竹田恒泰さんの「国史」教科書を読む シリーズ41 犬公方 徳川綱吉
五代将軍・徳川綱吉(1646~1709)は、家光の4男として生まれ、館林藩25万石の藩主でした。4代家綱に子供がなく、次兄の綱重(甲府藩主)が死去していたため、老中、堀田正俊の推挙で家綱が亡くなる直前に養子となり、江戸城に迎えられ延宝8(1680)年35歳で5代将軍に就任、宝永6(1709)年64歳で死去、在位約29年と比較的長い期間将軍を務めました。

綱吉は幼い時から大変賢く、父家光は「この子には学問をさせろ」と言っていたので、母親(側室)桂昌院は懸命に学問をさせていました。
「犬公方」と言われた五代将軍綱吉が定めた「生類憐みの令」は、世紀の悪法という印象をもって語られてきました。しかし、近年の研究では命を大切にする道徳社会を作ろうとした先進的なリーダーという再評価もあります。
辻斬り・切り捨て御免(武士による)、殺人、強盗、捨て子、病人の遺棄(行き倒れ)、虐待が横行していました。
1685年それを是正するための法、生類憐みの令を定めたのが始まりです。
その後約24年間、綱吉が亡くなるまで135回にわたって出され続けました。
捨て子がいれば労わるように、という主文から始まり、動物に危害を加えることを禁止した条文でした。
徐々に過剰になり、すべての残虐な行為を禁止し、蚊を殺してはいけない、魚を食べるのは控えろ、という厳しく細かい内容へとエスカレートしていきました。なかでも中野に作った犬小屋の敷地は約16万坪(東京ドーム11個分)、最盛期には保護された犬は8万~10万頭に及び、膨大な予算が投じられ、幕府の財政は圧迫、江戸市民の血税が宛てられるという始末でした。

*小姓の悲劇:自分の額に止まった蚊をたたいて殺したところ、綱吉は「生類を憐れむ心がない」と即座に切腹を命じ、その父親まで処罰されました。
*吹き矢でツバメを射て死罪:秋田藩の江戸留守居役の家臣が屋敷内のツバメを射落としたことが発覚し、死罪。藩主までも謹慎処分を受けました。
そのほか庶民までも、蚊やハエを殺した、弱った馬を道に捨てた、犬にけがをさせた、などの罪で八丈島へ流罪となりました。
*びんぼうで 犬をかまわぬ 飯を食べ:綱吉が戌年なのにかけて
*蚊を打てば 追放になる 春の風
*お犬様 拝む中野の 暑い空:市民の税金が犬の餌代に消える世を嘆く
1709年、綱吉が亡くなり、家宣はその10日後に生類憐みの令を廃止。
廃止された時の川柳
*日本を 今は裸で 蚊の食うなり :これでやっと蚊が殺せる!
*犬公方 ほえるな今宵 綱が切れ
6代将軍 徳川家宣:寛文2(1662)~正徳1(1712)年
宝永6(1709)年、48歳で将軍に就任、 1712年51歳で病死。

話は大阪城が落ちた時に遡ります。
家康の孫娘、千姫を侍女の松坂局が布団に包んで大阪城の外に投げ、侍女自身は石垣を伝って逃げます。
千姫はその後嫁いだ夫、本田忠刻の死後天樹院と号し北の丸に入り大奥で過ごしました。
家光の3男綱重は、天樹院のもとに預けられて育ちます。その時、侍女の松坂の局と綱重の間に男子が誕生、その子が虎松(後の綱豊)です。
5代将軍綱吉には嗣子がなく、3男綱重の子で綱吉の甥にあたる綱豊(家宣)が6代将軍になります。
千姫を命がけで大阪城から救い出した松坂の局を母とし、家光を祖父とした綱豊が、家宣と名を改めて将軍に就いたのが48歳の時でした。
「正徳の治」徳川家宣
家宣の侍講(君主に学問を講ずる役職)に就いたのが、新井白石、側用人に真鍋詮房を重用、理知的でクリーンな政治を目指しました。
・受刑者の釈放:約1万3千人に及ぶ
・犬小屋の撤廃、閉鎖
・魚、鳥の自由販売により物価が安定
しかし残念なことに家宣は3年で病没、跡を継いだ7代将軍はこれまたわずか3年で死去、続いて紀州からの8代将軍吉宗へと移行していきます。
