蒼穹のストラテジスト ―零細ギルドを王国最大の商会へ導く経営魔導書―第5話:王国の経済白書と、隠されたデフレ
王都の中心にそびえ立つ「賢者の塔」。その地下深くに置かれた国立公文書館は、地上の喧騒が嘘のような静寂と、冷え切った冷気に包まれていた。 シンは、魔力灯の淡い青光を頼りに、巨大な本棚の間に身を埋めていた。指先が触れるのは、王国の数百年分の「数字」が刻まれた羊皮紙の束。アリサは隣で、シンの奇行に困惑しながらも、重い資料を運ぶのを手伝っていた。
「……ねえ、シン。和解交渉で勝ち取った金貨を使って、もっと設備を整えたり、新しい冒険者を雇ったりしなくていいの? なんでこんな、カビ臭い地下室で古い税収記録なんて調べてるのよ」
アリサが小声で尋ねる。彼女の吐息は白く、防寒用の毛皮の襟元をきつく合わせている。 シンは、一枚の巨大な図表を机に広げながら、眼鏡のブリッジを押し上げた。その瞳は、個別の利益(ミクロ)ではなく、王国全体の命の拍動(マクロ)を捉えようとしていた。
「アリサ。個別の船(ギルド)をどれだけ修理しても、海(経済)そのものが干上がってしまえば、すべての船は座礁する。……今、このレム・ルリア王国という『海』で、恐ろしい異変が起きているんだ」
「異変……? 街は活気に溢れているし、魔導具の生産量だって過去最高だって、昨日の広報官が言っていたわよ」
「それが罠なんだ」
シンは、前世で学んだ『経済学・経済政策』の知識を、魔導言語に変換しながら解説を始めた。
「いいかい。王国の発表している『名目魔導総生産(名目GDP)』は、確かに右肩上がりだ。だが、物価の変動を除いた『実質生産量』を見てみると、ここ三年間、ほぼ横ばいか、むしろ下落している。……さらに深刻なのは、これだ」
シンが指し示したのは、一般市民が日常的に購入するパン、羊毛、そして生活用魔石の価格推移表だった。 全てのグラフが、緩やかな、しかし確実に右下へと向かうカーブを描いている。
「物価が下がり続けている。……アリサ、これは『デフレーション』という病だ」
「物価が下がる……? それって、みんな安く物が買えるんだから、良いことじゃないの?」
アリサの素朴な疑問に、シンは首を横に振った。
「短期的にはそう見える。だが、物価が下がるということは、それを作る側――つまり我々ギルドや商人の収入が減るということだ。収入が減れば、君は冒険者の給料を削らざるを得なくなる。給料が減った冒険者は、買い物を控える。するとさらに物が売れなくなり、物価はもっと下がる。この負の連鎖(デフレ・スパイラル)が始まると、国全体の経済が凍りつくんだ」
シンの言葉と同時に、公文書館の奥から重厚な足音が響いた。 現れたのは、漆黒の魔導衣に身を包んだ、痩躯の老人だった。その眼光は鋭く、全てを見透かすような冷徹さを湛えている。王国の宰相であり、稀代の経済魔導師と呼ばれる男、フォルテだった。
「……異世界の知識を持つ者よ。まさか、この国の『白書』を読み解く者が現れるとはな」
フォルテの声は、地下室の冷気を一層際立たせた。アリサが反射的にシンの前に立ち、短剣の柄に手をかける。
「宰相閣下。……この国のデフレは、自然発生的なものではありませんね。閣下が意図的に『貨幣供給量』を絞っている」
シンの指摘に、フォルテは薄く笑った。
「その通りだ。魔導文明が発達しすぎたゆえの弊害だよ。誰もが魔法で安易に物を創り出し、市場には価値の低い製品が溢れた。私は、通貨である『金貨』の希少性を高めることで、放漫な経済を律しようとしたのだ」
「それは『IS-LM分析』における、強引な緊縮財政だ」 シンは机の上の塵(ちり)を指でなぞり、二本の交差する線を書いた。
「財市場を示す『IS曲線』と、貨幣・魔力市場を示す『LM曲線』。閣下は、LM曲線を強引に左上へ押し上げ、利子率(魔力コスト)を高めようとした。だが、その結果、国民所得(GDP)は縮小し、投資の意欲は削がれた。……今、王国の経済は、金貨をいくら貯め込んでも不安が消えない『流動性の罠』の直前にあります」
「ほう……。面白い理論だ。だが、経済を安定させるには、痛みを伴う改革が必要なのだ。零細ギルドの診断官ごときが、国家の天秤に口を出すな」
フォルテが杖を軽く突くと、シンの周囲の空気が重圧(プレッシャー)で歪んだ。アリサが顔を歪め、膝をつきそうになる。 しかし、シンはその重圧を真っ向から受け流し、静かな、しかし確固たる声で続けた。
「閣下のやり方では、力のある大手ギルドだけが生き残り、地域の多様性を支える中小ギルドは全滅します。……それは、王国の『供給能力』を自ら破壊する行為だ。一度失われた技術や人材は、デフレが終わっても二度と戻りません!」
シンは、懐から一通の提言書を取り出した。それは、公文書館に来る前に徹夜で書き上げた「王国経済再生の処方箋」だった。
「私は、このデフレを逆手に取る。……アリサ、『青い燕』の全資産を使って、暴落している『非魔導系素材』を買い占めるぞ」
「えっ!? 買い占めって……今、そんな価値のないものを買ってどうするの?」
「価値がないから買うんだ。……フォルテ閣下、一ヶ月後、王国の物価指数は再び上昇(リフレ)に転じます。魔法に頼り切ったこの国の構造を、私が『経営の力』で根本から作り替えてみせる」
宰相フォルテは、シンの提言書を一瞥(いちべつ)し、フンと鼻で笑った。 「よかろう。もし一ヶ月以内に経済の指標が動かねば、不当な市場攪乱の罪で、貴殿の首を跳ねる。……期待しているぞ、異世界のストラテジスト」
フォルテが霧のように消え去ると、張り詰めていた空気が一気に解けた。アリサはその場にへたり込み、荒い息を吐いた。
「……シン、あんた正気? 宰相相手に、国家予算並みの博打を打つなんて……」
「博打じゃない。確信があるんだ」 シンは、地下室の窓から見える、どんよりとした曇り空を見上げた。
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