ハーレム歴史散策
ニューヨーク滞在中、滞在10日はマンハッタンの観光地ではなく、マンハッタン島北側のハーレムの街を歩いてみることにしました。
ハーレムというと怖い感じがしますが実はオランダのハールレムがその名に起源になっております。
大雪に悩まされた今回の滞米になりましたが、幾度となく利用したメトロノース鉄道に乗ってマンハッタンへ向かいます。窓の外には冬のハドソン川。静かな車内で、ニューヨークの日常の空気を感じながらの移動です。

マンハッタンに着いたあと、セントラルパーク北東角にあるデューク・エリントン・サークルにも立ち寄りました。
ここにはジャズの巨匠、デューク・エリントン(1899-1974)の像があります。かの有名すぎる"キャラバン""A列車で行こう"で知られる師は大変な親日家でもありました。
この場所から北へ少し歩くと、ハーレムの街です。学校や建物にはジョン・シングルトン(1968-2019)の映画を彷彿とさせる壁画が続々と。

今回ハーレムで最初に訪れたのは、やはり
アポロ・シアター。
ジャズやソウルなど多くの音楽家が"アマチュアナイト"なる登竜門を期に登場した伝説の劇場ですが、残念ながらこの日は工事中。外観を見るだけになりました。ここを愛したジェームズ・ブラウン(1933-2006)の追悼式が行われた場でもあります。建物本体は1913~14年映画館として建てられたのにはじまります。
その後はハーレムの住宅街を歩きながら、ハーレムルネサンスを代表した文化人ゆかりの場所をいくつか訪ねました。

まずは詩人ラングストン・ヒューズ(1902-67)の住んでいた家から。彼は20世紀のアメリカ文学を代表する詩人の一人で、黒人文化の自信や誇りをテーマに多くの作品を書いた人物です。彼はジャズやブルースといった黒人音楽のリズムを詩の中に取り入れ、"ジャズ・ポエトリー"と呼ばれる独特のスタイルでも知られています。

続いては西135番通り沿いにある小説家クロード・マッケイ(1890-1948)の家。ジャマイカ生まれのマッケイは、1920年代の文化運動を代表する作家の一人です。特に有名なのが1919年に書かれた詩"If We Must Die"です。この詩は人種暴動が続いた時代に書かれたもので、「もし死なねばならないのなら、誇りをもって戦おう」という強いメッセージを持つ作品です。後には第二次世界大戦中に英首相チャーチルがが演説の中で引用したとも伝えられています。

さらに作曲家ウィル・マリオン・クック(1869-1944)の家も訪問できました。こちらは本当に何へんとつない家ですが、クックは19世紀末~20世紀初頭にかけ活躍した作曲家・ヴァイオリニストで、黒人音楽とクラシック音楽の橋渡しをした人物として知られています。またエリントンの師としても知られています。
住宅街の中にこうした文化史の人物たちの足跡が静かに残っています。

途中、マルコムX大通り-135番通角に偉容を見せるショーンバーグ黒人文化研究センターにも立ち寄りました。黒人文化研究の中心的な施設として知られる場所です。アートゥロ・ショーンバーグ(1874-1938)はプエルトリコ出身の歴史研究家で黒人文化やアフリカ系の歴史資料を数多く収集し、それが後にこの研究センターの基礎となりました。
ただ、この日はショップが休みで、中ではトイレを借りただけで外へ出ることに。残念に思っていたところ、後日ニューヨーク公共図書館にこちらの所蔵品も含む"Heritage"展に偶然立ち寄ることが出来ました。

その後も手袋を外すと悴んで痛くなる手をかばいつつ散歩を続け、作家で公民権運動にも関わった
ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン(1871-1938)の家、そしてメジャーリーグで人種の壁を破った伝説の選手ジャッキー・ロビンソン(1919-72)の家も訪れました。ともに公営住宅ですが、彼らに敬意を表し住宅名に名が冠されています。

文学、音楽、スポーツ、公民権運動。ハーレムの街を歩いていると、さまざまな歴史がこの地域に重なっていることを感じます。

そしてもう一つ、この日印象に残ったのがハーレムの1.5ドルピザ。物価の高いニューヨークでは、本当にありがたい存在です。
マンハッタン島内にいくつか出店されており、何回か利用させてもらいました。
夕方になると、再び地下鉄でマンハッタンを南下。

夜はSid Gold's Request RoomにてプロピアニストBen Easton氏とアイコンタクトを取りつつ即興コラボ。
ニューヨークの奥深さを感じた一日でした。
ちなみに滞在最終日には、ブルックリンのウッドローン墓地にあるデューク・エリントンの墓も訪れることができました。こちらの先人たちの墓についてもまた後日書かせていただきたいと思っております。
