『迷探偵 沖田』第1話:琥珀色の迷宮
第1話:琥珀色の迷宮
雨は、すべてを曖昧にするために降るのかもしれない。 新宿の喧騒を遠くに臨む、築四十年の雑居ビル。その屋上に増築されたプレハブ小屋、もとい「沖田探偵事務所」の窓を、容赦のない飛礫(つぶて)が叩いていた。 室内に満ちているのは、安物の珈琲が放つ焦げ付いたような匂いと、吸い殻の山から立ち上る、肺の奥まで侵食してくるような紫煙の香り。
チリン、と澄んだ音が響く。 デスクに深く沈み込んだ男――沖田が、細長い指先で三つの鍵を弄んでいた。 鈍い黄金色を放つ真鍮の鍵。 月光を閉じ込めたようなくすんだ銀の鍵。 そして、赤錆が浮き、時代の重みをその身に宿した鉄の鍵。 それらが一つの銀の輪の中で擦れ合い、ぶつかり合い、不規則なリズムを刻む。その音を聞きながら、沖田は半開きの瞳で、天井の染みを数えていた。
「沖田さん、いい加減にその鍵を回すのを止めてください。耳の奥が痒(かゆ)くなります」
志乃が、湯気の立つマグカップを沖田のデスク――資料の山でわずかに空いたスペース――に置いた。彼女の動作には、無駄がない。雨の湿気を含んだ空気を切り裂くような、凛とした佇まいだ。
「この音には、世界の歪みを矯正する効果があるんだよ、志乃。あるいは、僕の脳の潤滑油かな。三つの鍵が奏でる和音は、複雑であればあるほど真実に近い」
沖田はそう嘯(うそぶ)くと、最後の一吸いを惜しむように紫煙を吐き出した。その煙が窓ガラスに反射するネオンを曇らせる。
「真実ね……。それより、家賃の督促状という『冷徹な事実』が三通届いていますよ。それも解き明かしてくれますか?」
「それは僕の管轄外だ。僕が扱うのは、人間の愚かさと美しさが織りなす『解けるはずのない結び目』だけだよ」
その時、プレハブの薄いドアが、控えめだが切迫した響きを伴って叩かれた。 沖田の指先がピタリと止まる。鍵たちが一瞬の静寂を享受した。 志乃がドアを開けると、そこには、季節外れのコートを纏(まと)い、全身を震わせた一人の女性が立っていた。
「……ここが、沖田探偵事務所……でしょうか」
女性の髪からは、大粒の雫が滴り、リノリウムの床に小さな水溜りを作っていく。その双眸(そうぼう)には、深い絶望と、すがるような僅かな希望が入り混じっていた。
「いらっしゃい、葛城梨花さん。ずいぶんと重い雨を背負ってきましたね」
沖田は椅子を回し、女性の顔を見ることなく、その名前を呼んだ。 女性――梨花は、息を呑んで立ち尽くす。
「どうして、私の名前を?」
「君の纏っている香水の残り香……『夜の女王』の名を持つ高価なものだ。それに、そのコートの袖口に見える刺繍。葛城家の家紋だろう? 没落しつつある名家が、最後の手放せないプライドとして身につけるものだ。そして今朝の新聞の片隅に、葛城邸で盗難事件があったという小さな記事が出ていた。……探偵に会いに来るのは、当事者しかいない」
沖田は、再び鍵を滑らせる。チリ……と鉄の鍵が銀の鍵を弾いた。
「お聞きしたいのは、『琥珀の瞳』の行方ですね?」
梨花は、震える膝を隠すようにコートを強く握りしめた。 「……はい。我が家に代々伝わる、世界で唯一の琥珀の中に封じられた美しい宝石……それが、昨夜、厳重に施錠された金庫の中から消えました。警察は、身内の犯行を疑っています。でも、私は……」
「身内の犯行ではないと信じたい? それとも、身内の誰が犯人か、既に目星がついているからこそ、警察には知られたくない……のどちらかな?」
沖田の言葉は、鋭いメスのように梨花の心を切り裂いた。彼女の顔から、急速に血の気が引いていく。
「さあ、案内してください。古びた紙の匂いと、隠された憎悪が染み付いた、君の『沈黙の家』へ」
葛城邸は、都心から一時間ほど離れた郊外の、鬱蒼とした森の入り口に鎮座していた。 昭和初期に建てられたという洋館は、雨に濡れ、まるで眠りについた巨獣のような不気味さを漂わせている。 案内された応接室には、梨花の父であり当主の葛城正造、そして梨花の義母である静江が、冷え切った空気の中で向かい合っていた。
室内に漂うのは、重厚な革張りのソファの匂いと、どこか煤(すす)けたような、古い暖炉の残り香。
「……探偵だと? 梨花、何を勝手な真似を」
正造が、濁った声で吐き捨てた。その手はかすかに震え、膝の上に置かれた灰皿には、幾本ものタバコが根元まで焼き尽くされている。
「お父様、警察の方は何も信じてくれない。このままでは、葛城家の名誉が……」
「名誉、ね。……沖田さん。この家には、真実などという高尚なものはありません。あるのは、くすんだ過去と、消えない執着だけです」
静江が、冷ややかな微笑を浮かべながら言った。彼女の指先には、高価な真珠の指輪が光っている。しかしその美しさは、どこか死者の肌のような冷たさを感じさせた。
沖田は無言で、部屋の隅に置かれた巨大な金庫へと歩み寄った。 金庫の扉は開け放たれており、中には宝石を置いていたはずのベルベットのクッションが、虚(うつ)ろに横たわっている。
沖田は屈み込み、金庫の縁を指でなぞった。そして、指先に付着した「何か」を、鼻先に近づける。 かすかな、甘い匂い。
「金庫の鍵を最後に開けたのは、誰ですか?」
「私だ。昨夜の午後十時、中身を確認し、確かに施錠した。鍵は常に私が持ち歩いている」 正造が、上着のポケットから重厚な鍵束を取り出した。
「志乃、記録して。この金庫の周囲には、三つの異なる物語が交差している」
沖田は立ち上がり、ポケットの中で鍵を激しく掻き回した。金属のぶつかり合う音が、応接室の静寂を暴力的にかき乱す。
「まず一つ目。……梨花さん、君のコートのポケットには、今も『琥珀の瞳』が入っているね?」
その言葉が放たれた瞬間、室内の空気が凍りついた。 梨花の肩が、目に見えて大きく跳ねた。
「な……何を仰っているんですか!? 私が……私が盗んだというのですか?」
「『盗んだ』という言葉は不正確だな。君は、それを『守った』つもりなんだろう? ……君のコートの右ポケット、少し不自然に膨らんでいる。そしてそこからは、金庫の縁についていたものと同じ、特殊な防錆油(ぼうせいゆ)の匂いがする。君が自分で金庫を開け、中身を隠した。狂言盗難だ」
沖田は梨花に歩み寄り、その瞳を覗き込む。 「警察を呼び、身内を疑わせる状況を作り出し、その裏で探偵を雇って『宝石は見つからなかった』というお墨付きを得る。そうすることで、君は宝石を家族の手から永遠に遠ざけようとした。……違いますか?」
梨花は、力なくその場に崩れ落ちた。コートのポケットから、黄金色の輝きを放つ琥珀が転がり落ちる。
「……あ……ああ……」 正造が絶句し、静江は嘲笑のようなため息をついた。
「解決ですね、沖田さん。さあ、事務所に帰りましょう」 志乃が冷ややかに促すが、沖田は動かない。 彼の視線は、梨花が隠したはずの琥珀ではなく、応接室の壁に掲げられた、先代当主の肖像画に向けられていた。
「待ってくれ、志乃。まだ真鍮の鍵が回っただけだ。……銀の鍵が、まだ僕のポケットの中で震えている」
沖田は、転がった琥珀を拾い上げ、窓から差し込む僅かな光に透かした。 「梨花さん。君が狂言を働いた理由は、単なる独占欲じゃない。……この琥珀の中に閉じ込められている『瞳』が、今朝見た新聞記事にあるような、偽物だと気づいたからだろう?」
「えっ……?」 梨花が顔を上げる。
「君は、父親が借金返済のために本物を売り払い、偽物とすり替えたと疑った。だからこそ、偽物が露見する前に隠してしまおうとした。……でもね、梨花さん。これは、二つ目の真実だ」
沖田は、琥珀を梨花の手のひらに戻した。 「この琥珀は、偽物じゃない。……そして、正造さんが売り払ったわけでもない。……この家に漂う匂いが、僕に教えてくれるんだ。ここには、もっと昏(くら)く、冷たい風が吹いている」
沖田は、三つの鍵のうち、銀色の鍵を指先で弾いた。 「真実は、大体3つほど用意しておかないといけない。……さて、正造さん。書庫の三段目にある、数十年前の未開封の手紙……あれについて、お話しいただけますか?」
正造の顔が、今度は土気色に変わった。 雨音は激しさを増し、屋敷の奥から、何かが軋むような音が聞こえてくる。 それはまるで、長い間沈黙を守ってきた屋敷が、ついにその重い口を開こうとしているかのようだった。
「志乃、今夜は長くなりそうだ。……三つ目の鍵が、あそこにある重い扉を開きたがっている」
沖田が指し示したのは、部屋の片隅にある、塗り潰されたかのように不自然な書庫の奥の壁だった。 そこに、本当の『迷宮』への入り口が隠されていることを、この時の梨花はまだ知る由もなかった。
