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明後日の方を見ろ!


1.もう何年も小説が読めなくなっていた


先日、ある若い作家さんの記事にコメントした。

公開されたのは、小さな小説だった。

見事なエッセイを書く方です。出来事中心のエッセイからスタートした。

なので、その方は小説作りに高い壁を感じているんだろうなってわたしは思ってた。

実際、その方、恩師からも出来事中心はいつか行き詰まるだろうと忠告されていた。

小説をどう書いたんだろう?

わたしは、興味深く読み始めた。

ぐだぐだと書いているのなら、さっさと読むのを辞めちゃおうって思いながら。


そしたら、すらすらと最後まで読まされた。

勢いが続き、意外な最後。伏線がすべて回収されてた。

主人公の考えが時々書かれていますが、人たちは基本、その行動が描写される。

読み手のわたしに想像の余地がうまれます。

勝手にわたしはイメージを膨らませながら読んだ。

作家の想いが最後に明かされ、読み手はその想いに浄化される。。

ああ、、小説ってすごいなって思った。

おもわず、わたしはコメントした。


その作家さんは素直な方です。

公開する時は、吐くほどに苦しいという。

想いは伝わるんだろうか? こんな表現でいいんだろうか?

さんざん迷う。手元に秘して置きたいけど、それじゃ誰も読んではくれない。

しかも、家族の生計を一手に抱えている身なので公開しないと何も始まらない。

で、公開した。わたしのコメントに喜んでくださった。



2.わたしはおじいさん、なのか


わたしのコメントは、60歳半ばなのですがと年齢があまりに違う詫びを最初に入れた。

年上の者が知ったかぶりに評するなんて、そんなの最低だ。いらやし過ぎるっ。

公開するってどんなに怖いことか。すごく勇気がいったでしょう。

ほんとは、走り出したばかりの作家さんにコメントなぞ、してはだめなのです。

だから、わたしもエッセイ中心なのに小説書けたらいいなぁってずっと思って来た者として、同じ目線でコメントしたかった。

一気に読まされたこと、泣かされたことをわたしは書いた。

そしたら、作家さんは感激しましたってして来た。えっ?

60過ぎでインターネットにある小説を、しかも感想まで書いてくれるなんてって。

きっと紙の方が慣れ親しんでこられた媒体なのに、それを飛び越えて、

時間を使って心を寄せてくださったことが本当に嬉しくてたまりません、と。

お~い、おいおいっ!

60過ぎても、ばりばり読みますっ。

インターネットなんて、お茶の子サイサイっ。1990年の黎明期から使ってますって。

ああ、、30歳の人にとって、60代というのはチョーおじいさん、なんだな。

がっくりした。


恐れながらと、コメントでわたしはある先輩作家のジャンルが似合いますと薦めてもいた。

意外にも、その方もその先輩作家が大好きだという。

自分の作品を読んだ60代の人がそんなジャンルが似合うのではと書いてくれた、

このまま目指して書いたら良いものになるような自信もわいてきたという。

がんばります!わたしがいつか何かになったら、ワシの感想が育てた、と仰ってください!とその方、結んだ。

おお、、ちゃんと読者にプレゼントまで用意してくれるのか。

がっかりもしたけど、また、誠実な返信にワシも嬉しかった。ワシ??


3.いや、確実におじいさんになってる


完全に退職しシニア向けマンションに住んでます。

そこは、シニアというぐらいだから、80歳を中心として103歳までいる。

800人ほども居るのに、老人しかいない空間ってちょっと怖い。

昨日まで勤めていましたなんていう60代はいなくて、わたしはいつのまにかピチピチの若造の部類にいた。

ここは、どこの高齢者向けの施設とも似ていて男子がすくない。

おおよそ、3対1ぐらいに、先に男は死ぬので、やたらと女子の園でもある。

ふつうならいろいろ面倒見て欲しくなる75歳ぐらいから入居してくるんだそうです。

一番印象的なのは、みんな足、膝、腰がやられている。

杖ついたり、歩行器をヨロヨロ押している。人は足から死んで行く。

80歳くらいまでどうにか歩けても、そこからは骨折を繰り返してしまう。

まっすぐ伸びていた背中も、ぐにゃんと曲がる。

歩くたびに、ぜいぜい言う。


仕事を辞めると何がやばいかというと、満員電車に乗らなくなることかと思う。

足がすぐさま劣化する。これがほんとにやばいっ。

わたしは、電車に立たなくなってすぐに膝痛になりました。

1時間ほどの散歩をしますが、どんどんと膝が劣化して行くのが分かった。

そういえば、あなた背が前かがみねと言われ、どきっとする。

ああ、、これって仕方無いのかなぁ。。

なんせ、800人近くも住むマンションで見回しても、すっと歩いてる人なんていない。

いや、何人かはなぜかすっとしている。



4.知っていると思い込んでいたことを外して行く


能狂言師の茂山千三郎さんが、「和儀」というYouTube塾で歩き方を教えている。

古来から伝わる”歩き方”を教えてくれています。

狂言の力で日本に活力を取り戻したいと言う。

古典狂言の技法から生まれた健康法です。

歩き方なんて、わたし、知ってると思い込んでた。

なんせ、この歩き方で半世紀以上、歩けたんだし。

踵(かかと)歩きをしないのです。すり足をします。

狂言師の歩き方は、すり足で足の裏を置いて行くんですね。

つい80年ほど前まで、これが日本人の歩き方だった。

手をあまり振らないことで上半身もねじらず歩いていた。

あなたも能をちらりテレビで見かけたことがあるかと思いますが、今となっては独特の歩き方ですね。

むかしは草履(ぞうり)やゲタで歩いていたからそうなっていたのです。

なのに、西洋から靴が入って来て踵歩きばかりになった。手も前後に振るのがよし、とされる。

でも、踵から着地させると踵、膝、腰に全部ダメージを与えてしまう。

少し腰をかがめ、腿の後ろで押して行くように歩きます。

足から歩かずに身体から歩く。出来ます?

80歳、90歳になれば男も女も、かなり歩けない。それは当然だとわたしは思っていた。

わたしゃ、おじいちゃんじゃ無いっ!と言いたいんだけど、膝はたしかにヨボヨボになっている。

茂山さんの師匠である父は93歳まで現役で舞台に立っていたそうです。

93歳でもすっと動作できる。すごくないですか?


老化すると、ひとは動きません。

足の筋肉が衰え、関節の動きが悪くなり、脳もボケ、転ぶ。骨折を繰り返す。

と、杖や歩行器を使う人がかなり多いのは当然なのです。

今まで、満員電車で立つことが多かったわたしは自然と足の筋肉が鍛えられていた。

その足の筋肉が使われなくなった。

動かなくなると、動物は”動”くための機能を落として行く。

足の筋肉が膝を支えてくれないので、膝を痛めやすい。

わたしは年齢となり働くことを辞めたけど、その代償も大きかった。

わたしは、茂山さんが教える歩き方に変えました。

そしたら、膝が痛くなくなった。1時間ほど散歩するときも。

階段の上がり降りでひいひいいってたのが、気にしなくなった。

この歩き方は「ナンバ走り」というのだそうです。

飛脚が江戸から京まで、リレーしながらわずか3日で行っていたのは、このナンバ走りのお陰だった。

腰を少し低く構え続けるので、デコボコショックに耐えられます。

腿の後ろが前へと押して行くので、疲れにくく長時間走れます。


やり始めてから、わたしに3か月経ちました。

日本人がずっとしてきたというこの歩行は、たしかに優れていた。

姿勢をすこしかがめ、足の腿で前に進むことで、内筋も鍛えられる。

ひとが成熟するというのは、次元上昇のチャンスが起こるということだと思う。

いろいろ不自由が起こって来る。

のだけれど、その問題を1つ次元を上げて俯瞰できるようになる。

心身が衰えるという傾向から生き物は逃げれなくとも、精神は、スピリッツは別なのです。



5.次元がカチリと変わる


茂山さんは江戸時代から続く名門に生まれてます。

祖父・三世茂山千作(人間国宝)、父・四世茂山千作(人間国宝)に師事したわけです。

3歳の初舞台から50年以上狂言の一道を倦まず弛まず歩んできた方。

京都市在住、京都市出身。

気さくな方で、とてもチャーミングです。

血色の良い顔色、眼が子どもように生き生きしてる。

おお、、そんな年寄りってかっこよくないですか?


で、父から能狂言を仕込まれた茂山さんは、すごく叱られたそうです。

「なんじゃ、お前の歩き方は!それじゃ、ババ走りじゃ。」

(ババってウ〇コのことだと思う。もらしてしまい、ババ包みながら歩くその姿でしょう)

古来、日本では師匠はちゃんと説明してくれないんですね。見て盗めと。

で、頭の天頂と丹田(お腹)とコウモンの辺りを一直線に結んで歩く。

すっと一本になるんですね。そこで、すこし重心を下げる。

そうすると、前を向いてそそと歩くことになります。

で、また、父に叱られる。

「どこを見てるんじゃい!明後日(あさって)を見ろ!」

明後日って言われてもなぁ・・・

いったい、どこなんだって茂山少年は??になったわけです。

明日でもなく、明後日・・・


ある時、茂山さんはハタと気が付きます。

そうかそうか、明後日って自分を俯瞰して見ていろっていうことなんだなって。

自分=自我という行為の主役に成っていると、自然な動きができなくなる。

自意識過剰になる。

うまく演じられているんだろうか?お客さんは喜んでくれてるんだろうかとかとか。

そうじゃないと言ってたんだなっ。。

舞台では、自分を突き放して外から自身を観察し見守っているモードに入れというのです。

自分も観客の一人となって見ていると、損得無く自分の良い所もまずい所も見えてくる。

もし、芸の道でずっと修行するのなら、この客観視が出来るかどうかは分かれ道となるでしょう。

でも、父は「明後日(ささって)を見ろ!」しか言わない。

ぜんぜん意味が分からない、ということが彼に続いたそうです。

何年もその疑問に耐えたでしょう。


「頭で考えるのではなく、自分の感性や目に見えないものに素直に耳を傾け、

身を任せていくことで、よりよい人生の循環が生まれていくように思うんです」と彼は言います。

それはまさに古来日本人の教え方です。

師匠や権威が偉いんではない。文豪や先輩作家が偉いんではない。

ついマネをしたくなるんだけど、それでは自分の責任を放棄してしまう。

自分の生は自分にしか負えないのです。

もっと自己を頼みとして生きないといけない。

自分に才能が無いからだ、世間は理解してくれない、お金が無い、働かないといけないとかいうのは、全部言い訳。。

わたしたちは、問題を見つめるのだけれど、同じ次元でぐるぐる回ってしまいます。

どう生きるのか?

なんでも分類し、分析し評価してしまう西洋のやり方ではブレークできないことも多々あるのです。

ホールネスとしての”わたし”を生かし、”あなた”と供に生きるには、科学技術のハウツウでは足りない。

身を任せなくなると、不安ばかりになります。自我が立ってしまうとうまく行きません。


いろいろ苦しんだ先に、すっと次元が上がることが起こる。

それはいくつになっても目の前で起こります。

もちろん、うんと悩み苦しまないといけない。

その集中にひとり耐えないといけない。

それは自分のための生だから。

でも、ぜったい諦めないで欲しい。



P.S.

ほら、おじいさんだって、インターネットで5000文字は書きますっ。



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