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竹田恒泰さんの「国史」教科書を読む  シリーズ49 世界史から見た明治維新(1)

白人に屈しなかったアジア唯一の国

ジョン万次郎(中浜 万次郎 晩年の写真)

「天」は人知を超えた「計らい」をするものだ、つくづく「椿と花水木ハナミズキ」を読んで思います。

津本陽著  椿と花水木

この本はジョン・万次郎(中浜 万次郎)の生涯を、津本陽氏が歴史小説として1994(平成6)年読売新聞に連載しました。読みやすく私の好きな本として長いこと手元にありました。今回、再び読もうと思い立ち本棚を探しましたが、どこへ行ったやら、まったく見当たりません。やむなく図書館で借りた次第です。

もし・この時・万次郎が日本にいなかったら幕末、維新の迫り来る外圧を無事に乗り切ることが出来たかどうか、最悪の場合、インドや清のように植民地という可能性も結果もありえたのではないかと思います。

ジョン万次郎の概略を簡単に紹介します。

1827年 万次郎は土佐の中之浜の貧乏な半農半魚の漁村に生まれ、寺子屋に通うこともできなかった。
1841年(14歳)アジ鰹船に乗り難破。無人島鳥島とりしまに漂着。約140日後、捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に救助される。船のジョンと名前の万次郎から「ジョン万」と呼ばれ、好奇心旺盛で英語を早く覚え、皆から可愛がられる。
1843年(16歳)ニューベットフォード(捕鯨船の拠点)に帰還。船長ホイットフィールドの養子のようにして迎え入れられマサチューセッツ州フェアヘブンで学校へ入る。
1844年(17歳)バートレット・アカデミーで航海士の勉強をし一等航海士の資格を得、首席で卒業。
学んだのは、航海技術、天文学、数学、測量学、造船技術など。
1846~49年 捕鯨船員、船長補佐として世界一周(7大洋)をする。
1849年(21歳)日本帰国を決意。資金を稼ぐためカリフォルニアの金鉱へ行く。十分な資金を得て、小船、書物、カメラ、測量器具、辞書等を購入。1848年に金鉱が見つかり採掘者たちは49ers(フォーティナイナーズ)と言われた。

1851年(23歳)琉球上陸。管轄の薩摩に送られ開明派の藩主 島津斉彬と対面しアメリカの様子等を話す。
土佐藩で藩主 山内容堂の命を受けて吉田東洋が聞き取りをし「漂客談奇」を出す。藩士たちに影響を与える。
この時土佐藩で士分(武士)の身分を与えられる。
1852年 (24歳)11年ぶりに帰郷。この時点で天才的な語学力を持つ万次郎は、サムライ言葉を習得しています。

封建制度の厳しい江戸時代でも幕末のこの頃は、たとえ最下級の漁民でも貴重な知識がある人材だと知るとすぐ武士に取り立てられ、直接大名とも話すことができました。清のアヘン戦争はすでに承知されていて、斉彬、容堂、幕府首脳たちは万次郎がもたらした情報の貴重さがわかっていました。

1853年7月8日 ペリー来航 <泰平の眠りを覚ます上憙撰(蒸気船) たった四杯(四艘)で夜も眠れず>
同年7月25日(25歳) 老中阿部正弘の要請で万次郎江戸へ。直参旗本の身分となり、中浜の姓が与えられる。
老中首座 阿部正弘、昌平黌学長 林大学頭、軍学者 江川坦庵たんあんなどの質問に的確に答える。
万次郎が米国大統領の名前やペリー提督の経歴を知っていること、大統領が4年毎の選挙で決まるなどに驚愕する。

江川坦庵は、ペリーの再来航の際に万次郎を通訳にするよう幕府に進言。

孫の資料より

万次郎の「アメリカには侵略の意図はなく、捕鯨船の薪水などの補給を要求しているに過ぎない」との主張を聞き入れ、幕府はペリー艦隊をむやみに打ち払わなかった。

万次郎は、オランダ軍学者・韮山代官の江川太郎左衛門(坦庵たんあん)の元で幕府の近代化を様々手伝う。
江川坦庵の推挙で「鉄(てつ)」を嫁にもらい家庭を築き、軍艦操練所の教授になる。

当時まともに英語が話せるのは万次郎だけでした。ペリーの通詞に適任とされましたが、水戸斉昭が米国側のスパイと疑い、蘭語の通詞からの妬み、老中阿部正弘は万次郎の米国帰還を心配し、結局ペリーの通詞の役から外されました。
2年後、ハリスが来ますがこの時も万次郎は通詞に選ばれませんでした。

ジョン万次郎が教育を受けたのがマサチューセッツ州、ぺリーが生誕した地が隣のロードアイランド州、ハリスが生まれ育ったのがニューヨーク州。マサチューセッツ州プリマスに清教徒たちがメイフラワー号で到着したこの辺は「東部エスタブリッシュメント」といって洗練された上品な英語を話す特権階級(WASP)の人たちが住むところでした。

もし、ジョン万次郎がペリーとハリスに会っていたならば、彼らは故郷ニューイングランドの発音で英語を話すジョン万次郎に親しみと敬意を持ち友好的な外交ができたに違いありません。
また高い知識を持つジョン万次郎にはハッタリや脅しは通用しません。ハリスの持ちかけた「通商条約」において、日本に不利となる多量の金の国外流出の仕組みなどすぐに見抜いたことでしょう。
残念ながら、幕府の首脳陣には理解できず、出自や身分、メンツなどにより彼を外しました。

私自身、ちょうど50年前建国200年の時ニューヨークに在住していて、ロードアイランド、ボストン、プリマスに小旅行のドライブした思い出のある大変懐かしいところです。

1860年(33歳)咸臨丸の航海士兼派遣団の通訳として万次郎、艦長の勝麟太郎、福沢諭吉ら計96人が乗船。
同じくポーハタン号に外国奉行の新見豊前守、副使の村垣淡路守、監察の小栗忠順ら幕府使節団らが乗船。

サンフランシスコで万次郎と小栗忠順が数週間行動を共にしました。能力主義の小栗が万次郎とさまざまなことを話したであろうと推察します。金貨の流出に関する不平等な条約是正などについても話し合ったと思います。

1870(明治3)年(43歳) 普仏戦争視察団の通訳として大山巌らと同行。サンフランシスコへ向けて出港。1869年の6月に完成したばかりの大陸横断鉄道でニューヨークへ向かう。

ロンドンにて病を発症し、やむなく1人日本へ帰国する。
その時マサチューセッツ州フェアヘブンを訪れ、22年ぶりにホイットフィールド(65歳)とその家族に再会。

その後、中浜万次郎は東京開成学校(東京大学)の教授に就任。7人の優秀な子供と多くの孫に恵まれる。
1898(明治31)年71歳没。

万次郎は14歳(漂流時)と19歳(一等航海士)の時合わせて地球を2周回り、サンフランシスコの金鉱発見の翌年日本人として初めて金を採掘、大陸横断鉄道ができた翌年鉄道で大陸横断(往復)をしています。その他航海は数知れず。
1人の人間が一生のうちであの当時、これだけのことを成し遂げたことに驚嘆します。

260年の鎖国から目覚め、開国、明治政府設立、幾度も多数の有能な人材を使節団や留学生として西欧に2〜3年間派遣しています。書物の学問同様、現地での学びが重要とされたそのモデルが、ジョン万次郎だったのではと私は思います。
(参照:渡部昇一著 日本の歴史・芳賀徹著 明治維新と日本人・竹田恒泰著 国史)

お読みいただきありがとうございました。次回もよろしく