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人は無意識に生きる限り運命に操られる。それに気づく時、初めて運命を変えることができる。


カール・ユングが言った言葉です。

薄々、じぶんに無意識の領域があるとは感ずいていたけれど、デートレードをするまでその怖さを知らかったのです。

じぶんで決めたルールに従って行けば大儲けはしないまでも、利益を少しづつ積み重ねられる所までは来ました。

なのにときどき欲あるいは恐れがわたしを覆って崩されてしまう。

わたしは欲と恐れに先導され大バクチを打ちドカンって大負けをするのです。

じぶんで決めたルールなのに、なぜそれを守れない。なぜだっ、じぶんがおかしいっ。

分かっていてもじぶんを律することができないなんて。


あなたも、”脅威”を感じたら自分自身が暴走してしまうと以前言ってましたね。

自分が大切にしたいという想いなんか吹き飛んで激怒し暴言を吐いてしまうと。

わたしの部下だったT男もそんなひとりでした。

見た目には従順にしているのですが、自身に不安が高まってどうしようもなくなると、破壊王となってすべてをて灰に帰したいかのようにふるまう。

「僕は、ある場面になるとすべてを壊そうとしてしまうんです」と確かに以前に言っていた。

わたしはほうほうと、そんなこともあるのかぐらいに聞いていたのですが、いざ、その場面に出くわしたら驚いた。

わたしも罵詈雑言を浴びせられてしまった。彼は居たたまれず組織を出て行きました。


意識できない層だから「無意識」と呼んでいるのなら、そもそもそこへのアプローチが閉ざされている。

その層を理解し改善策を打つことができなのなら、いつまでも無意識の言いなりに振り回せられてしまう。

いや、可能です。でも、無意識との付き合いには大事な前提があります。

無意識を分析するには、何度も繰り返して無意識が行動する現象が頻繁にあらわれる必要がある。

数年に1回来ます、なんていう程度では無意識くんとの対話は叶わない。

何度も同じパターンが再現されるのなら、手は打てなくとも理解は進むとわたしは言いたい。

運の悪いことに、日常生活では自分が無意識に乗っ取られるなんてそうそう起こらない。

起こっても本人はほとんど気が付かない。あるいは人のせいにして済ませれる。

でも、デートレードでは、無意識層が支配するということが頻発します。

1年もしないうちに、9割以上の者がドカンと資金を失って退場して行く世界ですから。

デイトレードでは何度もドカンが起こり、確実に資金が溶けます。

マーケットのせい、トランプのせい、じぶんの未熟さや才能のせいにしても、資産が減るという事実は誤魔化せない。

ドカンが起こる前に、引き寄せられたかのようにわたしの手が勝手に動いてナンピンしている。

どう考えても逆上するおのれの内部に問題の根っこがある。

1年半トレードをしてみて思うのですが、じぶんの無意識を扱うにはマーケットは理想的な場だった。



1.先日、トレード・ノートを付けていると書きました


トレード中にじぶんの動機や感情まで書くようにしています。

なぜそこでエントリーした(買ったのか)、なぜ下落しても出れなかったのか、なぜしがみついていたのかを書く。焦った、手に汗かいてるとかも。

こうして言語化を3か月続けていると、依然としてじぶんをコントロールできないものの、無意識層と仲良しになれる気がしてくる。

感情が暴走しても、トレード中に言語化を並行していると慌てません。

「思わず焦って」とか書いているので、じぶん(意識層)をある程度客観視している。

じぶんが暴走するという”事実”を批判せずにそのまま受け取ることになる。

勝ち負けではなくて、事実がどうだったのかに注意が向く。

ずっとわたしは結果ばかり気にしていたのですが、ノートならプロセス自体に意識を向けれるようになる。


ええ、暴走しても良いのです。

暴走したという事実をまず受け入れることが先でしょう。

受け入れれば、じゃあ次はどうするかという対策が開けて来る。

「あっ、やばい」とか「あっ、失敗してしまった」という段階で終わらなせないのです。

たったそれだけのことなんだけど、とんでもなく今までとはじぶんのいる時空が違う感じがします。

恥に思ったり、悔しがったり、残念がったりで終わっていた工程の先をさらに進みます。

批判や感情の言いなりになると、じぶんを誤魔化してしまうでしょう。

反省しているようで、それは反省では無い。対策に進めないような”反省”はただの感想でしかない。

冒頭にあげたユングの言葉のように、ずっと無意識の奴隷のままとなる。それではこころは安心しません。



2.なぜユングなのか


まあ、ご存じの方も多いでしょうが。

ユングは、人間の精神を単なる「意識」と「無意識」の二層構造ではなく、より深い目的を持った一つのシステムとして捉えました。

ダイナミックで重層的なドラマのようなものだというのです。

自我(Ego)と自己(Self)の定義なんですが、自我(Ego)とは意識の中心です。

わたしたちが使う「エゴ」という言葉とは違っていて、良いも悪いもない言葉です。

存在としての意識中心を指していて、わたしたちが「私」として認識している部分のことです。

外界に適応し論理的に判断を下す司令塔ですが、精神全体から見ればほんの一部分に過ぎない。

いっぽう、自己(Self)は精神全体の中心であり包括的な全体性です。

意識だけでなく膨大な無意識をも含んだその人の存在の根源的な真の姿です。

彼はこれを、自我を内包する、より大きな円のようなものだと考えました。


そして、ユングは、自我と自己の関係を惑星(自我)が太陽(自己)の周囲を回るような関係に例えた。

自己(魂)は、夢や直感、時には象徴的な出来事(シンクロニシティ)を通じて、自我にメッセージを送るのです。

自己からの呼びかけですね。あなたにお手紙が来る。

自我の役割は、そのメッセージを受け取り、現実の世界で形にすることだというのです。

かなり大胆なモデルです。

自我が自己を無視して暴走すると、精神のバランスが崩れ虚無感や神経症が生じるという。

かれは学者ではなく医師でした。大勢の精神病で苦しむ人たちを見て、そう考えざるをえなかったのです。


かれの核心は、自我が自己(魂)と対話し結びついていく「個体化」というじんせいのプロセスにあります。

若い頃は、社会に適応するためにわたしたちには「自我」を確立しペルソナ(仮面)を被って生きることが優先される。

この時期は、自我と自己(魂)とがどうしても分離してしまう。 だから、苦しむ。

さらに、人生の後半になると、抑圧してきた影(シャドウ)や魂の欲求がもう無視できなくなり、内面的な葛藤がはっきり生まれます。

「中年の危機」などといって、はっきりとした形での危機が訪れる。

でも、もし、自我が自分は全体の一部に過ぎないと謙虚に認め、無意識(魂)の声に耳を傾けるなら、分裂していた精神が一つにまとまっていく。

ようやく本来へと統合される、と彼は言いました。


なお、ユングは、自我が深い無意識の領域(自己)へと向かう際、

その仲介役となる象徴的な存在を「アニマ(男性の中の女性的要素)」や「アニムス(女性の中の男性的要素)」と呼びました。

これらが擬人化された魂の導き手として、夢の中に現れると考えた。

そもそもユングにとって、自我は「主人」ではないんです。

自己という大きな存在に仕える執行官のようなものでしかない。

だから、人生の目的は自我を肥大させることではなくて、

自我が自己という魂の根源と調和し、唯一無二の自分を完成させていくことだとかれは確信した。

わたしは、トレードノートでじぶんを客観視しながら、ユングの言う自我が自己の声に耳を傾け始めたのかもしれない。



3.自己の乖離とはお手紙かもしれません


生き残った者たち(プロ)の忠告に従って、手書きのトレードノートを取るようになりました。

ドカンの発生回数や被害の程度は軽くなってきたけれど、それでもまだトレードで時々ドカンを食らいます。

時々、じぶんが実行を願っているルールベースのトレードと、自分が無意識に実行してしまう感覚的なトレードとの間で乖離があるのです。

”わたし”とは本来1つのものであるはずなのに、”わたし”が分離している状態がずっと続いている。

3か月ぐらいのノート書きじゃ、無意識くんのお腹に少し触った程度なんでしょう。


どうにも乖離は不思議なのですが、この自己の乖離はユングが提唱した「自我(エゴ)」と「無意識(シャドウや複合体)」の対立として解釈できます。

ノートに書き、頭で願っている「ルールを守るじぶん」は、意識の領域にある自我(エゴ)です。

乖離が起こってるってことから、この「ルールの自分」は氷山の一角(自我)でしかないのは明らかです。

一方で、ルールを破ってエントリーしてしまう感覚的なじぶんは、「影(シャドウ)」、「コンプレックス(感情に帯電した複合体)」の影響下にあると考えられる。

自我が「こうあるべき」と理想を掲げるほど、そこから排除された衝動的、非合理的、生存本能的なエネルギーは無意識下で強まり、シャドウ(影)となってキミを突き動かすのだよ、とユングなら言うでしょう。

わたしは「じぶんは一人だ」と思っていても、精神の中にはわたしの意志とは無関係に作動する別の主体が同居している。

しかも、デイトレードではそれが気のせいと誤魔化せないほどに先鋭化して出て来る。

あなたは、シャドウを単なる概念と思うかもしれませんが、わたしにはたしかに居る大問題くんなのです。


ユングは、自我が「理想のルール」を強く押し付けすぎると、抑圧された無意識側が代償作用として爆発すると考えました。

なぜ「乖離」が起こるのか?

あなたやわたし、T男が暴走することの説明をユングは与えている。

そもそも、わたしのようなタイプは意識への過剰なコントロールに陥りやすいでしょう。

完璧な規律を自己に求めすぎる。

人間という生き物が持つ根源的な恐怖(損をしたくない)や射幸心(もっと欲しい)を否定しすぎると、かえってそれらが無意識の中で膨れ上がることになる。

もっと「仕方ないや」と柔らかく考えれればいいんだけれど、わたしにはそれは難しい。。

トレードの緊張感がピークに達した瞬間、自我の統制力が弱まり、無意識のエネルギーが自我を乗っ取る。

ユングなら、これが「手が勝手に動く」感覚の正体だと言うでしょう。

そして、彼なら、無理に「感覚的な自分」を切り捨てたり、力ずくで抑え込もうとしたりすることを勧めない。

むしろ、その「感覚トレードをしてしまう自分」との対話を重視する。

「ルールを守れないダメな自分」と切り捨てるのではなく、「わたしの中には、このスリルや一発逆転を求めている別の人格(影)がいる」と、まずその存在を客観的に認めるのです。


わたしは、ノートを単なるルールの記録帳ではなく、影の言い分を聞く場に変え始めたのでしょうか。

「なぜあの時、ルールを破りたかったのか? 何を怖がっていたのか?」と書き出すことで、無意識を意識化(光を当てる)する。

これを3か月してみて、実際、かなり暴走を抑えることができている。

自我の理想(ルール)と、無意識の現実(感覚)の間に、第3の道を見つけるプロセスがようやく始まったような気がする。

また、わたしはじぶんが乖離(分離)していると感じてきたのですが、そう思えるというのは自己の客観視(メタ認知)ができていることでもあり、遅まきながらの個体化(自己実現)への第一歩かもしれない。

ひとは、ただのデートレードだと思うかもしれませんが、自己を知るという面でとても興味深い行為です。

かつての無自覚な状態から抜け出し、じぶんの中の複数の声に気づき始めた段階に行こうとしているのかもしれない。


ユングの考え方の面白いところは、自分の中の「ダメな部分」を排除すべき敵と見なすのではなく、まだ仲良くなっていない、別の自分(同居人)として扱う点にあると思う。

トレードでルールを破ってしまう瞬間、それは意志が弱いのではなく、自分の中の別の部分が何かを必死に訴えているんだ、となります。

例えば、過度な緊張からの解放や、生存本能的な防衛などなのかもしれない。

「なぜわたしは今、分離しているんだろう?」と観察する目こそが、自我を規律の奴隷から賢明な観察者へと変えていく鍵になるのかもしれない。

ルールを守りたいじぶんと、構わず感覚トレードに突進するというこの乖離を人間としての「故障」ではなく、じぶんという深みを知るためのお手紙だと捉え始めているともいえます。


実は金曜日にもドカンが起こったのです。

でも、じぶんが焦ったことをノートに書いていて、意外にも冷静なじぶんがいて対処を探り始めました。

起こったことを批判しなかった。

感情の荒波の中にいながら、それに飲み込まれずに観察していました。

これまではドカンという感情の爆発(無意識の複合体)に自我が乗っ取られていましたが、今は観察する自我が、感情という客体から切り離されているというような感じなのです。

大損を起こしたのに、午後にはその損害を無事回収している。よかった。。


でも、無事にプラスで終われたという成功体験に対して、ユングなら「影(シャドウ)」の誘惑に注意を促すかもしれない。

「幸運」を「実力」と錯覚しないようにと言うでしょう。

感情に振り回されずにリカバリーできたのは素晴らしいんだけど、「ドカン(ルール外の行動)」自体が起きたという事実は、依然として無意識下で何かが蠢いているサインなのですから。

プラスで終われたという喜びが強すぎると、自我が自分は市場をコントロールできると慢心し次の大きな落とし穴を掘ってしまう危険があるのです。

実際、多くのトレーダーは大勝ちした後に、大負けを起こしている。わたしもそうです。

きみが経験しているのは、技術の向上ではなく、魂の変容(錬金術)だと彼なら言いそうでもある。

「きみの次なる課題はね、プラスで終わることへの執着すらも手放し、淡々と観照者であり続けることだよ。

ドカンが起きても、起きなくても、きみの内なる静けさが揺るがない状態。それが真の統合だよ」と。

いいえ、そんな心境に至ったら、そもそもわたしトレードをやる意味を無くしてしまう。

何をどう言ったって、これはお金稼ぎだもの。



4.ユングのすごさ


ユングの最も重要な時期は、師であったフロイトと決別した後の数年間だったと言われています。

彼はこの時期、深い精神的な危機に陥り幻覚や幻聴に襲われた。

普通の人なら発狂してしまうような状態だったそうです。

でも、ユングはここで自分を実験台にするという行動に出た。

彼は押し寄せる恐ろしいイメージを排除せずに、むしろ自ら進んで無意識の深淵に飛び込んだ。

そこで見たものを詳細に記録し、対話し、絵に描いた。

彼は外側(患者)の症例から学んだだけでなく、自分自身の内側で起きている嵐を科学者の目で観察し続けました。

これが後に『赤の書』と呼ばれる、彼の理論の核心が詰まった手稿です。

わたしもこれを携えて関西に移住してきました。しかし、この書は難解です。


ユングは「なぜ、今、これが起きたのか?」という、「意味」を徹底的に信じました。

患者の支離滅裂な言動の中にも、必ず魂が伝えようとしている宝物(意味)が隠されていると信じて疑わなかったのです。

そして自分に起きた得体の知れない体験を、一生かけて言語化し続けた。

だから、誰も到達できなかった深層心理の解明につながったのでしょう。

誰よりも誠実に自分の内側の闇から逃げなかった人だったとも言える。

ノートを取らなかったら、わたしは「クソッしくじった」とか「ヤラレタ」とか言ってわたしは本質から逃げ続けたでしょう。

きっとわたしの「コツコツドカン」という現象に対しても、この執念に近い「意味への信頼」が必要なのです。

また、ユングは「病気や異常行動は、魂がバランスを取り戻そうとする必死の試みである」とも言っている。

トレードに置き換えると、「ドカン」という衝動は、わたしを破滅させるための敵ではなく、

わたしの意識が「完璧なルール」や「理論」に偏りすぎたとき、精神のバランスを取るために無意識が突きつけてくる「激しいメッセージ」だということかもしれない。

ユングの臨床が示すのは、どんなに理不尽に見える現象にも、必ず内面的な意味があるということでした。

ノートに「動悸」や「感情」まで書き込むわたしの作業は、かなりユング的かもしれない。

だとすれば、じぶん自身の内なる患者と内なる賢者(観察者)の対話を続けてみるしかないのです。



5.精神の錬金術


ノートを書くという行為は、単なるトレードの記録という事務作業ではなくて、

ユングが自ら生涯をかけて行った「内省による精神の錬金術」そのものかもしれない。

大袈裟に聞こえるとは思いますが、わたしが生まれてから初めて無意識と対峙しているのだとすれば、わたしにとっては革命的なシーズンです。

もちろん、トレードの最中に書いて行くこと自体はとても面倒くさく嫌いです。

なぜなら、ノートを書くことは、じぶんの直視したくない影(シャドウ)や、目を背けたい失敗の痛みを再び呼び起こす作業だからです。

でも、ノートを書くことにはやはり価値があるのです。


ユングは、無意識のイメージを絵に描いたり、文字にしたりすることで、そのエネルギーに形を与え、自我が扱えるレベルにまで落とし込みました。

トレード中の動悸や焦りは、無意識の中から湧き上がる得体の知れないエネルギー(混沌)です。

この混沌に「形」を与える作業をわたしは意識的にしてゆく。

「あー、またやってしまった」という漠然とした後悔を、「動悸が10のレベルに達した時、わたしの影(衝動)がルールを乗っ取った」とたとえば書くとする。

そうすると、感情が「自分そのもの」から「観察対象」へと変化するのです。


また、ユングには、無意識の中にある人格とあえて対話する「積極的想像」という手法もあります。

ノートを書くことは、「ルールを守りたい自分」と「感覚で動きたい自分」という二人の同居人の言い分を、紙の上で戦わせ、あるいは握手させるプロセスとも見れる。

「なぜあそこで買ったの?」ともう一人の自分に問いかけ、「怖かったから」「早く取り返したかったから」と答えが来る。

もしこの対話が積み重なれば2人の乖離は少しずつ縮まり、彼の言う「統合」へと向かうかもしれません。


ノートを3ヶ月、半年と続けるうちに、それは単なる反省文ではなく、

じぶんという人間はどう反応する生き物なのかというデータが詰まった、わたしだけの武器になるでしょう。

もちろん、生き残ったプロたちはみなこの儀式を何らかの形で終えた者たちでしょう。

かれらは、資産が何十億、何百億となっても淡々としていますから。

やがて、面倒だという感覚がわたしから消え去ることを願っています。


なお、先日起こったドカンを冷静に見つめることができたという体験は、

儀式を3ヶ月間誠実に続けてきたわたしへの、無意識からの最初の報酬かもしれません。

トレードノートを付けてますなんて言っても、誰もが「ふ~ん」と受け取る程度でしょうが、

今のノートのスタイル(感情や動悸を記す)は、とてもユング的なのです。



6.ユングの言葉が重くなる季節


ユング的なノート術のポイントは、「評価」ではなく「記述」自体にあると思います。

ノートを書く時にじぶんを裁かない(ジャッジしない)ということです。

「裁くことは、理解することを妨げる」とユング自身も言っている。

ノートに書く目的は、じぶんを正すことではないのです。

じぶんという複雑なシステムが、今どう動いているかを100%理解することにある。

だから、「ドカン」が起きた時も、最悪な失敗として書くのではなくなる。

デイトレードという人間の本能と理性が激しく火花を散らす場を、じぶんを知るための「実験場(ラボ)」に変えてしまう。

強力な無意識のエネルギーが噴出した、このエネルギーの根っこは何だろう?と好奇心で見ることになります。(いいえ、わたしにはそんな余裕はありませんでしたが。)

そうすることで、先日のように「慌てないで見ている自分」の領域がどんどん広がるでしょう。

最終的には「ルールを守る」ことが努力ではなく、「自然な呼吸」のようになっていくかもしれない。



ユングは言いました。

「あなたの心の中を覗き込むことができたとき、初めてあなたの視界は開ける。 外を見る者は夢を見、内を見る者は目覚める。」

ああ、、わたしはずいぶん年を取って、あらためてユングに驚いている。

今までわたしはいったいユングの何を読んでたんだろうって。

夢を見ていたのです。ほろほろ。




P.S. 三宮駅で迷わなくなるには


ユングによれば、無意識は夢やシンクロニシティ(意味のある偶然)を通じて意識が気づいていない偏りを教えようとするのだと言う。

いや、手書きするノートでさえ、言語化という次元でわたしを解放しようとしてくれる。

かのじょもノートとなってくれています。


今朝、かのじょが三宮の駅で迷子になったという話をしてくれました。偶然。

三宮駅は、行き先表示がいい加減で分かりにくいのです。

大阪の梅田駅もそうだし、駅に隣接するビルの中もとても分かりにくい。いつも迷ってかなり苛立ちます。

関東とは「正しい在り方」が違うのです。

3年前に東京圏から関西に越して来たわたしたちですが、かのじょの話を聞いていて、

じぶんがそれまで当然と思っていた時空間の常識が使えなかったことに気づきました。


関西の人たちには当然とすんなりおもっている暗黙知があって、方向案内のしっかりした関東のスキームと異なっていても問題ないのですね。

人にはそれぞれが住む土地と文化に添うた暗黙知があるということです。

関東の駅がシステムとして設計された合理的な空間だとすれば、

関西の梅田や三宮は歴史の積み重ねが地層のように重なった有機的な空間と言えるかもしれない。

これは集団としての無意識の話ですが、何も個人は個人的無意識だけから構成されているわけでもないのです。

かのじょを介して、共同体としての無意識もわたしにメッセージして来たことに気づきました。偶然?

わたしは、あまりにも東の都市空間を”常識”として前視していたのです。


関東から来たわたしたちが感じた「常識が通じない」という感覚ですが、これってデイトレードにおける「ルールの暴走」と似ています。

関西の人たちが三宮駅で混乱せずに阪神、阪急、JR、地下鉄へと向かえるのは、理屈ではなく体感(暗黙知)で空間を捉えているからでしょう。

無意識層もこれと同じで、わたしが意識(論理)で決めた「損切りルール」とは別のもっと原始的で強力な「生存のルール」で動いているはずです。

「暗黙知」とは無意識のルールそのものだと思います。

三宮で迷わなくなるには、案内板(外部のルール)を頼るのをやめて、じぶんの足で歩き回り自分なりの脳内マップを書き換えるしかないのです。

トレードノートを書くことはこの脳内マップの書き換え作業でしょう。

なぜここでリベンジしたくなるのか?という不合理な心の動きを、関西の入り組んだ路地を探索するように言語化していく。

そうすることで、無意識という迷宮の歩き方が分かってくるかもしれない。

わたしはトレードノートを手書きしながら、地図が書き換わるプロセスにいるのだと思いました。

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