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蒼穹のストラテジスト ―零細ギルドを王国最大の商会へ導く経営魔導書―第13話:急拡大の代償(バーンアウト)

ギルド「青い燕」の本拠地に満ちているのは、もはやかつての活気ではなかった。  それは、張り詰めた弦が今にも弾け飛ぶ直前の、低く、湿った、不穏な唸りだった。    事務室の空気は、魔法ランプの熱と、何十人もの人間が吐き出す熱気で濁り、酸い汗の匂いと古びたインクの香りが混じり合っている。床には、処理しきれない依頼書や報告書が雪崩のように積み上がり、もはや整理整頓という概念は、シンの「カイゼン」以前の混沌へと先祖返りしていた。

「……次、王都南区の食料配送ルート、再計算終了。……次は、騎士団からの予備刀剣、在庫照合……」

二階の情報解析部門。リーダーのカイルの声は、乾いた砂が擦れ合うような掠(かす)れた響きだった。  彼の眼窩(がんか)は深く落ち込み、瞳は血走って、まるで数世紀もの間、眠りを奪われた亡霊のようだった。指先はインクで真っ黒に汚れ、ペンを握る右手が小刻みに震えている。彼の机の上には、冷え切って膜の張ったスープと、一度も口をつけられていない硬いパンが放置されていた。

「カイル、少し休んだらどうだ? 昨日の朝から、君は一度も席を立っていないだろう」

シンが背後から声をかけたが、カイルは振り返ることさえしなかった。彼の意識は、魔導計算機から吐き出される数字の羅列に、文字通り呪縛されていた。

「休む……? ストラテジスト、冗談を言わないでください。……僕がこの計算を止めれば、王国の物流は三時間で麻痺します。……騎士団への物資が届かず、農村の薬草が腐り、燕の信用は……地の底に落ちる。……僕が、やらなきゃ……」

カイルの言葉は、使命感という名の、自分自身を焼き尽くす炎だった。  シンは、ギルド全体の「稼働状況」を示す魔力掲示板を見上げた。  数字は、かつてないほどの最高益を示している。王家との提携、騎士団のBPR。全てが計画通りに進み、「青い燕」は王国最大の経済組織へと変貌を遂げた。  だが、その数字の裏側で、組織の「血流」であるはずの人材が、音を立てて摩耗していた。

一階の待機所では、ベテラン冒険者のベイルが、後輩の冒険者に怒鳴り散らしていた。

「てめえ! なんで配送先を間違えた! 氷結草の納品は昨日までだったはずだぞ!」 「すみません……。でも、もう三日もまともに寝てないんです……。魔力も底をついて……」 「言い訳すんじゃねえ! 俺たちの代わりはいねえんだ! 動け、死ぬ気で動けッ!」

ベイルの怒声には、かつての余裕と誇りは消え失せていた。あるのは、追い詰められた獣のような焦燥感だけだ。  アリサもまた、カウンターの奥で顔を伏せていた。彼女の肩は力なく落ち、輝いていた碧眼(へきがん)は、澱んだ曇り空のような色を湛えている。

「シン……。……もう、何が正解なのか分からないの」

アリサが弱々しく呟く。彼女の指先は、絶え間なく届く苦情処理の書類に埋もれていた。

「利益は出ている。王家も満足している。……でも、ギルドの誰も笑っていないわ。……ガモンさんも、地下の工房で倒れたのよ。幸い、軽い火傷で済んだけど……。……私たちのギルドは、いつからこんな『地獄』になっちゃったの?」

シンの胸を、鋭い痛みが刺した。  彼の頭脳にある『経営学』の知識が、無慈悲な診断結果を突きつける。

(……私のミスだ。……『規模の不経済』。……組織を急激に拡大させ、効率を極限まで追求するあまり、一人の人間が管理できる限界を超えてしまった。……スパン・オブ・コントロールの破綻。……そして何より、私は彼らを『経営資源(リソース)』という名の数字としてしか見ていなかった)

シンは、前世で学んだ『ハーズバーグの二要因理論』を思い出した。  金貨(給与)や設備の充実、王家の庇護といった要素は、不満を取り除く「衛生要因」にはなる。しかし、それだけでは人間の魂を動かす「動機付け」にはならない。むしろ、過剰な負荷は責任感を「呪い」へと変え、人々を精神的な死――バーンアウトへと追い込むのだ。

その時。  二階から、何かが激しく崩れる音が響いた。   「カイルッ!」

シンとアリサが階段を駆け上がると、そこには床に倒れ伏したカイルの姿があった。  魔導計算機がショートし、青い火花を散らしている。カイルの身体は、氷のように冷たくなっていた。

「……カイル! 起きなさい! カイル!」

アリサが彼の肩を揺らすが、反応はない。彼の精神は、情報の海に飲み込まれ、自己防衛のために「活動停止」を選んだのだ。

「……ストラテジスト……。……まだ……計算が……」

薄く開いたカイルの唇から、うわ言のように数字が漏れる。その姿は、あまりに残酷だった。    シンは、震える手でカイルの冷たい額に触れた。  効率。生産性。スループット。  自分が追い求めてきた言葉たちが、今、最良の仲間を壊した武器となってシンの眼前に突きつけられている。

「……やめだ。……全て、停止させる」

「え……? シン?」

シンは立ち上がり、ギルドの中央にある魔力掲示板に向かって、自らの全ての「権限」を込めた呪印を打ち込んだ。

『――緊急事態宣言。これより三日間、ギルド「青い燕」の全業務を一時停止(シャットダウン)する。全ての冒険者、職員は即刻、武器とペンを置き、帰宅せよ』

掲示板に浮かび上がった光の文字に、ギルド内が騒然となる。  階下からベイルが駆け上がってきた。

「おい、小僧! 正気か!? 今仕事を止めたら、どれだけの違約金が発生するか分かってんのか! 王家だって黙っちゃいねえぞ!」

「違約金なら、私の首で払う! だが、今の君たちは、もう一歩も進むべきじゃない!」

シンの咆哮が、騒がしいギルド内を静まり返らせた。  シンは、一人ひとりの顔を、痛みを堪えるように見つめた。

「ベイル。君の目は、もう戦士の目じゃない。ただの、絶望した奴隷の目だ。……ガモン殿。君の黄金の指先は、火傷で震えている。……そしてカイル。彼は、私たちのために、自分の魂を魔導回路に捧げてしまった。……これが、私の望んだ『成功』か?」

シンは、カイルの机に積まれた、未完の報告書を掴み、力任せに破り捨てた。

「いいかい。経営学における『人的資源管理』の真髄は、人を働かせることじゃない。……人が人として、誇りを持って生き続けるための環境を整えることだ! ……マズローは言った。生理的欲求や安全が脅かされている人間に、自己実現など不可能だと。……今の我々は、生存の瀬戸際にいるんだ!」

シンは、アリサを見た。  彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「……シン……。……怖かったの。……あなたが、数字だけを見て、私たちを置いていっちゃうのが、一番怖かった……」

「……すまない、アリサ。……ストラテジストとして、私は失格だ。……仲間の限界も見抜けない男に、国を救う資格などない」

シンは、静かに宣言した。

「これより、燕の『休息改革』を断行する。……第一に、二十四時間稼働の廃止。シフト制の導入。……第二に、完全週休二日。……第三に、カイルたち解析部門の『権限分散』。一人のリーダーに責任を集中させず、チームで判断を共有する組織構造への転換だ。……そして第四に、福利厚生の拡充。温泉宿への慰安旅行を、全額ギルド負担で実施する」

「……温泉……? 慰安……?」

ベイルたちが、呆気にとられたように顔を見合わせた。

「そうだ。……明日から三日間、この建物には誰も入れてはならない。……これは命令だ。……休むことが、今、最も重要な『業務』なんだ」

シンの言葉に、ようやく組織の緊張が、ふっと解けた。  職員たちが、一人、また一人と、安堵の表情で椅子から立ち上がる。  ベイルは、大きなため息をつくと、後輩の肩を叩いた。

「……ったく。……小僧の診断には逆らえねえな。……おい、みんな。今日はもう仕舞いだ! 最高の酒を飲みに行こうぜ。……燕の経費でな!」

歓声。それは、勝利の叫びではなく、重荷を下ろした人間たちの、泥臭くも温かな喜びの声だった。

数時間後。  静寂が戻った事務室で、シンは眠るカイルの傍らに座っていた。  窓の外には、穏やかな夜の月が、燕の翼を休めるように優しく照らしている。

「……シン。……本当によかったのね?」

アリサが、温かいハーブティーを持って、隣に座った。 「ああ。……短期的な利益は金貨数千枚分ほど失われるだろう。……だが、今日これを行わなければ、一ヶ月後には、私たちは文字通り『崩壊』していた。……組織の成長曲線には、必ず『踊り場』が必要なんだ」

シンは手帳に、新たな組織図を書き込んだ。  それは、単なる指揮系統の図ではなく、人々の「休憩」や「対話」が、血流のように循環する、生命感のある設計図だった。

「……アリサ。……私は、また一つ学んだよ。……経営学の教科書に書かれている『人間』は、ただの記号じゃない。……血が通い、疲れ、悩み、そして愛する者がいる、かけがえのない存在なんだということを」

「……ふふ。……ようやく、あんたも『こっちの世界』の人間になったわね、シン」

アリサの笑顔が、シンの荒んだ心を、どんな魔法よりも深く癒していった。    だが、安息は長くは続かない。  ギルドを一時閉鎖したという報は、すぐさま王都の闇を駆け抜けた。  シンの失脚を狙う宰相フォルテ、そして「鉄の鍛冶場」のヴォルガン。  彼らにとって、燕の「休息」は、絶好の『攻撃チャンス』に見えていた。

「……来るな。……燕の翼が休んでいる間に、奴らは情報の矢を射かけてくるはずだ」

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