自分の弱っちさを背負いながら
人間はみんなが、美しくて強い存在だとは限らないよ。
生まれつき臆病な人もいる。弱い性格の者もいる。メソメソした心の持ち主もいる。
…けれどもね、そんな弱い、臆病な男が自分の弱さを背負いながら、一生懸命美しく生きようとするのは立派だよ。
~ 遠藤周作
『沈黙』を書いた遠藤さんはきっと、弱い人のことを話したかった。
日本人のキチジローは、捕らわれの身になると簡単に棄教してしまいます 。
イエスを裏切る。
我が聖典、ウィキィペディアはそのあらすじをこう載せています。
島原の乱が収束して間もないころ、
イエズス会の司祭で高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。
フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立ち寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。
キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは潜伏キリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。
幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。
ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。
逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。
連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。
長崎奉行所でロドリゴは、棄教した師のフェレイラと出会い、
さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。
奉行所の門前ではキチジローが何度も何度も、ロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは追い返されている。
ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。
神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。
その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。
その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。
自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、
究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。
夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏む。
すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。
そのとき、踏絵の中のイエスが、
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。
こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを訪ねて、裏切ったキチジローが許しを求める。
イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。
「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」
「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」
踏絵を踏むことで初めて、自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。
ウィキペディアによると、この小説で遠藤が到達した「弱者の神」「同伴者イエス」という考えは、その後の『死海のほとり』『侍』『深い河』といった小説で繰り返し描かれる主題となったと。
とても重い主題です。
けれど、『沈黙』はわたしの胸をぐわーっと突き上げました。
仏陀が理知的な面が強いのに対して、イエスは愛という形で感情面に訴えて来るのです。
頭でいくら理解しても、感情が受け入れないとひとは動けない。行動は変わりません。
感情のためには、生き物であるわたしたちには”体験”が必要でしょう。
物語りが廃れないのは、そういうわけです。
また、SNSはAIも書くでしょうが、しかし、彼には”体験”が欠落する。
簡単に人を殺したり、女性を蹂躙するような事件が絶えません。
昨夜、某テレビ局が会見を開き、わたしも5時間ほど見てました。
女子アナを使い捨てにし、大事に想っていないことが明らかでした。
経営は己の弱さを隠し、女性のプライバシーを言い訳に保身に走っていた。
また、壇上の経営者たちを強く非難する記者たちが避けていたのも、この自身の弱さだったでしょう。
非難や説教ばかりする、キミはいったい何様??
みな、苦しむ者への眼差しが欠けていたのです。
それは、今や飛ぶ鳥も落とす勢いの西鷲国、花札大統領も同じでしょう。
いえ、道徳話をしたいのではありません。
みな、己の弱さを自分自身から隠すその姿があわれなのです。
誠実さに欠けるということは、自己への裏切りなのです。
都合が良ければ、正論、正義を背負い他者を切って捨てる。
でも、裏切りはもっとも、罪深いものでしょう。
特に、自身への裏切りは最悪です。
イエスへの裏切りはまだいいのです。
彼は、神の国はあなたの胸にあると言いましたから。
ばかにされる、蔑まされる、嫌われるはあってはならなかった。
わたしは、人に優れ、敬われる人ではないとならなかった。
なぜ、そんな文言がわたしの額に刻まれたのか?
貧しい農家だったから?閉鎖的な村だったから?
今もってわかりません。
ええ、わたしには出来ないこと、欠けていることがいっぱいあるのです。
それをわたしは、ずっと亡き者にしようとしてきた。
でも、亡くなりませんでした。
弱さは、わたしそのものだからです。
この弱さと生きると覚悟するにはとんでもない時間がかかっています。
だから、遠藤さんのお話はとても他人事として読めませんでした。
じぶんが、キチジローだったら、ロドリゴだったら、どうだったんだろう?
踏まなかったのか?いや、踏んだ?
昨夜の記者会見とは違って、命が掛かる。
だから、わかりません。
でも、このお話が胸を突き上げるてくるのは、わたしが弱さを未だじゅうぶんには受け入れていないからでしょう。
すこし慰めにいえば、わたしはじぶんが弱いとようやく認め始めたのです。
弱っちいのです。
P.S.
島原の乱は、1637年(寛永14年)から1638年(寛永15年)まで、島原・天草地域で引き起こされたとあります。
弱き者たちが立ち上がった。
そういう先祖たちを頂いているわたしたちです。
他者を蹂躙する者は、また、自身を偽る。
去る時に、胸に悔いが残ると思うのです。
