『迷探偵 沖田』第3話:地下に眠る共犯者
階段を下りるたび、空気は重く、湿り気を帯びていった。 懐中電灯の細い光が、カビに侵食されたコンクリートの壁をなめるように照らし出す。その光の輪の外側では、濃密な闇が粘りつくように沖田たちの背後を伺っていた。 饐えた埃の匂いと、逃げ場のない水の腐ったような臭気が鼻腔を突く。
「……ひっ、あ、あぁ……」
梨花が、自分の歯の根が合わない音を響かせていた。彼女の指先は志乃のコートの裾を必死に掴み、震えは伝染するように周囲の空気を震わせている。 その後ろを歩く正造は、もはや言葉を失い、幽霊のように力なく足を動かすだけだった。唯一、静江だけが、死んだ魚のような瞳で前方の闇を凝視している。その横顔には、恐怖を超越した「諦念」の色が張り付いていた。
チリン……。 沖田のポケットから、乾いた金属音が響く。 彼は立ち止まり、最下層にある重厚な鉄の扉の前で、指先をポケットの奥へと潜り込ませた。
「真鍮の鍵は『表面の嘘』を暴き、銀の鍵は『隠された情念』を暴く。……そしてこの鉄の鍵は、世界が忘れ去ろうとした『冷徹な事実』を抉り出すためにある」
沖田は、赤錆に覆われた一番重い鍵を取り出した。その鍵は、懐中電灯の光を受けても輝くことはない。ただ、長い年月にわたって吸い込んできた悪意を吐き出すように、どす黒い光を放っていた。
ガチリ、という。 鼓膜を直接針で刺すような、不快な金属の噛み合う音が地下室に響き渡った。 扉がゆっくりと、苦悶の声を上げながら開いていく。
そこは、不自然なほどに清潔な「工房」だった。 精密な旋盤、数多の化学薬品の瓶、そして琥珀を磨き上げるための研磨機。懐中電灯の光が室内を巡ると、壁際に置かれたベッドの上に、一人の老人が上体を起こしているのが見えた。 老人の肌は陽光を浴びぬまま歳月を重ねたためか、羊皮紙のように白く透け、浮き出た血管が紫色の地図を描いている。
「……やっと来たか、沖田さん」
老人の声は、枯れ葉が擦れ合うようなカサついた響きを伴っていた。
「お久しぶりですね、加納さん。……いえ、かつて『東洋のヴァン・メーヘレン』と謳われ、二十年前に死んだはずの偽造師――クロノス氏と呼ぶべきでしょうか」
加納と呼ばれた老人は、力なく笑った。その瞳には、もはや人としての熱はなく、ただ冷徹な職人の光だけが宿っている。
「お父様、この人は……?」 梨花の声が震える。
「梨花さん。この老人は、君の『守ろうとしたもの』を造り続けていた共犯者だ。……静江さん。あなたがこの地下室に通っていたのは、軟禁していた彼に食事を与えるためだけではない。……定期的に、金庫の中の宝石を『更新』させるためだ」
「更新……?」
「琥珀は、人工的に造られた場合、時間の経過と共に内部に歪みが生じる。第2話で君が見たあの微細なヒビだよ。だからこそ、数年おきに『新しい偽物』を造り、金庫の中身をすり替え続ける必要があった。……本物は、もうこの屋敷にはないのだから」
沖田の言葉に、静江ががっくりと膝をついた。彼女の喉から、押し殺した嗚咽が漏れる。
「……そうです。本物の『琥珀の瞳』は、二十年前……正造さんが、先妻の治療費を捻出するために、既に売り払っていたのです」
衝撃の事実が、地下室の冷気をさらに凍りつかせた。 正造は、顔を覆い、子供のように肩を震わせる。
「……私は、家を守りたかった。葛城の名を、宝石という象徴を失えば、この家は瓦解すると思い込んでいた。……だから、妻が亡くなった後、その後妻として入った静江に全てを託したのだ」
「三つ目の真実。……それは、この屋敷の全員が、一つの巨大な『嘘』を維持するための共犯者だったということだ」
沖田は鉄の鍵を指先で弾き、老人の枕元へと歩み寄った。 「だが、おかしな話だ。加納さん、あなたはなぜ、二十年もの間、この地下室で大人しく偽造を続けていた? 逃げ出そうと思えば、機会はいくらでもあったはずだ。静江さんに弱みを握られていたのか?」
老人は、深い皺に刻まれた口元を歪めた。 「……弱み? そんな高尚なものじゃない。……私は、美しさに取り憑かれただけだ。本物の『琥珀の瞳』を超え、本物よりも『本物らしい』偽物を造り上げる。その究極の悦楽を、静江さんが与えてくれた。……私は共犯者ではない。……私は、この屋敷の『信仰』そのものを支えていた神なのだよ」
老人の狂気に満ちた告白。 その時、パチリ、と耳慣れた音が地下室に響いた。 非常用の電源が復旧したのだ。
天井の裸電球が、激しく明滅し、工房の全貌を暴き出す。 そこには、梨花が持っていたものと同じ、黄金色に輝く琥珀が数十個、棚の上に整然と並べられていた。そのどれもが、猫の瞳のような鋭い輝きを放ち、見る者を誘惑している。
「……だが、一つだけ『計算違い』があったようですね」
沖田の視線が、老人の背後の壁に向けられた。 そこには、第2話で見つけた隠し部屋の肖像画と同じ意匠の、小さな額縁が掛けられていた。 しかし、その中の絵は切り裂かれ、その奥にあるはずの「何か」が消失している。
「……静江さん。今夜、梨花さんが宝石を隠すよりも前に、金庫を開けた人物がもう一人いた。……その人物は、加納さんが造った偽物ではなく、『あるもの』を求めて地下へ降りてきた」
「何を……仰っているの……?」
「加納さん。あなたがこの二十年、宝石の偽造の合間に、密かに『完成』させていたものがあるはずだ。葛城家の血脈を呪い、全ての嘘を終焉させるための……本物以上の毒を持つ宝石を」
老人の顔から、笑みが消えた。 その時、階上で、ガシャーン! という激しい窓ガラスの割れる音が響いた。
「志乃!」 「分かってます!」
志乃が弾かれたように階段を駆け上がる。沖田もそれに続く。 背後で、老人の不気味な笑い声が地下室の湿った空気に反響していた。
一階の応接室に戻ると、そこには、雨に濡れた侵入者の姿があった。 だが、その人物の顔を見た梨花は、この夜で一番の、魂を削り出すような悲鳴を上げた。
「……お、お母……様……?」
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