんなハレ舞台があるのもいいものです。ただ、僕にとっては次第に拘束感が強くなってきて、そのとき勤めていた会社を辞めて京都の実家に戻ることとも重なり、完全に離れてしまいました。その1年後、田村哲郎は病で亡くなりますので、本当に不義理なことをしてしまいました。京都に戻って最初に入ったコミュニティは現代風俗研究会です。当時は鶴見俊輔とか多田道太郎などの重鎮がいました。一番の売れっ子は井上章一さんだったでしょうか。仕事の都合で2ヶ月に1回の定例会にはなかなか参加できなかったのですが、二つのテーマ(不健康と危ない人体)で分科会に参加し、自分の書いたもの(花粉症日誌と暗黒舞踏体験記)を年報にも掲載していただきました。そのつながりで斎藤光さんとも出会い、引き出物が驚きの結婚披露パーティにも参加させてもらいました。これが僕の第6ステージ(25歳~36歳)ですね。
 次に自分の子どもたちが幼稚園に通い出すと、そこでいくつかのつながりができてきます。妻がPTA役員をしたこともあって、そのとき一緒に活動したメンバーとバドミントンのサークルを作りました。僕は平日が休みだったので、その中に入れてもらっていました。週1回午前中に練習をしていました。その後みんなでランチに行ったりして、結構楽しかったのです。ときどきはホームパーティをすることもあり、まあ若かったのもあると思いますが、明け方まで楽しく盛り上がっていました。年に1回は、いつも使っている体育館のある住民センター主催の夏祭りに参加し、ウインナを焼いたり、ジュースを冷やしたりして売っていました。そこで得た利益でシャトルを買いました。これも楽しかったですね。それと、同じ時期、妻は自宅でピアノ教室をしていたので、年に1回発表会をしていました。その準備とか運営とかを手伝うのも楽しかったです。子どもたちと妻の演奏を聴くのも。さらに、地域の市議会議員の方が主宰されていた講演会に参加したのがきっかけで、「子どもの育ちを考える会」というのをいっしょに立ち上げ、何度も集まりました。その中で、僕が最も敬愛する森毅先生を講演会にお招きしました。終了後の懇親会では向かい同士でお話をさせていただきました。忘れられない思い出です。そのときに人生2乗説を初めておうかがいしたのです。これが僕の第7ステージ(36歳~49歳)。
 その後も、市議会議員の方とはつながっており、定年後は、その方が主宰されている自主夜間中学校のお手伝いができたらと思っていましたが、今のところ仕事を細々と続けており、時間がかぶるために行くことができていません。年数回、講演会や懇親会にのみ参加させてもらっています。10年ほど前からは、高校時代の国語の先生がリタイアされた後、文学サロンを始められたので、それに参加するようになりました。これも年に数回ですね。いままでに、「古事記」「枕草子」「更級日記」などの古典から、三島由紀夫や村上春樹などを取り上げられた回に参加することができました。1時間半ほどお話を聞いて、その後は懇親会なのですが、まわりはほとんど知らない人ばかりです。でも、その都度、自己紹介をして、お酒を片手に好きな文学の話などをするのです。いいでしょう。実は、前回も書いた通り僕は内向的な性格のため、そんな簡単に誰とでも打ち解けて話ができるわけではないのですけどね。それでも、たいがい皆良い人ばかりなので、話しかけてくれて、いろいろ聞いてくれるので助かっています。それから、その先生のご自宅で読書会を開催されているので、いままでに「源氏物語」と森鴎外「舞姫」に参加しました。合計すると2年ほどは毎月、四条烏丸の高級マンションを訪れました。「源氏物語」の最終日には皆で着物を着て懐石料理をいただきに行きました。僕は父親が残してくれた着物に初めて袖を通したのでした。ちょっと恥ずかしかったけれど、良い思い出です。このあたりが現在の第8ステージですね(49歳~64歳)。
 さて、皆が皆こういう弱いつながりを欲しているわけではないのかもしれません。実際、妻はこの10年ほど職場と家庭の行き来だけです。仕事が忙しすぎるのですが。もっとも、仕事の中に趣味的要素が入っているからそれで何とかなっているのかもしれません。僕は、どちらかというと、仕事や家庭以外のコミュニティにできるだけ参加したいと思ってきました。本を読んだりドラマを観たりするのもそのときどきで別の自分を生きられるのが良いのですね。普段と違う付き合いの中に身を置くと、いつもとはちょっと違う自分になることができます。日常のケの世界から非日常のハレの世界に行くと気持ちがほぐれます。弱いつながりがいくつもあると、しんどくなったときに、どこかに頼っていくこともできます。自立はしたいし、依存しすぎは良くないけれど、しんどいときは誰かに頼ればいいと思います。頼れる相手がいろいろいるのは良いことです。依存先が多いのは自立への第一歩です(熊谷晋一郎)。塾の先生なんかも、そのうちの一人だと思ってもらえるとうれしいです。
 次回は最近話題のケアについて考えてみます。ケアしたり、されたり、主に家族の話になりそうです。 

5 子として生きる、親として生きる ケアされ、ケアし、またケアされる


 正直言うとケアに関する本はほとんど読んでいません。おもしろそうなものがたくさん出ているのですが、あと一歩手にするには至っていないというところです。ですので、今回は(いや今回もですが)自分の体験をもとに話していきますね。
 ケアには、配慮や世話、気配り、手入れなどという日本語があてられています。医療現場ではキュア(治療)と区別して両方が必要だと言われたりします。僕が主に念頭に置いているのは子育て・教育と介護の現場です。まずは自分が子どもとしてケアされていた時代。小学2年生のとき、スイミングスクールで水着を履いたままトイレで小便をしていたのですが、そのときオナラが出て、同時に固体まで出てしまったのですね(自分ではこれをヘババションベンと呼んでいました)。驚きました。僕は何とかトイレでふきとって、シャワーで洗い流して、プールに入りました。付き添ってくれていた姉にその話をしたら、母親に連絡を取ってくれたようで、母が迎えに来てくれました。僕は母の顔を見た途端、こらえていた涙があふれて止めることが出来ませんでした。情けなかったですね。それから、小学3年生の秋、僕は転校して半年くらいたっていたのですが、はじめて友だちと野球をしました。別のクラスの知らない子が振ったバットが見事に僕のおでこに命中したのです。幸い大して痛くもなかったのですが、その子が謝るわけでもなく、そんなところにいたお前が悪いと言ったのです。僕は悔しかったけれど、その場では何も言えず、家に帰って母の膝の上でその話をして泣きじゃくりました。甘えただったのですね。高校生になると寮生活を始めました。1週間が過ぎて一度帰宅して、その後、母が駅まで見送りに来てくれました。まだ、仲の良い友だちもできておらず、ちょっとホームシックにかかっていたので、このときにも母親の優しさを感じました。もう一つ、以前にも書いたことですが、僕は26歳、新しい職場で働き出したのですが、初めての花粉症も相まって、帰りの電車の中で気分が悪くなり、もうこのまま死ぬのではないかと思い、必死の思いでタクシーに乗って病院に行き、点滴を打ってもらって落ち着きました。母親に連絡をして、健康保険証(このころはまだカードでもなく持ち歩いていなかった)を持ってきてもらいました。帰り道に優しいことばをかけられて、母親のありがたみを感じました。それからもう一つ、結婚をしてしばらくしてから、もう30歳を越えていましたが、姉の家に皆集まっていました。お酒を飲んで僕は横になって半分寝ていました。そのとき母が、どういう文脈だったかは分からないのですが、妻に向かって「この子もええとこがあるんえ」と言っていました。いくつになっても子どものことをかばってくれているのでした。こいつマザコンか、と思われている方がいるかもしれませんが、僕が受けたケアを思い出すと、こんなエピソードが出てきたのです。父から受けた思い出は、一つありました。寮生活をしていた高校生のころ、僕はサッカーの試合で左鎖骨を骨折しました。お風呂にも入れなかったのでいったん帰宅し、自宅から通いました。その間、3ヶ月近く朝だけ車で送ってもらっていました。1時間ちょっとの車中、どんな会話をしていたのか全く思い出せません。そう、そのとき母親にはずっと頭を洗ってもらっていました。これは本当のケアですね。もちろん、食事や洗濯などいろいろな面で世話になっているのですが、子どもにとってどれくらいのことが親から受けるケアとして印象に残るのでしょうかね。
 自分が父親として自分の子どもに対してやってきたケアというのがどういうものかイメージしようとするのですが、受けてきたケアと比べて何も思い浮かびません。ケアする側は、特にケアをしようと思ってしているわけではないのかもしれません。ケアされる側はありがたいわけですからやはり印象に残るのでしょうね。よくありますね、この記憶の非対称性というのが。お金を貸した側は覚えていないけれど、借りた側はずっと覚えていたとか、その逆とか、いじめた側はすっかり忘れているけれど、いじめられた側はずっと覚え続けているとか。ケアにもそういう面があるような気がします。ケアというのは利他的な行いなのでしょうね。利他的な行為というのはやった本人は覚えていなくて、ふとあるとき感謝されていることを知って思い出すというようなところがあります。「情けは人の為ならず」の「情け」は、実は自分のためでもあると思った瞬間に利他的ではなくなるのですね。
 さて、介護については、結局自分は大したことをしないまま、両親を亡くしてしまいました。父は、亡くなる2年半ほど前から次第に何もやる気が起こらなくなり、さらには食事中座っていても転ぶなどということが多くなったため、入院しました。レビー小体病と診断されました。病室のカーテンにうごめく虫なども見えていたようです。月に1,2回は見舞いに行くようにしていました。好きだったクラシック音楽を聴けるようにとヘッドホンとCDプレーヤーとベートーベンのCDを持って行きましたが、要らないと言われてしまいました。実家では年老いた母親が一人暮らしをしているので、そちらにもなるべく足を運ぶようにはしていました。けれどほとんど姉夫妻に頼り切っていたという感じです。食料品の買い出しなどのために、毎週実家を訪れてくれていたようです。その後、母親は腰が痛いなどと言って病院に運ばれ、原因もよく分からないまま2ヶ月ほど入院して亡くなりました。その2週間後に父もあとを追うようにして逝ってしまいました。結局、僕は何の恩返しもできなかったということですね。仕方ないので、実家じまいだけは僕の方で手を尽くしました。その後の法事とか、お墓の世話は自分でしています。これは当たり前のことなのでしょうが。でも、両親にはその様子は見てもらえないのですね。亡くなってからですからね。でも、きっとそれでいいのだろうと思います。ケアというのは感謝されるためにするわけではないのですから。それは利他的な行いなわけです。とは言え、感謝されるとうれしいわけで、ことばにできることは、相手が生きている間にことばにしておいた方がいいですね。
 僕は両親から受けたケアを、自分の子どもたちにしているのだと思っています。自分が受けた恩は、次の世代に恩送りして行けばいいのだと考えています。そして、自分がいま、自分の親に対して感じている感謝の気持ちを、きっと自分の子どもたちも、僕が亡くなった後で感じてくれることだろうと思って慰めにしています。
 ただここで、夜寝ないで下の世話をしたりするという立場に自分が置かれたらどうだろうかと考えてしまいます。義母が義父に対して半年近くそういう状態に置かれていました。見ていて本当に気の毒なくらいでした。しかし、義母の義父に対するきつい言葉などを聞いたりすると、もうどちらにとっても良くない状態と思えました。結局、介護度が上がった義父は入院が決まり、しかしその後どんどんやせ細り、1月ほどで亡くなってしまいました。介護というのは難しい問題です。でも、きっと順送りで、次は義母の、そして、妻のあるいは自分のということなのでしょう。使える制度はどんどん使って、最期の日まで楽しく生きたいものですね。
 次回は仕事に生きる人生について。僕も承認欲求の塊です。きっとそんな話も。

6 仕事に生きる 他者から承認されること


 僕はどちらかというと仕事人間ではありませんでした。かと言って、仕事とプライベートを完全に分けるということもありませんでした。職場が近いときは休みの日にも出て行って働くこともあったし、落ち着いてやりたい仕事は持ち帰ってやっていました。ただ、ずっと仕事だけの人生というのは僕にはしんどいので、趣味で何らか他のコミュニティに所属することも多かったと思います。
 今回は、仕事のことを中心にお話していきますね。僕は、大学を卒業すると、東京神田にあった理科系専門書の出版社に勤務するようになりました。本が大好きだったし、あらゆる分野のサイエンスにも興味があったので僕にとっては幸せな職業選択だったと思います。そこで、3年間、僕は社会人としての常識をいろいろと身につけて行きました。しかし小さな会社だったため、ちょっと青二才で生意気だった僕は、社長との折り合いがつかなくなっていきました。退職後、僕は仕事も決まらないまま、京都の実家にもどって来ました。
 もともと僕は理論物理学の研究者になりたかったのですが、大学1年生のとき解析学のテストで0点を取って、物理の道に進むのはあきらめました。その後は科学の歴史の勉強をするために、理学部に在籍していながら文学部の校舎の方に入り浸っていました。大学院も科学思想史専門で受験しましたが失敗し、雑誌の奥付にあった編集者募集の記事を目にして出版社勤務をすることになりました。僕には高校で物理の先生をするという夢もありました。京都に戻って母校をたずねたりしましたがすぐには見つからず、1ヶ月ほどフラフラしていました。次第に自分でも不安になって、雑誌の募集記事を見て進学塾で理系教科の指導をする仕事につきました。その後、大学時代の恩師の紹介もあって京都の出版社に転職したのですが、初めての花粉症も相まって心身ともに疲れ果て、元の進学塾にもどしてもらいました。本当は高校の先生が希望だったのですが、小学生の相手をするのが実に楽しかったのです。僕も中学受験の経験があったので、そのころのことも思い出しながら指導にあたって行きました。京都のいろいろな中学校の最新の入試問題をコピーして家に持ち帰り、単元ごとに切り貼りしてオリジナルでプリントを作ったりしました。洛星中と同志社中はそれぞれ10年分をコピーして同じようにプリントにしました。実に楽しかったですね。そのプリントを使って僕の授業に付加価値をつけて行きました。授業外の補習などもよくしていました。この仕事はすぐに生徒や保護者からフィードバックがあるのでやりがいがありますね。手をかければかけるほど成績は上がるし感謝もされます。そして第一志望校への合格を果たせば、その結果だけで十分にうれしいわけですが、さらに感謝の言葉や品物をいただいたりすると、自分を認めてもらえたようで本当にこの仕事をやっていて良かったと思えるわけです。いろいろもらいましたね。いやものが欲しいというわけではなく、手紙をいただくのもものすごくうれしいのですが、ものはずっと残るので。手袋やマフラーをいただいたこともありました。もうかなり古くなっていまは身につけていませんが。ボールペンとかシャーペンとかもたくさんいただきました。自分の小遣いで買ってくれた子もいてうれしかったですね。コーヒーとコーヒーカップとか紅茶とティーカップとかのセットをいただいたこともありました。それは今も現役で使わせていただいています。正直言うと、誰からもらったのか思い出せないものもあります。ごめんなさい。でも、たくさんの出会いがあったこと、たくさんの感謝の気持ちをいただいたことはよくよく覚えております。
 もちろんうまく行くケースばかりではないです。かなり厳しいお言葉を頂いたこともあります。まあ、これは僕の性格かもしれませんが、良い思い出しか残っていないですね。よっぽど印象の悪かった人のことは今でも覚えていますが。かなりの手紙攻めにあったこともありました。いろいろなご要望を手紙にしていただくのですが、それが毎週のように届きます。まあ子どものことを心配してのことなので、いつかその子が大人になったとき会うことがあればと思ってまとめて取っているものもあります。仲の良かったクラスなどは色紙を作ってくれたこともあります。いまもそういった思い出の品々が僕の書斎(書庫)に雑然と積み上げられています。いつか整理しないといけないのですが。 
 学校の先生などと同じで、直接に子どもたちの成長に関わる仕事をしてきたので、たくさんの感謝の気持ちを受け取ることが出来ました。そんな仕事に就けたことは本当に幸せだったと思っています。仕事によってはなかなかそういう気分を味わえない人もいるでしょうね。自分が誰かの役に立てていると思えればいいのですが、顧客と直接に接することのない仕事などの場合はなかなか難しいでしょうね。会社の内部の仕事をしている人などは、自分たちの顧客は同じ会社の従業員だと考えたりするようですね。そうして、ときどきでも感謝の気持ちを言葉にしてもらえる、そして自分の存在を認めてもらえるのがうれしいのでしょうね。
 仕事の話とはずれてしまうのですが、最近よく言われる承認欲求というものについて、SNS上のことを少し考えてみますね。僕はFacebookを最初使っていましたが、高校の同級生たちとやたらとつながってしまい、何か書くたびに反応があって、かえってしんどくなって書き込みを止めてしまいました。いまはTwitter(X)の方が気軽で、知り合いにあまりフォローされていないこともあって、読んだ本、観たドラマや映画の感想、新聞記事で感じたことなど適当に書いています。みんなすごく気楽に「いいね」しているとは思うのですが、それでも♡のマークが出ているとドーパミンが出ますよね。一番うれしいのは著者自らが僕の感想を読んでリアクションしてくれることです。これ「いいね」だけではダメで、リツイート(リポスト)がないといけないのです。結局、大勢の人に自分を見てもらえるのがうれしいのですね。そして、そういう気分をまた味わいたくて、同じような行いが強化されていくのですね。それが良いものであればいいのですが、悪い方向に強化されると困ります。SNSの「いいね」くらいならかわいいものですが、何らかの衝動を抑えることが出来なくなり、犯罪行為に走るようなことは避けなければなりません。そうでないと人生台無しですものね。依存症についてもいろいろと考えてみたいところですが、話が離れすぎるし、紙幅もないのでやめておきます。
 ずいぶん前に読んだ本の中ですが、姜尚中さんが、何のために働くかというとそれはアテンションを得るためであると書かれていました。自分の存在に気付いてもらうというようなことでしょうか。いくら山奥で一人で自給自足の生活をしていても、どこかで何らかの形で人とは関わることでしょう。そういうときに、自分の行いが相手に何かの影響を与えるはずです。自分がそこにいて、何かの作用をしているということを、まわりの人に気付いてもらえる、それが働くということの意味なのでしょうね。そしてその自分の仕事が周りの人に何らかの良い影響を与えて喜んでもらえる、さらには感謝の気持ちを表してもらえる、そうなれば良いですね。
 次回は気楽に自分の趣味について書いてみますね。でも、実は実存の危機に瀕していたのです。

7 趣味に生きる もう一つの人生


 前回は仕事についての話をしました。僕はすでに定年退職をしており、いまは週20時間以内で働いているので、かなり自由にできる時間が増えています。もっとも、家事をする時間は増えているので、仕事をしなくなった時間すべてを趣味につぎ込めるというわけではないのですが。それでも、正職員で働いていたころは週1冊くらいのペースで本を読んでいましたが、いまはその3倍くらいの量を読んでいます。そう、僕の一番の趣味は読書です。ただ本を置く場所の問題があるので、最近は月10冊くらい図書館で借りています。新刊で興味のある本があれば気軽にリクエストをして。ということで、購入する本の数としては少し減っているかもしれません。ごめんなさい、書店の皆様。でもなんとか図書館で買っていただいて売上げにいくらかでも貢献できればと思っています。
 さて、これはあちこちで何度も書いてきた話ですが、僕が本格的に本を読み始めたのは高校生のころのことです。児童文学の類ももっと読んでおきたかったのですが、小さいころに本を読んだ記憶はほとんどありません。中学生で星新一などの短編SFを、高校生になると物理学者の伝記などを読み始めました。あるとき、倫理の先生(庭田茂吉、当時同志社大学院生)が「同じ著者の本をすべて読むと、その人の世界が広がっておもしろいよ」という話をされました。僕は早速書店で読めそうな冊数の作家を探しました。そこで選んだのが安部公房でした。受験間近の高校3年生でしたが、往復の通学時間中に当時文庫になっていた20冊ほどをすべて読みました。その後、毎日本のある生活が始まります。もう一つのきっかけは、同級生が貸してくれた森毅「数学受験術指南」という本です。これはもうおもしろすぎて、その友だちと二人で大学の授業をもぐりで聞きに行ったほどです。学生がまばらで結局教室には入れませんでしたが。その後、森毅の本は出るたびに買って読んでいました。大学の合格祝いに朝永振一郎著作集を買ってもらい、自宅に置いたままのその本を、帰省のたびに一生懸命読んだ覚えがあります。大学では毎日生協の書店に通いました。文庫本のまとめ買いで割引があったりしたので、村上春樹や村上龍、橋本治などを読みました。その後、村上春樹の作品は文庫になればすべて買って読んでいます。村上春樹の影響でカズオ・イシグロも読むようになりました。30歳くらいからはいわゆる文豪の作品も読むようになり、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、ドストエフスキー、カフカなどを読んできました。庭田先生の影響を引きずって偏った読書が続いています。そのことをいまでも大変感謝しています。定年後は時間ができたのでこの半年ほどで平野啓一郎と村田紗耶香をほぼ全作品読んでしまいました。図書館で借りるので、気軽に好きなだけ読めてしまいます。「世界99」は残念ながらまだ順番が回って来ません。(2025年12月現在)
 読書も大好きですが、それに劣らず本屋さんも大好きです。以前ほどは通わなくなってしまいましたが、あちこち新しくできた書店などものぞきに行っています。御所西のこもれび書店とか、京都駅南の鴨葱書店、河原町丸太町の誠光社、宇治HONBAKO、ならまちのふうせんかずら、などなど。何度も足を運んでいるわけではありませんが、新しくできた印象深い本屋さんです。京都一乗寺界隈の書店はまだ訪れていないのですが、恵文社一乗寺店は前に一度見に行って、買いたい本がありすぎて困りました。それから奈良の豊住書店は江戸時代からの老舗でいまは古書店として再出発されていますが、偶然立ち寄って岩波の本をすべて半額で売っていただけました。残念なのは、四条烏丸にあったくまざわ書店が無くなったことです。だいたい欲しい新刊本を見つけることが出来る書店だったのですが。
 読書以外にも舞台を観に行くのが大好きでした。東京に住んでいたころは毎週末マチネ・ソワレと小劇場のはしごをしたり、当日券を買うために2時間並んだり、そういうのも楽しかったものです。僕が若いころはちょうど小劇場ブームで、夢の遊民者を始め、学生演劇から始められたお芝居などをよく見に行きました。日本女子大のメンバーで作られた自転車キンクリートが大好きで、「嘘はつかないでね、言いたくないことがあれば言わなくてもいいけど、嘘はつかないでね」(ほどける呼吸、池袋ル・ピリエにて)というセリフがいまでも頭に残っています。これは前にも書きましたが、暗黒舞踏は舞台を観て、ワークショップに参加して、裏方をして、舞台にも2回立たせてもらいました。良い経験です。結婚をして、子育てをするようになって、ずっと舞台は見に行っていなかったのですが、最近はまたときどき野田マップの公演など見つけていくようにしています。それから、落語を聞きに行ったりもしました。まだ行けてないのですが、歌舞伎とか能とか浄瑠璃とかも見てみたいです。狂言は中3生が出るというので一度だけ観に行きました(千本ゑんま堂)。寒かったなあ。
 あとは、クラシックのコンサートなどもときどきですが足を運びます。もっぱら亡くなった父が残してくれたLPレコードを聴いたり、妻や自分が買ったCDを聴いたりしていますが。吹奏楽の演奏も好きで近くでやっていれば聴きに行きもします。宇治中がマーチングの全国大会に出るというので大阪城ホールに聴きに行ったこともあります。妻が吹奏楽部の顧問をしていたりするので行ける年は京都コンサートホールへコンクールを聴きに行きます。やはり生で聴くのは感じ方が全然違いますね。耳だけではなくて全身で受けとめるからでしょうかね。
 好きな音楽を聴いたり、ときどき舞台を観たり、たくさんの本を読んだりしてはいるのですが、なんだか物足りなさを感じています。本を読むとすぐその感想を書いたり、他の人の感想を読んだりしてはいるのですが、なかなかその内容について話す相手がいません。実はこれはぜいたくな悩みと言われるのかもしれませんが、時間はたっぷりあるし、さしずめ生活費に困ることもない、本をたくさん読んでいるけれど、そのとき感じたことを誰とも共有できない、SNSだけでは物足りない、責任のある仕事を外れてしまうと、自分を頼ってくれる人も減ってしまう、感謝されることも無くなる、ということで、まあまあ実存の危機に瀕していたわけです。それが、最近はゆるい読書会に参加するようになって若干改善されているというのが現状です。京田辺でtauko(フィンランド語でひとやすみ)booksさんがオープンされたのをきっかけに読書会がスタートしています。月1回何を持って行って読もうか、何をみなさんに紹介しようかと考えてわくわくしています。
 つまり人間は働いてお金を稼いで食べて行ければいいというわけではないのです。子育てがあったり、介護があったり、住宅ローンが残っていたり、日々のノルマがあったり、クレームの嵐があったり、いろいろと思い悩むことがあると、あっという間に日が過ぎて行きます。腰が痛くても、歯が痛くなるとその腰の痛みに気付けなくなることがありますが、別にそれは腰が治ったわけではないですよね。でもまあ、それは日にち薬でしか治らないのかもしれません。生活の満足だけでなく、人生にも満足できるような生き方をしたいものですね。  
 次回は愛に生きる。恋愛もあれば親子愛もある。もっと高次の愛もあるでしょう。いろいろ考えてみましょう。

8 愛に生きる 恋と愛、無償の愛、利他的な愛


 愛について語ることなんて僕には荷が重すぎます。そんな大した恋愛経験もありません。それでもちょっと思い出しながら書いてみたいと思います。愛と言っても、それは恋愛だけを意味するわけではありません。親の子に対する愛などもあるわけです。神の愛まで話を広げすぎるのは止めるとしても。
 人を好きになるということくらいだと、10歳代のころならクラスが変わるたびに好きな子ができたりしていました。恋心というようなものでしょうか。この恋と愛は似ているようでずいぶん違うようでもあります。恋というのは、恋に落ちるということもあるように、何かが向こうからやってくるような印象です。たまたま隣の席になって、優しいことばをかけられたから好きになった、なんていうことはないですか。僕は20歳代のころ、身につけていたネクタイをほめられて、それが自分のことをほめられているような気がして、この子は自分のことが好きなのではないかと勘違いをして、のめり込んでいったことがあります。朝、会社までの道で出会ったりすると、一日中幸せな気分になれました。結局、相手にはちゃんと彼氏がいたのですけれどね。またあるとき、ちょっと気になる女性の誕生日にバレッタをプレゼントしました。なかなか髪につけて来てくれなかったのですが、たまたま僕が休みの日に用事があって会社に行くと、女性はバレッタを髪につけていました。僕は、もうそれで完全にOKしてもらったと思い込みました。それで、食事に誘い、ほろ酔い気分になったところで告白しました。年齢も年齢だったので結婚を前提にしたお付き合いをお願いしました。でも、やはり当時の彼女には他に好きな男性がいました。今回も勘違いだったのです。たいがい恋愛はこういう勘違いから始まるような気がします。しかし、僕の中ではもうかなり思いは大きくなっていたため収まりがつきません。クリスマスにもプレゼントをしました。もう少し高価なペンダントです。こんなもの受け取れませんと返されましたが、何度もやりとりする中で無理矢理に渡してしまいました。その後も何度か食事をしたり、一人暮らしだった彼女が体調を崩したときなどに優しく接したりすることで、少しずつ僕の方を向いてくれるようになりました。遠くの親戚より近くの他人ではないですが、離れたところに住むあこがれの男より、近くで繰り返し求愛される男の方を選んでくれたのでしょうか。それがいまの妻です。最初は一方的に恋に落ちるというところから始まって、次第に相手もこちらを向いてくれるようになると、自分のこと以上に相手を思う気持ちが強くなってきます。それが愛というものでしょうか。もっとも、「愛している」ということばをささやいたとしても、結婚当初は本当の愛をまだ感じてはいなかったのかもしれません。少しずつ、お互いの存在がかけがえのないものになるにしたがって、愛が育まれていったと言えるのかもしれません。
 結婚から2年半ほどして、長男が生まれました。本当にかわいかったですね。その2年後に長女も生まれています。相手は弱い存在ですから、最初からこちらが愛情を注いで守っていかなければいけません。いや、それはいけないというようなものではなく、自然と愛する気持ちが湧いてくるような感じでしょうか。何の見返りも期待していないわけです。自分よりも大切な存在です。いざというときには自分の命を懸けてでも守りたい存在です。こういう気持ちはどこから生まれてくるのでしょうね。抱っこしたときの温かさ、にこっと微笑む姿。そういうものに触れることで発生するオキシトシンという愛情ホルモンのおかげでしょうか。ただ、いろいろなニュースを見るにつけ、こういうことは誰にでも起こることというわけではなさそうです。だからこそ悲劇はおきています。子どもへの愛情は、全ての親が持っていると思いたいところですが、そういうわけではないのでしょうね。実の親でなくとも、誰かが愛情を注いで育ててくれると良いのですが。
 さて、ここまで僕は意識することなく、自分から誰かに対する愛について書いてきました。自分が誰かを愛するという気持ちをもつことは生きている上でとても大切なことだと思いますが、もちろん愛されてもいたいわけです。以前にも書きましたが、自分の母親からは何度も愛されているなあという思いを抱くことはありました。しかし、父からは特にそういう印象はありません。愛情表現が苦手なだけというのもあるでしょう。それは仕方ないのでしょうね。おそらく自分の子どもたちも、僕が注いできた愛情をそれほど感じてはいないことでしょう。この非対称性も辛いことではあるのですが、親子の間のことであれば仕方ないのでしょう。子どもたちは、また自分の子どもに対して愛情を注いでくれればいいのでしょう。愛の連鎖です。こうやって書いていると、あることに気付きました。それは、愛は贈与であるということです。見返りを期待しない、無償の愛です。贈り物をされると人は借りができたという印象を持ち、お返しをしようとするかもしれません。でもそれが、強い存在から弱い存在へ、年長のものから年少のものへ注がれる愛ならば、返礼の義務はないわけです。一方的な愛でいい。愛する側は、自分に対する何かの見返りを一切期待してはいない。利他的な行為であるわけです。と、ここまで書いてきて、今度は、では対等な相手との愛はどうなのかということが気になり始めます。
 ということで、最後に、僕と妻との間の最近の愛情関係について考えてみます。もちろん、もう結婚して30年が経ちます。結婚当初と同じような恋愛感情はなくなります。もともとは僕から妻への一方的な愛情から始まっています。しかしそれが、次第に双方向的になってきました。僕も十分に愛情を感じた時期もあります。しかし、次第に相手からの愛情は感じられなくなってきました。一方、僕の方はずっと愛情を持ち続けていると思っています。もっとも、気を遣って相手が嫌がることは言わないようにするとか、そういう配慮が無くなってきたように感じます。長年連れ添ったパートナーだからこそ平気で何でも言い合えるようになったのだと良い方に考えることもできますが、そのことで双方を相当に傷つけることもあります。僕の愛情も目減りしていると言えるのかも知れません。実は妻には、僕に対して、愛情ではなくいまは友情のようだと言われています。それぞれにいま友だちと呼べる存在がいるかと尋ね合うと、もちろん昔の友だちはいるし、ときどきは会うこともあるが、いつも会って何でも相談できる相手というのは、我々二人しかいないのではないかという結論に達しています。僕にはまだ、仕事以外の弱いつながりがありますが、妻は職場と家庭の往復だけの生活ですから、友だちとして僕と日々接することになります。友情と愛情はもちろん違いますよね。妻に「あなたは私の一番の友だちですよ」と言われて、僕は満足していていいのでしょうか。これは僕にとっては人生に関わる一大事です。実存的な問題と言ってもいいでしょう。悩ましいです。「愛されるより愛していたい」というような歌詞が百恵ちゃんの歌にもあったように思いますが、やはり愛されてもいたいですね。
 なお、ここでは、小中学生を念頭に置いて書いているため、性愛については一切触れていません。もちろん、年齢的なこともあります。ということで、次回は、病や老いについて考えてみます。

9 病と生きる、老いて生きる 病未満の生きづらさ


 幸いなことに僕自身はいままで大病を患ったことはありません。しかし、性格的にいろいろと生きづらいことはありました。そして、いま定年退職後の人生を歩んでいますが、何もかも気楽でのんびり生きているというわけでもありません。また、両親の老い、病、死を見て来て感じたこともあります。そんな話をしてみようかと思います。
 僕が出会った生徒や妻から聞く生徒の話の中には、生きづらい人生なのだろうなと思えることがちょくちょくあります。村田紗耶香の小説を読んでいてもそう感じることがあります。お恥ずかしい限りですが、僕自身の体験を少し書いておきます。中3のときにものすごくトイレを我慢したことがあって、それがきっかけだったと思っているのですが、それ以降とてもトイレが近くなりました。休み時間になるとトイレに行って、それでも授業中にトイレに行きたくなることもあって、別に楽しく過ごしているときは忘れているのですが、ひとたびトイレのことが気になり出すと行きたくて仕方なくなるのです。これは小便の話ですが、おなかの調子もいい方とは言えず、ちょっと緊張でもすればすぐゆるくなるので、何度もトイレに足を運ぶことになります。トイレに行けない状態が続くと思うと行きたくなるのですね。大学の90分講義とか大変でした。長時間の会議とかバスとかも。高速道路での渋滞とかは本当に恐怖でしかありません。映画とか芝居とかコンサートとか、そういうものも行きたいけれど不安。だからなかなか女性をデートに誘うこともできなかったのですね。もっとも、食事に行くとかは全然平気で、アルコールが入るとだいたいトイレの回数は増えますが、でも飲食店には必ずトイレがありますしね。歳を取ってから夜中にトイレに行くことが多くなったり、我慢できずにちょっともれたり、というのは膀胱などの問題があるのだと思いますが、若いころからのことについては器質的な問題ではなく、精神的な部分が大きかったのだと思います。ということで哲学者になるのですね。いろいろと考えてしまうわけです。気持ちの持ちようでずいぶんと変化があるわけですから。哲学者の苫野一徳さんがそんなことを書いていたりします。基本的には、「案ずるより産むが易し」で、大丈夫な経験が増えていくと自信が持てるようになっていきます。歳をとると次第に図々しくもなっていくので。会議中に出て行くこととかも気にならなくなってくると何ともなくなります。でもまあ、随分といろいろな場面で生きづらかったなあと振り返って思います。しかしそのためにか、いつでもものすごく慎重で、集合時刻よりも必ず早めに行っておくとか、何かと先回りをして準備しておくとかいうことが多かったです。そういうのは決して悪いことではなかったと思っています。
 これから自分や妻なども大病を患うことがあるかもしれません。健康には気を配りたいものですが、とは言えそうなったらそのときに考えるしかないですね。だいたい地震がいつ来るかも分からないですしね。僕の両親のことを言っておくと、まずは義父が60歳代で胃癌になり、それでも手術でほとんどを切り取って、食事がつらそうな時期もありましたが、そこから20年以上生き続けました。その後、前立腺癌や認知症もあってちょうど1年前に亡くなりました。妻は意識して癌の検診に行くようにしています。実の父は、70歳まで大工をしていて、その後は趣味で寺院の大きな模型を年に1つのペースで85歳くらいまで作っていました。ところが、突然やる気をなくしてしまい、最後の作品は完成させることもできませんでした。そのうち、家の中で転ぶことが増え、最後には食事中座っていても後ろにひっくり返るということが多くなったため入院しました。医師にはレビー小体病だと告げられました。パーキンソン病に似た症状や幻視などがありました。2年ほど入院して次第に意識が薄れていくようでした。母はしばらく一人暮らしをしていましたが、腎機能が急激に低下するなどの理由で入院、2ヶ月でなくなりました。父は母の死を告げられて涙を浮かべていましたが、その2週間後に亡くなっています。二人とも90歳になる手前のことでした。
 僕は60歳で定年退職を迎え、その後は非常勤で働きながら趣味(主に読書)に生きています。これは先々月に詳述しました。それで、いま幸せかと言うと、実はそうとも言えないのです。毎日のように悩んでいます。働くということはいろいろなストレスを抱えることになります。顧客からの要望に応えられるか、会社からの責任を全うできているか、部下からの押し上げはないか、まあ、いろいろと思い悩むことがあります。しかし同時に、顧客から感謝のことばを頂くこともあります。業績がよければ会社からご褒美をいただくこともあります。自分が誰かの役に立っていると思えるのは生きがいにつながっていきます。働くのを辞めるというのは、その両方を失うということです。ストレスも無くなるけれど、やりがいも失われます。ボランティアなどで誰かの役に立つような行いをすればよいのかもしれません。それでも、まだしばらくは収入も欲しい。週に2,3回だけで短時間仕事に行っても、そのときは楽しく過ごせるのですが、なかなか頼って来てもらう機会がありません。担任という役割があったからこそ皆さん相談をして下さったのですが、そうでなくなると全然声をかけていただけなくなりました。その場にいる時間も短いわけですし。それは実はとてもつらいことなのです。先日、手が空いているのが僕しかいなくて、僕に話しかけてくださったお母様がいらしたのですが、とても嬉しく思いました。まあ、いままで良い仕事をさせてもらっていたのだということにあらためて気づいている今日この頃です。
 生きていくのに困っているわけでも何でもないので、こんなのは贅沢な悩みと言えるのかもしれないのですが、僕のこれからの人生に関わる問題なのですね。実存の危機というわけです。年度も変わるので、どういう働き方をしていくか、早いうちに決めて行かないといけません。さらには義母が84歳でいま離れたところで一人暮らしをしています。同居ができる方法を考えるのか、母はいまいるところから離れたくはないだろうし、近所の人や親戚とのつながりも深いので何とかなるのかもしれないですが、いざというときのために考えておかなければいけません。妻か僕が病気になることもあるでしょう。同級生の家族などから年賀状の返事で昨年亡くなりましたなどと連絡が入ることも増えてきました。いつ何があるか分からないのだから、いまを楽しく生きることを考えるべきだろうと思います。自分ではどうしようもないことに思い悩んでいても仕方がないことですし。しかし、少しでも元気で生きられるように、今日もエスカレーターには乗らずに階段を上り下りしています。スクワット30回を朝晩毎日こなしています。できることを細々とでも続けて行ければと思っています。
 僕の両親は亡くなってちょうど7年になります。義父がちょうど1年。でも、わりと頻繁に話題に挙がります。亡くなってもまだ僕たちの記憶の中では生き続けているということですね。僕の子どもたちはどうでしょうか。僕がいなくなっても、しばらく誰かの記憶の中に残ってくれていると嬉しいなと思います。
 次回は、男と女の問題について考えてみます。ジェンダーというやつですね。

10 女として生きる、男として生きる


 僕は生物学的には男として生まれ、男として生きてきましたし、自分も男であると認識しています。それでも僕は、男ばかりの中にいるより、女の人たちの中にいる方が気は楽です。他でも書いたことがありますが、僕は、男の人たちの会話によく出てくる、自動車やバイクの話、新しい電化製品の話、スポーツの話、ラーメン屋とか焼き肉屋とかの話には全く興味がないのです。女性の中で子育ての話とか子どもの進学の話とかが出ていると、すぐそちらに入っていきたくなります。まあ、他人のうわさ話とか悪口には辟易しますが。
 結婚したら、男は外で稼いで、女は家を守るとか、そういうことも考えたことがありません。だから、妻の実家に結婚の挨拶に行ったときも、「○○さんを幸せにします」とは決して言いませんでした。「○○さんと幸せな家庭を築きます」という言い方をしました。男は強くて女は弱い、だから男は女を守る、というような言い方はちょっと傲慢なような気がします。生物学的にいくぶん正しいところがあったとしても。僕には出世欲というようなものも全くありませんでした。人に褒めてもらえたり、感謝されたりするのはうれしいから、頑張りどころでは頑張りますが、誰かの上に立とうなんていう思いは一切ありませんでした。できれば、誰にも管理されずに、誰を管理することもなく、気軽に生きて行ければいいなというくらいに思ってきました。幸い、あなたは男だからしっかり稼いで家族を守らないと、などと言う人間は僕の周りには居ませんでした。だから、僕は男として長年生きてきましたが、男であることをそれほど辛いと思うことはありませんでした。それでも、女だったらもう少し楽に生きられたかなと思うこともありました。しかし、どうやらそれは勘違いのようでした。どうも、最近いろいろと本を読む中で、女として生まれて、女として生きていくことは相当大変なことのようなのです。女の人たちが皆そう思っているのかどうかは分かりませんが。
 女性に参政権が与えられたのは、男性よりもずいぶん後のことですよね。そのことを見るだけでも、相当女性は虐げられていたと言えると思います。まあ、戦争に行く義務がないから政治にも参加させないのだ、という理屈ならば、僕は女性でありたかったと思いますけれどね。戦争は嫌ですから。今はずいぶん変わってきましたが、職種によって男性・女性の区別が結構ありました。電車の車掌さんに女性が登場したのはいつのことでしたでしょうか。最近は運転士にもずいぶん見かけます。大型のバスやトラックにも女性の運転手はいますね。逆に、保育士とか看護師にも男性がちょくちょく出てきています。それぞれの適性に応じて、それぞれが仕事に就けばいいですよね。そういう点では、もっともっと自由になっていくと良いなと思います。
 一方、生物として、子どもを産むことが出来るのは女性だけです。一生の半分近くの期間、毎月、月経というたぶん面倒なものを抱えることになります。10人くらい子どもを産む女性はその期間がだいぶん減りますが。その点を考えると、正直、男で助かったと思えなくもないです。男女の非対称な部分ですね。そこで、小説の中では、男性にも人工子宮をつけて出産をさせたり、ある一定期間、男性にも月経を経験させる仕組みができたりしています。フィクションですよ。でも、女性作家がそういうことを思いつくのは分かるような気がします。
 さて、家庭の中での男女の役割分担についても考えていきましょう。僕自身の考えを先に言うと、これは職業と同じで、自由に選べばいいし、適材適所で、得意な方が得意なことをすればいいと思っています。しかし、一般的には、どうやらまだまだそんなふうに思う人は多くないようです。つまり、家事・育児・介護は基本的に女性の仕事であると考える人が未だに居そうだということです。政治家にも多いのではないでしょうか。こういうものを家庭の中に押し込んでおく方が国家としては安上がりで行けるのですね。高校の授業料無償化とか言っていますが、医療費とか、教育費、介護の費用などすべてタダで良いと思いますけどね。すみません、話がそれました。とにかく女性を家庭に留めて、そういうことをすべて無償でやってもらえると国家予算は抑えられるわけですよね。でもそういうことで言えば、別に男性が家にいて、女性が外で働いてもいいわけです。実際に今の我が家はそういうことになって来ています。最近は、主夫です、と名乗る人も多くなってきました。まあ、家庭の中の日々のことについては、できる人がすればいいと思います。かかる費用が減って来れば、外で働いてたくさん稼ぐ必要もなくなります。だいたい日本人は働き過ぎですよね。
 それから、女性が家事・育児をすると考えている人々の中には、未だに味噌汁は出汁からとって作るとかこだわる人がいるようです。本当かな。ドラマの中だけの話だと良いのですが。出汁入りの味噌とか美味しいもの、便利なものがいっぱいできています。どんどん楽できることは楽をしたらいいと思います。電気洗濯機に、電気掃除機、電気冷蔵庫、電子レンジ、電磁調理器、食洗機、便利なものがいっぱいできているのに、どうしてこうも忙しいのでしょうね。時間がない人が多いのでしょう。そうでもないのですかね。スマホ見ている時間を考えれば、暇な時間は増えているのでしょうか。
 僕は、いま仕事に行く時間がずいぶん減ったので、家のことをほとんどやっていますが、料理は妻の方が得意なので任せることが多くなります。フルで働いているときも、妻の方が忙しければ、たいがいの家事は僕がしていました。僕の実家は高度経済成長期の家でしたから、母は専業主婦で内職程度、父が基本的に稼いでいました。肉体労働だったこともあり、帰って来てから家事をしている姿を見ることはありませんでした。年末の大掃除だけは父が中心にやっていたと思います。妻の実家は、共働き家庭でしたので、義父が洗濯物を干したり、掃除機をかけたりする姿をよく目にしました。それを真似たというわけではないのですが、僕もだいたいそういう姿勢でした。どうして僕がそうなったのかは不明です。日曜大工とかは苦手ですし、だいたい車の運転をしません。力は強い方ではありませんが、買い物のとき荷物運びくらいは頑張ってしています。
 さて、ここでちょっと心配なのは、もし娘が結婚して、相手の男性が家事・育児は女がするものとか、料理も昔ながらのものが良いなどと考える人物だったら、自分の父親とのギャップに驚いてしまうかもしれません。いや、そもそもそういう男性と結婚しなければいいわけですから、結婚前にそういう価値観をすり合わせておいた方が良さそうですね。相手の両親についても同じですね。今は、マッチングアプリとかでそんなことまで分かるのでしょうか。後から分かって、どちらかが我慢して、我慢しきれずに離婚、とかいうことになるとちょっと不幸ですね。もっとも、結婚・離婚に対する考え方もずいぶん変わってきていると思いますが。どちらの姓を名乗るかとかも、自由にすればいいと思いますけれどね。いずれにせよ、女も男も同じ人だということ、しかし、いくらかは女と男で生物学的には差があるということ、そういうことを弁えておくのが良さそうですね。
 次回は、自由に生きる中で善く生きるとはどういうことなのか、ちょっと倫理的な話をしてみます。

11 自由に生きる、善く生きる


 最近の子どもたちは「お天道様が見ている」なんていう言い方は知らないのでしょうか。僕の中では、神様とかお天道様とかというよりも、亡くなった両親に見られているような気が常々しています。それは、両親が生きていたときからですね。もし自分がしでかしたことが親にバレたら、親はどう思うだろうか、そんなことを常に考えていたと思います。自分が大人になってからでも、そういう思いは続いてきました。だから他の人の目がない場面でも、ちょっと恥ずかしい真似はできないと思ってしまいます。
 そのことを、僕は「良心は両親によって作られる」というふうに言ってきました。良心と両親が同じ音であるということが、なんか偶然とは思えないのですね。もちろん、良心は両親のみによって作られるわけではないでしょう。学校教育の中でも作られていくでしょうし、宗教や読書体験などからでも築かれていくものだと思います。最近では、よく「親ガチャ」なんていうことが言われますが、大変な家庭に生まれ育った子どもたちはどうなってしまうのか。親だけから良心を身につけていくのだとすると、良心なんてものを全く身につけていない親に育てられた子どもはどうなってしまうのか。どんな環境で生まれ育ったとしても、ちゃんとセーフティネットによって守られていてほしいものです。学校だったり、いろいろな施設だったり、家族以外の人間関係だったり、そんな中で善い生き方ができるような良心を身につけてほしいものです。
 さて、良心ということばを何とも定義せずに使っているのですが、どういうものが良心と言えるのでしょう。良心に従って生きると言っても、人によってその良心は大きく違うような気がします。たとえば、赤信号を目の前にして、左右どちらからも全く車は来ていません、あなたは信号が青になるまで待ちますか? 僕の場合は、おそらく他の人の目が全くなければすっと交差点を渡ってしまうと思います。でも、周りに人がいればちょっと躊躇してしまうことでしょう。それくらいのものです。そんなガチガチに、信号は青になるまで決して渡ってはいけません、とは思わないし、自分の子どもにも言ってきていません。あまりにも、ルールだからとそれに縛り付けられていると、生きていくのがしんどくなってしまいますからね。ルールとか法律とかいうものは、自分たちが安全に安心して自由に生きていくことが出来るように作られたものだと思います。安全が確保されているのならば、少々のルール違反は許されるのではないでしょうか。
 ただ、そのルール違反によって、他の人の自由が侵害されているとしたらそれは問題です。たとえば、「自習室内は私語厳禁」というルールがありますね。何のためにあるかというと、私語が他の人の迷惑になるからです。もし、その教室内に自分1人しかいなかったとしたら、声に出して暗記をしたりしていても何の問題もないでしょう。でも、友だちと2人で自習室を使っていたとします。友だちに話しかけたとします。2人しかいないのなら、他に迷惑はかかっていませんか。いいえ、その友だちは、集中して勉強をしていたかもしれないのに、それをじゃまされた可能性があります。勉強にもどりたいと思っていても、うまく言い出せないのかもしれません。相手が勉強しようとする自由を侵害していることになりませんか。
 一方で、ルールは変更が可能です。どういう意味があってそのルールが作られたのかを知ることも大事ですし、それがいまの時代にあっているのかどうかを考え直すことも大切でしょう。携帯電話が最初に出始めたころは、学校に着いたら携帯を先生に渡したりしていたものですが、いまではどうなっているのでしょうか。僕なんかも、分からないことがあればすぐにスマホで調べてしまうので、常に手元に置いておきたいと思ってしまいます。だから、自習のときに生徒がスマホをいじっていても、簡単に注意をしたり、取り上げたりということが出来なくなっています。時代によってルールの見直しは必要なのでしょうね。
 それでも、いつの時代にでも守らなければいけないものはあると思います。もちろん、殺さないとか、盗まないとか、そういうことは大前提です。ウソをつかないは時と場合によるので、前の2つと比べると少し弱くなる気はします。そのようなことをふまえた上で、憲法のようなものでしょうか、いつの時代にでも、どのような文化においても成立する最上級のルールというようなものを考えておく必要がありそうです。それは長い人間の歴史の中で哲学者たちが考え続けてきたことで、一応の結論は出ているようです。それは「自由の相互承認」と呼ばれるものです。「人間には自由に生きていく権利がある、しかしそれは、他人の自由が侵害されない限りにおいて」ということですね。人は生きたいように生きていいのです。しかし、そのことによってもし周りの人が自由に生きられないのだとしたらそれは困りますね。生きていればどうしたって人に迷惑をかけることもあります。それは一定仕方ないことです。しかし、周りの人が自由に生きようとするのを侵害してでも、自分の自由を押し通すというわけにはいかないでしょう。そういうことが皆ちゃんとわかっていれば、戦争なんてことは起こりそうもないのですけれどね。大国の政治を任された人の中にもそんなことすら分からない人もいるということですね。困ったものです。
 相手の自由が侵害されているかどうかがパッと分からないという場合もあります。想像力とか共感する力を持ってほしいと思いますが、話してみないと分からないこともあるでしょう。だから必要なのは対話です。話し合うことですね。暴力ではなく、話し合って解決するということです。最終的には多数決を取るしか方法がないということもあるでしょう。それでも、ぎりぎりまで少数の意見も聞いて、すり合わせをしていく必要があります。まずは最大限守らなければいけないルールは何なのかの確認、あるいは会社とか学校とかの組織であれば、最も大切な目的だったり、存在意義だったりの確認、その上でそれに即しているかどうかを考えて話し合っていく必要があります。
 根本的なところを考える方法を「本質観取」と呼びます。いま学校教育の中でも、道徳の時間などでその本質観取が行われるようになって来ています。子どもたちが話し合いの仕方を身につけて大人になっていければ、良い未来が待っているのかもしれません。
 ちょっと大きな話をしてしまいましたが、みんなが良心を持って、倫理的に、人に優しく生きていくことが出来れば、良い世の中になっていくことと思います。えらそうなことを言っていますが、自分自身はそんな倫理的な生き方ができているかちょっと怪しいです。自分に都合よくルールを書き換えたりもしています。でも、自分さえよければいいとは思わないようにしています。席を譲るという行為一つとってもなかなか勇気のいるものです。でも人に優しく生きていけたらいいなと思います。もっとも、そろそろ譲られる立場になりそうですが。
 次回は最終回、楽しく生きることについて考えてみます。 

12 楽しく生きる 楽しいことは続けられる、楽しいことは伝染する


 この1年間、人生についていろいろと考えてきました。何のために生きているのか、生きることの意味を考えてみました。何かの目的のために生きているのではなくて、生きていること自体に意味があるのだと考えました。なぜ今日も生きているのかという問いにあえて答えるなら、明日新たな出会いがあるかもしれないから、というのが初回に出していた僕の答えでした。それはそうとして、でも楽しく生きていたいですよね。悩み多い人生が悪いとは言いませんが、できれば毎日楽しく過ごせると良いと思います。楽しいことは続けられるし、周りにも伝染しますからね(その昔、森毅という僕が敬愛する数学者・教育者が言っていました)。
 さて、僕はここ数日、奥歯が痛いのです。薬を飲んでいったん痛みはやわらいだのですが、また少し痛み出しています。歯が痛いと、ご飯がおいしく食べられません。夜もぐっすりとは寝られません。歯の痛みにばかり意識が向くと、本も集中して読めません。憂鬱です。生活の質(QOL)はうんと落ちるわけです。武者小路実篤の人生論にもそのようなことが書かれていました。昔から皆同じようなことに悩まされていたわけですね。
 生活の質を上げるにはどうしたらいいでしょう。まず痛みはない方がいいですよね、僕の今の切実な思いです。歳を取るとあちこち痛むところが増えるのですが。花粉症も悩みの一つです。まだこれは期間限定なので許せると言えば許せますが、せっかくのお花見を楽しむことが出来ません。身体のどこかに悪いところが見つかり、治療をしないといけないということにでもなれば不安な日々を過ごすことになります。まず健康が第一ですね。そのためにも、食べること、寝ること、これらは抜くことができません。毎日の食べるものを心配しなくてすむ、寝る場所の心配もいらないということは生きていく上で欠かすことのできない条件です。そういうことについてはできれば国家というか自治体というのか、そういうものに守ってほしいと思います。なんでも自業自得とか自己責任でしょと言われると辛いですね。最近読んだ、モーム「人間の絆」の主人公フィリップは、女にお金をつぎ込み、株で大損をして、住む場所も食べるものも無くし、死のうとまで思います。救ってくれる人がいたから、そういうつながりがあったから良かったのですが。周りから見ると、それはあなたが悪いというようなことであっても、本人にとってはどうしようもなかったのかもしれません。できれば、しんどいときには手を差し伸べてくれる人というか、そういう仕組みがあれば良いなと思います。
 そうして、最低限生きていくのに心配が無くなれば、できれば毎日楽しく生きていけると良いですね。昨年、幸福論を書いたときにも、幸せの感度を上げようというようなことを書きましたが、楽しさの感度も上げられると良いですね。「箸が転んでもおかしい」などと言うことがありますが、些細なことでもにこにこしている人を見るとこちらまで微笑ましくなります。悪いことではないですね。僕は家族と一緒にM1とか見ていても、なかなか笑えないのですが、もう少し素直に楽しめばいいのにと、自分のことながら思うことがあります。ただ、思うのですが、楽しいというのは何もゲラゲラ笑い転げることを言うのではないのです。僕がここ最近で楽しいと感じられることを書くと、一つは「ばけばけ」を見ることでした。半年間毎日楽しみにしていましたからね。今は少しロス期間です。3ヶ月ごとのドラマの切り替え時期は楽しみがうんと減りますね。大河ドラマで何とかつないでいくしかありません。先ほども書きましたが「人間の絆」は良かったですよ。たまたま古本屋で見つけて、積読していたのに手を出しました。何も笑えるというわけではないですよ。でも楽しい、先が知りたい、わくわくする、終わってほしくない、そんなふうに思える読書体験でした。きっかけは読書会にあります。僕の最近の楽しみの一つが月1回の読書会です。みんな好きな本を持ち寄って1時間黙々と読んで、その後に紹介し合います。他の人が紹介した本を読むほど僕は心が広くないのですが、自分の好みを人に聞いてもらえるのがうれしいのですね。こんな本読んだよと自慢したくなるのです。SNSでいいねしてもらうのと同じですね。そういう意味では、僕みたいな気難しい人が集まる読書会は良くないのかもしれないですけどね。
 小学生を日々相手にしていると、実は子どもたちは楽しむ天才ではないかと思うことがあります。5分、10分の休憩時間に、次から次からいろいろな遊びを思いつきます。消しゴムをあてて何がおもしろいのか、ペットボトルを放って何が楽しいのか、と思ったりもしますが、自分たちなりに何らかのルールを決めて、勝敗を決めているようです。なんとも楽しそうです。床に足をつけないように机を伝わって端から端まで行くとか、僕も参戦してみたいなと思うことがままあります。だから、僕にどうやって人生を楽しむかなんて言ってもらう必要もないのかもしれませんね。
 でもでも、まだ体験できないこともありますよね。子育てです。これを言うのは少し気が引けるところもあります。欲しくても子どもができない人もいますし、自分の育った環境がよくなくて子どもは持ちたくないと思っている人もいるでしょうから。でも、やはり子育てって楽しいのです。たぶんそうなっているのだと思います。そうでなければ人類はとっくに滅んでいるでしょうから。本当に小さな乳幼児でもにこっとしますよね。これは反射的なもののようですが、そりゃかわいいですよ。笑った!と思いますよね。ハイハイを始めたとき、立ち上がったとき、伝い歩きをしたとき、こけそうになりながら自分の足で歩いたとき、ことばを発したとき、文章を話し出したとき、できなかったことが出来るようになったとき、文字も読めないのに読み聞かせしていた絵本のセリフを発したとき、特に2,3歳のころできることがどんどん増えていくので毎日が発見の連続で楽しくて仕方ありませんでした。いや、もちろん辛いこともありました。憶えています。夜中に起こされてなかなか寝させてもらえなかったことを。泣き止んだと思ってベッドの上に置くとまた泣き出して、もう投げ捨てようかと思ったことを。それでも、やはり圧倒的に楽しかった思い出の方が多いのです。だから、もし可能ならば皆に子育ての経験もしてほしいと思います。楽しく生きていくためにも。次は孫に少し期待はしているのですが、まだまだ先になりそうです。それと介護も楽しく思えたらよいのですが、なかなかそうはいきませんね。
 池谷裕二先生が好きなことばとしていつも挙げるのが「知好楽」です。孔子のことばだそうですが「知る者は好む者に如かず、好む者は楽しむ者に如かず」物事を知っているだけの人は好きな人には敵わず、好きな人もそれを心から楽しんでいる人には敵わない、というような意味のようです。これは脳科学的に言っても、楽しむのが一番良さそうです。受験勉強にしたって、いやいやするよりも、楽しいと思ってやった方が良い結果になるのは明らかでしょう。無理やりにでも楽しいと思ってやった方がいいのだと思います。皆さんに楽しいと思ってもらえるように僕たちも力を尽くしたいと思います。毎日、文句言わずに、楽しく生きてみましょう。
 1年間ありがとうございました。日々楽しく良い人生を歩んでいってください。それではまたいつか。 

おわりに

 いろいろと書き足りないところもありますが、1回 B4 1枚分と決めて書いています。毎回、テーマだけ決めて、ゴールは何も考えずに書き始めています。思わぬ方向に話が進むこともありました。第1回、第12回に書きましたが、生きることの意味は誰か何かと出会うためである、というのは書きながら思わず出てきた文章です。自分でも驚いています。今日辛いことがあっても、明日にはまた新たな出会いがあるかもしれない。それで人生が良い方向に変わるかもしれない。そんな思いです。僕が一貫して言っていることは、将来のために頑張ったり、我慢したり、耐えたりすることも時には大事かもしれない。けれど、そのときどきで、楽しく生きていってほしいということです。その両立はきっとできると信じています。そのことについては、第2回に書いて単独で当時担任をしていた中2生に渡しました。僕が定年退職をしてしまう前に。第8回の愛についてはとても書きづらくて後回しにしていましたが、照れながらなんとか書き切りました。第10回の男女の問題は、ちょうどフェミニズムについての新書を読んでいたのと、最近のドラマで気になっていたところだったので、急遽テーマを変えて書きました。これは書けて良かったと思っています。第9回の病については、近々簡単な手術をすることになっているので、そのあとでは随分と書く内容が変わりそうな気がしています。そのことについては、また別の機会に書いてみたいと思っています。まあともかく、僕の人生、あと20年か30年か分かりませんが、いやもっと短いかも知れない、なんとも言えないのですが、だからこそ、毎日を楽しく生きて行ければと良いなと思っています。妻も退職したら海外旅行にでも行こうと思って貯金していても、どうなるか先のことは全く分かりませんしね。子どもたちに残せればそれはそれでいいのかもしれませんが。
 最後までお読みいただきありがとうございました。
  2026年4月8日 桜が散るころに

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